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十章

13、こちらも夕立【2】 ※文子視点

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 家までの長い距離、わたしとその人はほとんど話をせずに歩いたわ。
 だって初対面ですもの、共通の会話があるわけではないし。それに大人の男性って、身内以外では高瀬先生くらいしか知らないわ。

 先生と翠子さん、この雨の中を一緒に帰っているのよね。どんな会話をしているのかしら。
 あの強面の高瀬先生と、ほんわかした翠子さんは釣り合わない印象だったけど。
 でも、きっと一緒にいて楽しいのね。楽しいと思える人がいるって、素敵ね。

 いつしか雷も鳴りやんで、雨脚も少し弱まったみたい。川面もさっきまでと違い、荒れることなく静かに雨を吸い込んでいる。

「自分、川が好きなん?」
「え?」
「いや、さっきから川ばっかり見とうし。それにいっつも川沿いを歩いとうやろ。いろんな橋を通るから、最初は橋が好きなんかと思たけど。ちゃうな。川が好きなんやな」

 立ち止まって、背の高いその人を見上げると、琥珀色の瞳にわたしの姿が映っていた。
 濡れた髪がはりついて、今のわたしは、すごくみっともないのに。
 とても優しくて穏やかな瞳で見つめられて、どうしていいのか分からなくなる。

 翠子さんみたいに『少女画報』や『少女の友』の実録ものを、たくさん読んでおくべきだったかしら。
 恋愛なんて経験もないし。って、何を考えているの? さっき初めて会った人よ。恋とか関係ないじゃない。

「あ、あなたは川は好きじゃないんですか?」
「質問に質問で返すとか。悪い子ぉやな」

 思わぬ展開に、わたしはびっくりして心臓が口から出そうになったの。だって「悪い子」なんて、十六年の人生で一度だって言われたことがないわ。
 髪を短く切った時だけ、少し大人びて悪ぶった気にはなったけれど。でも、誰かに咎められることもなかったし。

「す、すみません。えっと、川というか水辺が好きです」
「それは海でも湖でも?」
「海岸はよく行きます。湖は訪れたことがないですけど、たぶん好きです」

 早口で答えると、その人は小さく笑いを洩らした。
 なんで? おかしな返事はしていないわ。それとも濡れねずみのわたしが、みっともないのかしら。
 
「自分、素直やな。そういうとこ、可愛いで」

 わたしは顔がものすごーく熱くなるのが分かったわ。頬も首筋も熱くって、それに耳も千切れそうなくらい。
 
「か、かか……か、可愛いって? そう仰いましたか?」
「うん。言うたで」
「いやいや、空耳ですから」

 ぶんぶんと両手を振るわたしを、その人はにやにやと口許を上げて眺めている。

「じゃあ、空耳や思わんようになるまで言うたるわ。文子さんは可愛いで」
「『で』って、否定とか打消しの意味はありましたっけ」
「なんで急に古文の話になるん?」

 その人はちょっと考え込んだように、視線を上に向けた。その先には蝙蝠傘の骨しかないんですけど。

「『で』やったら、打消接続の接続助詞はあるなぁ。枕草子に『扇のにはあらで』で、『扇の骨ではなくて』って訳すんがあるわ」

 何も見ずに、すらすらと答えるものだから。つい、傘の内側に『枕草子』でも書いてあるんじゃないかって思ったわ。もちろん、黒いだけで何もないけどね。

「もしかして国語の先生ですか?」
「私が、教師?」

 その人は、ぽかんとした表情を浮かべた後「ちゃうちゃう」と顔の前で手をふった。

「教師とは真逆の仕事やで」
「じゃあ、学者さんとか文士さん」
「うーん。それも子どもの頃に憧れたけどなぁ。私は家業を継がなあかんかったし。文学は大学で学んだけど、結局は趣味にとどめといたわ」
「夢を諦めなきゃ、いけなかったんですね……」

 何気ないわたしの言葉だったのに。その人はふわっと柔らかく微笑んだの。さっきまでの人をからかうような笑いじゃなくて、とても優しく目を細めて。

「文子さんは優しいんやな」

 いつしか雨もやんで、西の空では光が煌めいていた。ちょんちょん、と肩を指でつつかれて、後ろを見るように指示される。
 振り返ったわたしは「うわぁ」と思わず声を上げたわ。

 まだ雨の気配の残る東の空に、虹が掛かっていたから。それも二重にかかる虹。
 激しい雨で大気は洗われて、虹の色は澄んだ明るさだったの。

「きれい」
「せやな。でもまぁ、今日はここまでやな」

 そう言うと男性は傘を畳んで、わたしにかからないように水滴を払った。

「ほな。後は気ぃつけて帰りや」
「あ、あの。ありがとうございます。えっと、背広を」
「ちゃんと着て帰り。夏風邪は長引くからな」

 ひらひらと手を振りつつ、彼は来た道を戻り始めた。もしかして、全然方向が反対なのに、わたしを送ってくれたの?
 広い背中を見送っていると、急に彼がふり返った。

「そや、あの猫な。エリスって名前にしてん」

 エリス? 猫?
 何のことか分からずに、わたしは首を傾げた。
 ふと背広に手を掛けると、内側の部分に刺繍があるのに気づいた。『三條』と端正な文字の刺繍だった。
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