136 / 247
八章
20、旅館【1】
しおりを挟む
工業地帯の町ではあるが、少し郊外に行くとそれなりに立派な旅館がある。
おそらくは会社の接待に使われるのだろう。
仲居が部屋に案内してくれたが、黒光りのする廊下を歩いている時も、部屋のふかふかした厚みのある座布団に座っても、まだ翠子さんは泣きじゃくっていた。
すでに涙は涸れているのに、しゃくりあげるのが止まらないようで、ずっと手で顔を押さえている。
「お茶を淹れたよ。少し飲めば落ち着くだろうから」
湯気の立つ湯呑みを、俺は座卓の向かいに座る翠子さんの前に置いた。緑茶の匂いのする湯呑みに手を伸ばすかと思いきや、翠子さんは立ち上がってこちらへ来る。
俺の後ろにまわったと思うと、背中にぴったりとくっついて座った。
シャツの布地越しに、彼女の手と頬がしゃくりあげるたびに動くのが伝わってくる。
室内は行灯が灯され、床の間には名前は知らんが夏っぽい赤い花が活けてある。
その派手さといい、甘ったるい香りといい、静謐な部屋の雰囲気とは少々合わない気もするが。俺は花のことはよく分からないので、まぁどうでもいい。
二間続きの、二人で使うには広すぎるほどのいい部屋だ。
窓の外、遠くに工場の明かりが見えるので夜景はきれいだが。昼間の景色は、期待しない方がよさそうだ。
「背中でいいのか?」
翠子さんはこくりと頷いた。
「そうか。俺は翠子さんが背中にいるのは、少し寂しいかな」
「ここで……ひくっ……いい、です」
「うーん。抱っこさせてもらえませんか? お嬢さま」
頼んでみたが、翠子さんはただ首を振るだけだ。
背中の方が安心するというのなら、別に構わないのだが。どうも、遠慮が勝っているような気がする。
俺は体をねじって、翠子さんの脇に腕をさし入れた。短い悲鳴を上げる彼女を、そのまま膝にのせる。
「お嬢さまのご尊顔を拝謁することを、お許しくださいますか?」
大仰な話し方をすると、翠子さんは小さくこくりと頷いた。まだしゃくりあげるのは治まらないようだ。
「光栄至極にございます」
俺は胸に翠子さんをもたれかけさせて、卓の上の茶菓子を手に取った。包み紙をめくると、細長い求肥が現れた。
指で、翠子さんの唇を軽くつつき、口を開かせようとする。
「食べなさい。落ち着くから」
「……もう、終わり……なんですか」
「なにが?」
「お嬢さまと騎士ごっこ……」
もしかしてさっきの話の流れを気に入っているのか? というか、あなたの想像する騎士とは、あんな風なのか? 騎士は求肥など、お嬢さまに食わせんだろう。
まぁ、何でもいい。
すでに翠子さんが落ち着いていることに俺は安堵の息を洩らした。
「はい、お嬢さま。あーん」
「騎士は『あーん』なんて、言いませんもの」
「お嬢さま。わたくしめの膝にちょこんとお座りになっていらしては、威厳も説得力もございませんが」
「すぐそういうことを仰るんですから」
翠子さんの指が、俺の眉間を押してくる。ぐりぐりと攻撃を仕掛けてくるが、やっと元気が戻ってきたのだと思えると、嬉しくてしょうがない。
「旦那さまは、わたくしに虐められるのがお好きなの?」
「どちらかと言えば好きかな」
なぜなら、あなたの攻撃は全然痛くないからな。あなたの中に入った時に、爪を立てられて。それが痛いと感じるときはあるが。それもまぁ、嫌いではないし。むしろもっと爪を立ててもいいぞと思うくらいだ。
「ほら、ちゃんと口を開けて。じゃないと俺が食ってしまうぞ」
「旦那さまは、甘いものはお嫌いです」
「求肥じゃなくて、あなたを食うと言っているんだが?」
翠子さんは慌てて求肥を口に含んだ。柔らかな求肥はさほど噛まずとも良いようで、すぐに食べ終えてしまう。
お茶も飲ませると、翠子さんは俺の膝に乗ったまま、背中に手をまわしてしがみついてきた。
「今日はよく頑張ったな」
涙の痕の残る頬にくちづけ、彼女の頭を何度も撫でる。離れていた時間は、半日も経っていないのに。本当に久しぶりに会ったような心地がする。
疲れ切っている翠子さんは、すぐに静かな寝息を立てた。
俺は彼女を抱き上げて、隣の部屋へと運ぶ。
二つ並んで敷いてある布団に彼女を寝かせ、その隣で俺も横になる。
片肘をついて彼女の方を向き、縄の痕の残る手にくちづけた。
その時「入るで」という琥太郎兄さんの声が聞こえた。
おそらくは会社の接待に使われるのだろう。
仲居が部屋に案内してくれたが、黒光りのする廊下を歩いている時も、部屋のふかふかした厚みのある座布団に座っても、まだ翠子さんは泣きじゃくっていた。
すでに涙は涸れているのに、しゃくりあげるのが止まらないようで、ずっと手で顔を押さえている。
「お茶を淹れたよ。少し飲めば落ち着くだろうから」
湯気の立つ湯呑みを、俺は座卓の向かいに座る翠子さんの前に置いた。緑茶の匂いのする湯呑みに手を伸ばすかと思いきや、翠子さんは立ち上がってこちらへ来る。
俺の後ろにまわったと思うと、背中にぴったりとくっついて座った。
シャツの布地越しに、彼女の手と頬がしゃくりあげるたびに動くのが伝わってくる。
室内は行灯が灯され、床の間には名前は知らんが夏っぽい赤い花が活けてある。
その派手さといい、甘ったるい香りといい、静謐な部屋の雰囲気とは少々合わない気もするが。俺は花のことはよく分からないので、まぁどうでもいい。
二間続きの、二人で使うには広すぎるほどのいい部屋だ。
窓の外、遠くに工場の明かりが見えるので夜景はきれいだが。昼間の景色は、期待しない方がよさそうだ。
「背中でいいのか?」
翠子さんはこくりと頷いた。
「そうか。俺は翠子さんが背中にいるのは、少し寂しいかな」
「ここで……ひくっ……いい、です」
「うーん。抱っこさせてもらえませんか? お嬢さま」
頼んでみたが、翠子さんはただ首を振るだけだ。
背中の方が安心するというのなら、別に構わないのだが。どうも、遠慮が勝っているような気がする。
俺は体をねじって、翠子さんの脇に腕をさし入れた。短い悲鳴を上げる彼女を、そのまま膝にのせる。
「お嬢さまのご尊顔を拝謁することを、お許しくださいますか?」
大仰な話し方をすると、翠子さんは小さくこくりと頷いた。まだしゃくりあげるのは治まらないようだ。
「光栄至極にございます」
俺は胸に翠子さんをもたれかけさせて、卓の上の茶菓子を手に取った。包み紙をめくると、細長い求肥が現れた。
指で、翠子さんの唇を軽くつつき、口を開かせようとする。
「食べなさい。落ち着くから」
「……もう、終わり……なんですか」
「なにが?」
「お嬢さまと騎士ごっこ……」
もしかしてさっきの話の流れを気に入っているのか? というか、あなたの想像する騎士とは、あんな風なのか? 騎士は求肥など、お嬢さまに食わせんだろう。
まぁ、何でもいい。
すでに翠子さんが落ち着いていることに俺は安堵の息を洩らした。
「はい、お嬢さま。あーん」
「騎士は『あーん』なんて、言いませんもの」
「お嬢さま。わたくしめの膝にちょこんとお座りになっていらしては、威厳も説得力もございませんが」
「すぐそういうことを仰るんですから」
翠子さんの指が、俺の眉間を押してくる。ぐりぐりと攻撃を仕掛けてくるが、やっと元気が戻ってきたのだと思えると、嬉しくてしょうがない。
「旦那さまは、わたくしに虐められるのがお好きなの?」
「どちらかと言えば好きかな」
なぜなら、あなたの攻撃は全然痛くないからな。あなたの中に入った時に、爪を立てられて。それが痛いと感じるときはあるが。それもまぁ、嫌いではないし。むしろもっと爪を立ててもいいぞと思うくらいだ。
「ほら、ちゃんと口を開けて。じゃないと俺が食ってしまうぞ」
「旦那さまは、甘いものはお嫌いです」
「求肥じゃなくて、あなたを食うと言っているんだが?」
翠子さんは慌てて求肥を口に含んだ。柔らかな求肥はさほど噛まずとも良いようで、すぐに食べ終えてしまう。
お茶も飲ませると、翠子さんは俺の膝に乗ったまま、背中に手をまわしてしがみついてきた。
「今日はよく頑張ったな」
涙の痕の残る頬にくちづけ、彼女の頭を何度も撫でる。離れていた時間は、半日も経っていないのに。本当に久しぶりに会ったような心地がする。
疲れ切っている翠子さんは、すぐに静かな寝息を立てた。
俺は彼女を抱き上げて、隣の部屋へと運ぶ。
二つ並んで敷いてある布団に彼女を寝かせ、その隣で俺も横になる。
片肘をついて彼女の方を向き、縄の痕の残る手にくちづけた。
その時「入るで」という琥太郎兄さんの声が聞こえた。
0
お気に入りに追加
1,475
あなたにおすすめの小説
イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?
すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。
病院で診てくれた医師は幼馴染みだった!
「こんなにかわいくなって・・・。」
10年ぶりに再会した私たち。
お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。
かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」
幼馴染『千秋』。
通称『ちーちゃん』。
きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。
千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」
自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。
ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」
かざねは悩む。
かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?)
※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。
想像の中だけでお楽しみください。
※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。
すずなり。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
若妻シリーズ
笹椰かな
恋愛
とある事情により中年男性・飛龍(ひりゅう)の妻となった18歳の愛実(めぐみ)。
気の進まない結婚だったが、優しく接してくれる夫に愛実の気持ちは傾いていく。これはそんな二人の夜(または昼)の営みの話。
乳首責め/クリ責め/潮吹き
※表紙の作成/かんたん表紙メーカー様
※使用画像/SplitShire様
颱風の夜、ヤクザに戀して乱れ咲く【R18】
真風月花
恋愛
大正のヤクザとお嬢さまの初恋。R18シーンあり。「はぁ? 颱風やのに面倒くさい仕事を押し付けんなや」お嬢さまの貴世子の家が、高利貸しにのっとられる。それを救う為に、ヤクザの幾久司は嫌々ながら貴世子の家へと向かった。不真面目で無精な幾久司と、彼を高利貸しと勘違いした貴世子。世間知らずの貴世子を、幾久司は放っておくことができなくなった。面倒くさがりなのに。
女學生のお嬢さまはヤクザに溺愛され、困惑しています
真風月花
恋愛
明治、大正浪漫と年の差ラブ。ヤクザ×女学生、年の差で体格差の激甘イチャラブ。「もちろん、俺の嫁になるよな」若きヤクザの組長、蒼一郎が恋した相手はお嬢さまの絲でした。ですが武骨で不愛想で、恋愛に慣れていないが故に蒼一郎は絲を溺愛しすぎます。そんな蒼一郎に惹かれていく絲の結婚に至る日々の話です。※「没落令嬢は今宵も甘く調教される」に出てくるヤクザの若頭、琥太郎の両親が出逢った頃のお話です。
お兄ちゃんはお医者さん!?
すず。
恋愛
持病持ちの高校1年生の女の子。
如月 陽菜(きさらぎ ひな)
病院が苦手。
如月 陽菜の主治医。25歳。
高橋 翔平(たかはし しょうへい)
内科医の医師。
※このお話に出てくるものは
現実とは何の関係もございません。
※治療法、病名など
ほぼ知識なしで書かせて頂きました。
お楽しみください♪♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる