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八章

19、腕の中に

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 三木達比古の衿を掴んで、俺は匕首の刃を奴の頬に当てる。だが、俺を舐めてかかっているのか、奴は表情をこわばらせながらも卑屈な笑みを浮かべた。

「あんた、教師だよな。暴行を働いてただで済むと思っているのか」
「別に構わない。翠子さんの為なら、学校を辞めることくらい何でもない」

 俺は柄を握る手を横に引いた。
 達比古の頬から、音もなく一筋の血が流れる。この下衆に流れる血と繋がりがあるせいで、翠子さんは苦しめられている。
 そう考えると、こいつの血をすべて抜き取ってやりたい衝動に駆られる。

 当然のことながら、俺は人を斬ったことはない。
 だが、巻藁まきわらは肉の硬さ、その芯になる竹は骨の硬さだと、かつて教えられたことがある。
 そしてこの手は、巻藁を断ち切った時の感覚を今も覚えている。

「や、やめ……」
「どうしてだ? やめなければならない理由がない」
「……もう、翠子には」
「その汚らしい口であの人の名を呼ぶな」

 恫喝すると、達比古の足は震えて立っていられなくなった。ボンネットにだらしなく身を預け、こくこくと頷いている。
 
「欧之丞、その辺にしとけ。お前はこっち側の人間とちゃうんや」
「琥太兄」

 俺の肩に手を置いて、琥太郎兄さんがゆったりと頷く。

「汚れた仕事は私らが請け負う分野や。素人に領域を侵してもろたら、困るわ」

 邪魔をするなとも聞こえるが、それは琥太郎兄さんの優しさだ。俺がそちら側へは行かないように、と。
 幼馴染みで友人であっても、俺と琥太兄の間には確実に線が引いてある。その線は、決して俺に越えさせてはならぬと彼が自分に言い聞かせ続けているものだろう。

「……分かった。琥太兄に任せる」
「助かるわ」

 琥太郎兄さんが、翠子さんの肩に手を添えて俺の方へと軽く押す。
 草履すら履いていない翠子さんは、足をもつれさせて俺へと倒れこんできた。とっさに腕を伸ばして、彼女の体を抱きとめる。

 乱れた黒髪が、澱んだ夜風になびく。ああ、こんな汚泥のような世界にあなたが堕ちなくてよかった。
 いや、たとえ間違って堕とされたとしても、俺は必ずあなたを救い出す。

 今回、琥太郎兄さんが計画してきたのはこうだった。
 達比古の依頼通り翠子さんをあえて誘拐させて、身売りの現場に連れてこさせる。店の主と達比古の間の契約の確認と、現場を押さえる。
 そうすれば達比古はもう言い逃れができない。
 今回のいきさつを事前に翠子さんに説明していたとはいえ、十六の少女には恐ろしい出来事だっただろう。
 しかも達比古に気取られぬように、翠子さんを荒縄で縛り上げてもいる。

 俺は翠子さんの乱れ髪を手で梳いてやると、優しく甘い茉莉花の香りがした。

「怖かっただろう。よく頑張った」
「……旦那さま」
「うん、もう大丈夫だから」

 細いあごに手をかけて、翠子さんに上を向かせる。彼女の黒い瞳には俺しか映っていない。眉を下げた小さな俺の顔がしだいにぼやけて、歪んで溶けた。

「ふぇ……ぇ、うわぁ……あああっ、こ、怖かったんですっ」

 翠子さんの目の縁にたまった涙が、堰を切ったように溢れだす。

「ああ、翠子さんは偉かったな。今まで泣くのを堪えていたんだろう」
「旦那さま、旦那さまぁ」
「いいよ。存分に泣きなさい」

 頭を撫でてやると、翠子さんは子どものように声を上げた。俺にしがみつき、抱きついて泣きじゃくっている。
 歓楽街の通りを歩く工員たち、そして格子の中の見世で気だるげにしゃがんでいた女たちまで、翠子さんに注目している。
 
 琥太郎兄さんは、翠子さんの売買の契約が無効であることを伝えるために、斉川を伴って店に入っていった。三木達比古は、車を運転していた舎弟に縄で縛られている。

「琥太郎兄さんも、しばらく時間がかかるだろう。宿をとっているから、そこへ向かおう」
 
 翠子さんは泣きながらうなずいた。
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