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八章

14、心細さ

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 俺は翠子さんを家に送り届けてから、駅へと向かった。

「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

 玄関で手を振って見送ってくれる翠子さんは、微笑んではいるが目元が寂しげに見えた。
 今日中に帰ってこられる距離ではない。とはいえ今、翠子さんを連れていけるわけではない。
 汽車の時間が迫っているのに、俺はなかなか出かけることができずにいた。

「旦那さま?」
「いや、なんでもない」

 そう言いつつ、気づけば俺は翠子さんの髪に触れていた。その艶やかな黒髪の感触を指先で愉しんでいると、ふいに翠子さんが背伸びをした。
 柔らかな唇が俺の頬に触れる。

「汽車の時間に遅れますよ」

 そうだな、あなたの身の安全のため、今後の生活を脅かされることがないように俺は出かけるのだった。ほんの一晩、一緒にいられないからと寂しがるのはいけないな。

 とはいえ、あなたにつらい思いをさせるのは、本当に心が苦しい。

「じゃあ、行ってくるよ。『少女の友』を読んで夜更かしをしないようにな」
「大丈夫ですよ」
「風呂は明るいうちに入ること」
「はい、大丈夫です」
「俺がいないからと、寂しがるんじゃないぞ」
「大丈夫……じゃないです」

 翠子さんは、思わず口からこぼれた言葉に驚いたようだ。慌てて顔の前で手を振っている。

「違うんです。今のは」
「本音が出てしまった?」

 追及すると、翠子さんは上目遣いに俺を睨みつけて……そして頷いた。
 我慢していたんだな。たとえお清と銀司がいるといっても、寝るときは一人だ。
 翠子さんがうちに来てからずっと、俺が彼女の隣で眠っていたから。
 俺は少ししゃがみこむと、彼女の耳元に口を寄せた。

「会えなくなるわけじゃない」
「……はい」

 翠子さんは再び背伸びをして、俺に抱きついてきた。まったくもう……。こんなことをされたら、俺もあなたを抱きしめたくなるじゃないか。

 翠子さんの浴衣からは茉莉花ジャスミンの香りが漂ってくる。きっと匂い袋に、乾燥させた茉莉花を入れたのだろう。
 庭で小さな白い花をひとつひとつ摘んでいく彼女の姿を想像して、なぜだか泣きたくなった。
 
 翠子さんの背中に手をまわして、強く抱きしめる。
 ここが玄関じゃなかったら、深く口づけを交わすのに。

「明日の午後には戻ってくるから」
「はい。大丈夫です、ちゃんと我慢できますよ」

 俺の胸に顔を埋めて、翠子さんもまた俺の匂いを嗅いでいる。いつもの檸檬と薄荷の香りだ。
 
 これから少しの間、あなたに心細い思いをさせることになる。その事実に、酷く心が痛んだ。

◇◇◇

 線路沿いの道を歩き、俺は駅へと向かった。線路わきに生えている丈の高い夏草は熱せられて、青くさいにおいが立ち込めている。
 赤茶色の敷石も相当熱いのだろう。ぼんやりと蜃気楼が揺らめいて見える。

「おい、欧之丞」

 木造の駅舎の前で手を挙げたのは琥太郎兄さんだ。
 今日も暑いのに、ベストにネクタイ姿だ。俺はネクタイなんぞで首を締めて暑苦しい思いをするのは、まっぴらごめんだ。

 俺に手を振る琥太郎兄さんは、背後に強面のいわゆる若い衆をつれている。琥太郎兄さん自身は強面というよりも、研ぎ澄ました鋭さを備えた顔立ちだ。

「二人で出かけるのだと思っていたが」
「んー? なんやー、欧之丞は。琥太郎兄ちゃんと二人きりやないと、嫌なんか」
「そんなわけあるか」

 琥太郎兄さんの目は、薄く微笑んでいる。大学時代は、出かけるときに護衛などつけていなかったから。今の琥太郎兄さんが三條組の若頭であることを、嫌でも思い知らされるだけだ。
 幼馴染みである俺に対しては軽口ばかり叩いて、こんなにも適当そうなのに。

 黒い煙を吐きながら、蒸気機関車が駅に入ってきた。俺と琥太郎兄さんが向かい合う形で木製の座席に座り、護衛は兄さんの隣に座る。一言もしゃべらないから、影のようだ。

「せやけど、欧之丞。お前も変わったよな。宵祭りに来るのも意外やったけど、あんな風に女性を優しく見つめる日ぃが来るとはな」
「翠子さんだからな」
「やれやれ、あてられてもたわ。まさかお前が、惚気のろけるようになるとはな」

 琥太郎兄さんは肩をすくめた。
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