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七章

2、薬袋

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 十センチ近くはあろうかというヒールが、螢の顔面に向かってくる。
 それをとっさに春見が手で払いのけた。

「あなたのことには口を出さない。ぼくのことにも口を出さない。それが結婚の条件ですよ」
「知らない! そんなの」

 まだ靴を履いている左足で、京香は重厚な木の机を蹴った。鋭く引っ掻いたような傷が、机に刻まれる。

「母屋に帰ってください。酔っ払いと話をする気はありません」
「元凶がいなくなれば、いいのよね」

 そう言うと、京香は横たわる螢に近づいた。
 何をするの? 問いかけたいのに言葉にならない。
 
 ずしりとした重みが、腹部にかかる。京香が、螢に馬乗りになったのだ。
 間近で見る京香の髪はぼさぼさで、顔にも手にも足にも切り傷や擦り傷があった。

 酔っぱらって転んだのだろうか?
 それにしては、怪我の様子が変だ。
 だが、まともな思考力を奪われた螢には、彼女の傷の原因を考える余裕はなかった。

「何を……する、の」
「さぁね」

 毒々しい赤いマニキュアを塗った指が、螢の首にかけられる。

「春見さんを奪ったあんたが悪いのよ。春見さんは私のものなの」

 指に力が加えられ、螢は目の前が暗くなるのを感じた。
 息苦しさに抵抗しようとするが、薬のせいでろくに手が動かない。

(だめ……このままだと……)

 意識が朦朧とする。
 もがくことも暴れることもできずに、螢はただされるがままになっていた。

「おとなしいこと。まるで人形ね」

 その時、激しい音が聞こえた。何かがぶつかって、割れるような。
 そして螢の隣に、京香がどさりと倒れた。

「大丈夫ですか、螢さん」

 春見が割れた壺を放り投げて、螢の元へ駆け寄った。

 首を絞めていた手から解放され、螢は喘いだ。
 息を吸おうとしても、咳きこんで上手くいかない。
 体の自由を奪う薬が、内部にまで作用しているのかもしれない。

「あ……あぁ」

 呼吸ができずに、螢の体は痙攣した。
 びくびくと、自分の意志とは無関係に、手や足が跳ねようとする。

 落ちていく感覚。このまま意識を失ったら、きっともう目覚めない。

「螢さん!」

 春見が慌てて人工呼吸をしようとする。けれど螢の口に息を吹き込んでも、それを吸うことはない。

「無理よ。その子、人形だもの。もう動けないわ」

 頭から流れる血を手で押さえながら、京香が上体を起こした。
 白くて細い指の間を、鮮血が赤く染めている。

「ふふ。春見さんって本当に素直。自分で計って薬袋やくたいにいれていたけれど。薬の量が増えていることにも気づかないなんてね。確認は、毎回自分でちゃんとしなきゃ」

「まさか……」
「使用人を信じすぎなのよ。馬鹿ね、そういうところがお坊ちゃんなんだわ」

 春見は螢を抱え起こした。

「薬を与えたのは夜だ。もう効果は切れていてもいいはずなのに」

 春見が螢の腕を上げるが、手を離すとすぐにだらりと落ちてしまう。

 浅い呼吸を繰り返すばかりで、螢の胸は上下するが、酸素が体にまわっていかない。

 自分を呼ぶ春見の声が、遠いところで聞こえる。
おぼろに見える春見の顔はとても不安そうで。幼い頃、花見の夜にカーディガンを貸してくれた姿と重なった。

(空蝉。ごめんなさい。わたし、あなたを助けに行けない)
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