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八章

20、旅館【1】

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 工業地帯の町ではあるが、少し郊外に行くとそれなりに立派な旅館がある。
 おそらくは会社の接待に使われるのだろう。

 仲居が部屋に案内してくれたが、黒光りのする廊下を歩いている時も、部屋のふかふかした厚みのある座布団に座っても、まだ翠子さんは泣きじゃくっていた。

 すでに涙は涸れているのに、しゃくりあげるのが止まらないようで、ずっと手で顔を押さえている。

「お茶を淹れたよ。少し飲めば落ち着くだろうから」

 湯気の立つ湯呑みを、俺は座卓の向かいに座る翠子さんの前に置いた。緑茶の匂いのする湯呑みに手を伸ばすかと思いきや、翠子さんは立ち上がってこちらへ来る。
 俺の後ろにまわったと思うと、背中にぴったりとくっついて座った。

 シャツの布地越しに、彼女の手と頬がしゃくりあげるたびに動くのが伝わってくる。

 室内は行灯が灯され、床の間には名前は知らんが夏っぽい赤い花が活けてある。
 その派手さといい、甘ったるい香りといい、静謐な部屋の雰囲気とは少々合わない気もするが。俺は花のことはよく分からないので、まぁどうでもいい。

 二間続きの、二人で使うには広すぎるほどのいい部屋だ。
 窓の外、遠くに工場の明かりが見えるので夜景はきれいだが。昼間の景色は、期待しない方がよさそうだ。

「背中でいいのか?」

 翠子さんはこくりと頷いた。

「そうか。俺は翠子さんが背中にいるのは、少し寂しいかな」
「ここで……ひくっ……いい、です」
「うーん。抱っこさせてもらえませんか? お嬢さま」

 頼んでみたが、翠子さんはただ首を振るだけだ。
 背中の方が安心するというのなら、別に構わないのだが。どうも、遠慮が勝っているような気がする。

 俺は体をねじって、翠子さんの脇に腕をさし入れた。短い悲鳴を上げる彼女を、そのまま膝にのせる。

「お嬢さまのご尊顔を拝謁することを、お許しくださいますか?」

 大仰な話し方をすると、翠子さんは小さくこくりと頷いた。まだしゃくりあげるのは治まらないようだ。

「光栄至極にございます」

 俺は胸に翠子さんをもたれかけさせて、卓の上の茶菓子を手に取った。包み紙をめくると、細長い求肥が現れた。
 指で、翠子さんの唇を軽くつつき、口を開かせようとする。

「食べなさい。落ち着くから」
「……もう、終わり……なんですか」
「なにが?」
「お嬢さまと騎士ごっこ……」

 もしかしてさっきの話の流れを気に入っているのか? というか、あなたの想像する騎士とは、あんな風なのか? 騎士は求肥など、お嬢さまに食わせんだろう。
 まぁ、何でもいい。
 すでに翠子さんが落ち着いていることに俺は安堵の息を洩らした。
 
「はい、お嬢さま。あーん」
「騎士は『あーん』なんて、言いませんもの」
「お嬢さま。わたくしめの膝にちょこんとお座りになっていらしては、威厳も説得力もございませんが」

「すぐそういうことを仰るんですから」

 翠子さんの指が、俺の眉間を押してくる。ぐりぐりと攻撃を仕掛けてくるが、やっと元気が戻ってきたのだと思えると、嬉しくてしょうがない。

「旦那さまは、わたくしに虐められるのがお好きなの?」
「どちらかと言えば好きかな」

 なぜなら、あなたの攻撃は全然痛くないからな。あなたの中に入った時に、爪を立てられて。それが痛いと感じるときはあるが。それもまぁ、嫌いではないし。むしろもっと爪を立ててもいいぞと思うくらいだ。

「ほら、ちゃんと口を開けて。じゃないと俺が食ってしまうぞ」
「旦那さまは、甘いものはお嫌いです」
「求肥じゃなくて、あなたを食うと言っているんだが?」

 翠子さんは慌てて求肥を口に含んだ。柔らかな求肥はさほど噛まずとも良いようで、すぐに食べ終えてしまう。
 
 お茶も飲ませると、翠子さんは俺の膝に乗ったまま、背中に手をまわしてしがみついてきた。

「今日はよく頑張ったな」

 涙の痕の残る頬にくちづけ、彼女の頭を何度も撫でる。離れていた時間は、半日も経っていないのに。本当に久しぶりに会ったような心地がする。
 疲れ切っている翠子さんは、すぐに静かな寝息を立てた。

 俺は彼女を抱き上げて、隣の部屋へと運ぶ。
 二つ並んで敷いてある布団に彼女を寝かせ、その隣で俺も横になる。
 片肘をついて彼女の方を向き、縄の痕の残る手にくちづけた。

 その時「入るで」という琥太郎兄さんの声が聞こえた。
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