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十章

14、手暗がり

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 今日の夕立はひどかったが、宵になる前に空はきれいに晴れ渡った。
 俺と翠子さんは知らなかったが、綺麗な虹が出ていたとお清が教えてくれた。

 夕食に出された貝柱と三つ葉の酢味噌和えを肴にしながら、俺は日本酒を飲んでいた。
 水のようにさらりとした酒だ。
 
 翠子さんは、海老の塩炒めを食べている。
 ぷりっとした歯ごたえの海老を口に入れると、微かに口許がほころぶんだよな。
 たぶん自分では気づいていないだろうけれど。なんでも美味しそうに食べる人だ。
 そういうところも、とても好ましいんだけどな。

「欧之丞坊ちゃん。かぼちゃが減っておりませんよ」

 お清に声をかけられて、俺は「うっ」と唸ってしまった。
 目の前に置かれたかぼちゃの煮物は、なぜか小豆が入っている。「いとこ煮ですよ」とお清は説明するのだが。
 ただでさえ甘いかぼちゃに、なんで小豆など。

 稲荷ずしもそうだが、和食は妙に甘い食べ物が多い。洋食では砂糖やみりんを使わないから、食後のデザートで糖分を補うそうだが。和食では食後に甘味を食べる習慣がないから、おかずだの惣菜だのが甘くしてあると聞いたことがある。
 余計なお世話だ。
 甘いものを食いたい者だけが、食えばいいのにと思う……などと言うと、間違いなくお清の小言が始まるだろう。
 
 平和な食卓の為にも、何も言わないことにしよう。
 俺は自分の前にあるかぼちゃの皿を、そっと翠子さんの方へ押しやった。

◇◇◇

 不思議です。なぜ食べ終えたはずのかぼちゃが、また一皿増えているのでしょう。
 ちらっと旦那さまの方を見ると、お皿が一つ足りません。

 もう、またそんなことをなさって。子どもみたいに。
 そう言おうとした時、お清さんが不気味なほどににこやかな笑みを顔に張りつかせて、旦那さまを覗きこんでおられます。

「欧之丞坊ちゃん。明日のお弁当のおかずが、かぼちゃだけになるのがお嫌でないのなら、別に翠子さんに差し上げてもいいんですよ」

 うわぁ。有無を言わせぬ迫力です。
 旦那さまは無言でうなずいて、かぼちゃを召し上がっておいでです。

 夕食後、お皿を流しに運んで、わたくしは洗い物をお手伝いしました。お清さんは「いいんですよ」と言ってくださいますけど。そ知らぬふりでお皿を置いてはいけません。
 旦那さまは結局、かぼちゃのいとこ煮を残さずに食べる羽目になり、よろよろと廊下を歩いていらっしゃいます。

 わたくしはお部屋に戻ると、課題の簡単小児服をとりだしました。
 型紙に沿って切った前身頃と後ろ身頃は、すでに前後をあわせてしつけ糸で綴じてあります。

 それを今度は、糸で縫い合わせていくのです。
 急いで縫ったりしては、細い糸が絡まってしまいます。くけ台のかけはりに布の端を挟んで、布をぴんと張って縫っていきます。

 これは将来、旦那さまとわたくしの子どもが身に着ける可能性があるんですもの、丁寧に作っていかないと……。

 そう考えて、赤ん坊を抱いた旦那さまの姿が頭に浮かびました。思わず顔が熱くなり、両手で頬を押さえてしまいます。

「翠子さん?」
「いえ、何でもありませんよ。どうぞ旦那さまは新聞をご覧になっていてください」
「いや、だが。顔が赤いぞ」

 机越しに顔を覗きこまれて、わたくしは旦那さまに背中を向けました。
 学校の皆さんは、何も感じずに子ども服を拵えているのでしょうか。わたくしは無理です。
 旦那さまとは夫婦同然に暮らしていても、やはり気恥ずかしいのです。

◇◇◇

 ああ、なんで後ろを向いたりするんだ。
 俺は、読んでいた新聞を床に置いた。

 部屋を照らす天井の明かりは、ちょうど翠子さんの手元を照らしていたのに。場所を移動したら、手元が暗くなるじゃないか。
 また針で指を刺したら、どうするんだ。

 大好きな少女雑誌も読まずに、翠子さんは課題の服を一生懸命に縫っている。
 だから手暗がりにならないように、ランプを持ってきて彼女の側に置いた。
 
 翠子さんは熱心に針を動かしている。しかも糸が絡まないように、一針一針縫うごとにちゃんと布の裏を確認して、これまでにない慎重さだ。
 その様子は大人びて見える。

 ちらっと構ってほしいという気持ちが、首をもたげた。
 だが、数学はきちんと解くように指導しているのに、裁縫の邪魔をするのは、教師としてはいかんだろう。
 他の教科も大事だからな。
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