144 / 247
八章
28、帰宅【1】
しおりを挟む
車窓の外は、いつしか見慣れた海が広がっていた。
海と山が接近している街なので風が強いのと、工業地帯ではないから空気が澄んでいる。そのせいで白い壁や煉瓦、それに赤い屋根の色がくっきりと明瞭に見える。
「呼吸がしやすいですね」
「空気がきれいだからな」
だが、翠子さんは浴衣の裾を気にしながら、俺の前に小走りで進んで振り返った。華やいだ笑顔が、午前の清らかな太陽に照らされて。俺は思わず目を細めた。
「旦那さまが一緒にいてくださるから、息がしやすいんですよ」
「言うね。君も」
「ふふ。どきっとなさいました?」
翠子さんの足取りが軽いのが嬉しい。柔らかに微笑んでいるのが嬉しい。俺に軽口をたたいてくれるのが嬉しい。
俺の顔を見上げながら歩く翠子さんに、にやけているのを知られたくなくて。俺は手で口元を覆いながら進んだ。
家に戻ると、お清と銀司が俺たちを迎えてくれた。
いや、正確には翠子さんを待っていたようだ。
「お帰りなさいませ。翠子さん」
「ご無事でよかったです。翠子さま」
お清と銀司に玄関先でぎゅううっと抱きつかれて、翠子さんは驚いて目を丸くしている。
「ただいま。お二人とも。でも、わたくしは大丈夫ですよ」
「いいや、大丈夫なもんか。三條組の若いヤクザに、縛り上げられていたじゃないですか」
「そうですよ。お清は生きた心地がしませんでした」
うん。二人の気持ちは分かる。俺も緊縛された翠子さんが車から降ろされたのを見たとき、頭に血が上ったからな。
「とりあえず、翠子さんを休ませてあげたいんだが。中に入れてもらってもいいかな」
俺の言葉に、お清と銀司は我に返ったらしく、ようやく翠子さんから離れた。
俺たちの部屋に戻ると、お清が翠子さんに冷やしあめを持ってきてくれた。それに彼女の好物のさくらんぼと琥珀糖も添えてある。どうやら朝から銀司に買いに行かせたらしい。
二人とも翠子さんのことが好きだよな。
俺は冷茶を飲みながら、翠子さんを眺めていた。
彼女は難しい顔をして、机に置かれた二つの皿を交互に見比べている。
一つにはさくらんぼ。もう一つには琥珀糖が載っている。
「好きな方から食べたらいいじゃないか」
「どちらも好きなので、甲乙つけがたいです」
「誰も取らないから、存分に悩みなさい」
彼女の言い分はこうだ。
さくらんぼよりも琥珀糖の方が甘い。なので先に琥珀糖を食べてしまうと、さくらんぼの甘みが感じにくい。
だが、さくらんぼはデザート的な意味合いもある。
さくらんぼを後に食べたい気持ちを優先させたいが、そうなると甘みを犠牲にすることになる……と。
頼むから、たまには数学の問題でそれくらい頭を使ってはくれまいか。
最近は公式を当てはめる基本的な問題は、解けるようになってきたが。応用が入ると、翠子さんはとたんに教室で固まってしまう。
俺もたまには部分点をあげるだけではなく、あなたの答案に美しい丸をつけてあげたいのだがな。
これは、そんなにも難しい願いだろうか。
「翠子さん。これをお返ししようと思いましてね」
お清が持ってきてくれたのは、かつて俺が翠子さんに与えたマフラーだった。確か箪笥の中にしまっているはずだったのに。どうしてお清がマフラーを?
俺の疑問を察したのだろう。翠子さんが説明してくれた。
「昨夜、とても怖かったんです。いくら演技と知っていても、ヤクザがおじさまと乱入してくるんですもの。だから、せめて心を落ち着けるためにとマフラーを出して、抱きしめていたんです」
「翠子さん……」
「旦那さまが一緒でなくとも、マフラーがあれば落ち着けると思って。本当は車に乗せられる時も、このマフラーを握りしめていたかったんです。でも、わたくしは縛り上げられて自由がききませんでしたし、絶対に失くしたくない大事な物ですから。家に置いておくしかなくて」
あの歓楽街で車から降ろされた翠子さんは、泣き喚いた様子もなくおとなしくしていた。
俺の顔を見て緊張が解けて、大泣きしたのだから。とてつもない恐怖を堪えていたのは分かる。
その我慢の原動力が、俺のマフラーだったとは。
俺は、こんなにもあなたに愛されて。どうしたらいいんだろうな。
本当に、俺は果報者すぎるだろ。
海と山が接近している街なので風が強いのと、工業地帯ではないから空気が澄んでいる。そのせいで白い壁や煉瓦、それに赤い屋根の色がくっきりと明瞭に見える。
「呼吸がしやすいですね」
「空気がきれいだからな」
だが、翠子さんは浴衣の裾を気にしながら、俺の前に小走りで進んで振り返った。華やいだ笑顔が、午前の清らかな太陽に照らされて。俺は思わず目を細めた。
「旦那さまが一緒にいてくださるから、息がしやすいんですよ」
「言うね。君も」
「ふふ。どきっとなさいました?」
翠子さんの足取りが軽いのが嬉しい。柔らかに微笑んでいるのが嬉しい。俺に軽口をたたいてくれるのが嬉しい。
俺の顔を見上げながら歩く翠子さんに、にやけているのを知られたくなくて。俺は手で口元を覆いながら進んだ。
家に戻ると、お清と銀司が俺たちを迎えてくれた。
いや、正確には翠子さんを待っていたようだ。
「お帰りなさいませ。翠子さん」
「ご無事でよかったです。翠子さま」
お清と銀司に玄関先でぎゅううっと抱きつかれて、翠子さんは驚いて目を丸くしている。
「ただいま。お二人とも。でも、わたくしは大丈夫ですよ」
「いいや、大丈夫なもんか。三條組の若いヤクザに、縛り上げられていたじゃないですか」
「そうですよ。お清は生きた心地がしませんでした」
うん。二人の気持ちは分かる。俺も緊縛された翠子さんが車から降ろされたのを見たとき、頭に血が上ったからな。
「とりあえず、翠子さんを休ませてあげたいんだが。中に入れてもらってもいいかな」
俺の言葉に、お清と銀司は我に返ったらしく、ようやく翠子さんから離れた。
俺たちの部屋に戻ると、お清が翠子さんに冷やしあめを持ってきてくれた。それに彼女の好物のさくらんぼと琥珀糖も添えてある。どうやら朝から銀司に買いに行かせたらしい。
二人とも翠子さんのことが好きだよな。
俺は冷茶を飲みながら、翠子さんを眺めていた。
彼女は難しい顔をして、机に置かれた二つの皿を交互に見比べている。
一つにはさくらんぼ。もう一つには琥珀糖が載っている。
「好きな方から食べたらいいじゃないか」
「どちらも好きなので、甲乙つけがたいです」
「誰も取らないから、存分に悩みなさい」
彼女の言い分はこうだ。
さくらんぼよりも琥珀糖の方が甘い。なので先に琥珀糖を食べてしまうと、さくらんぼの甘みが感じにくい。
だが、さくらんぼはデザート的な意味合いもある。
さくらんぼを後に食べたい気持ちを優先させたいが、そうなると甘みを犠牲にすることになる……と。
頼むから、たまには数学の問題でそれくらい頭を使ってはくれまいか。
最近は公式を当てはめる基本的な問題は、解けるようになってきたが。応用が入ると、翠子さんはとたんに教室で固まってしまう。
俺もたまには部分点をあげるだけではなく、あなたの答案に美しい丸をつけてあげたいのだがな。
これは、そんなにも難しい願いだろうか。
「翠子さん。これをお返ししようと思いましてね」
お清が持ってきてくれたのは、かつて俺が翠子さんに与えたマフラーだった。確か箪笥の中にしまっているはずだったのに。どうしてお清がマフラーを?
俺の疑問を察したのだろう。翠子さんが説明してくれた。
「昨夜、とても怖かったんです。いくら演技と知っていても、ヤクザがおじさまと乱入してくるんですもの。だから、せめて心を落ち着けるためにとマフラーを出して、抱きしめていたんです」
「翠子さん……」
「旦那さまが一緒でなくとも、マフラーがあれば落ち着けると思って。本当は車に乗せられる時も、このマフラーを握りしめていたかったんです。でも、わたくしは縛り上げられて自由がききませんでしたし、絶対に失くしたくない大事な物ですから。家に置いておくしかなくて」
あの歓楽街で車から降ろされた翠子さんは、泣き喚いた様子もなくおとなしくしていた。
俺の顔を見て緊張が解けて、大泣きしたのだから。とてつもない恐怖を堪えていたのは分かる。
その我慢の原動力が、俺のマフラーだったとは。
俺は、こんなにもあなたに愛されて。どうしたらいいんだろうな。
本当に、俺は果報者すぎるだろ。
0
お気に入りに追加
1,474
あなたにおすすめの小説
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】
remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。
干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。
と思っていたら、
初めての相手に再会した。
柚木 紘弥。
忘れられない、初めての1度だけの彼。
【完結】ありがとうございました‼
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる