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八章
1、少しばかりの反撃
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翌朝、わたくしは目を覚ましました。かゆみ止めのにおいは、すでに薄らいでいますし。かゆさも随分とましになっています。
「見せてみなさい」
先に起きていらした旦那さまが、わたくしの寝間着にしている浴衣の袖をめくり、足の甲を確認し、そして衿をずらして首筋を眺めます。
「もう大丈夫そうだな」
「はい、ありがとうございます」
昨夜のことを考えると、素直にお礼を言うのは少し悔しいですけど。
朝食に、お清さんが茄子のお味噌汁を用意してくださり、わたくしの機嫌はすぐに直りました。
彩に薄緑の絹さやが入っていて、しかもお茄子は油で炒めてあるんです。そのまま煮るよりも、コクが深まりとても美味しいんですよ。
「お坊ちゃまが、今朝のみそ汁の具は茄子にしてほしいと、急に仰いましてね」
「お清。そんなことは、どうでもいい」
「翠子さんを怒らせでもしたんですかねぇ」
ふふ、とお清さんは微笑みます。
そうだったのですか。これはわたくしへの気遣いだったのですね。
魔王が蚊に刺されたら縛り上げようと考えていたのですが。その決意が揺らぎそうです。
旦那さまは胡瓜のお漬物を召し上がっています。きれいなお箸の持ち方で、背筋も伸ばして座っていらっしゃるので、とても端正に見えます。
もっとも、とても不機嫌そうに口をへの字に結んでいらっしゃるのですけど。
駄目ですよ。そんな風に装っても。
旦那さまが翠子のことを考えてくださるのは、よく分かっています。
そうですね、縛り上げるのは勘弁してあげましょう。わたくし、心が広いのです。
「翠子さんは、嬉しそうに茄子を食うんだな」
「ええ、嬉しいですよ。だって、旦那さまと一緒に朝ご飯をいただけるんですもの。旦那さまは違うんですか?」
「茄子は別に……嫌いではないが大好物というほどでも。って、え? 俺のことか」
旦那さまのお箸から、胡瓜がぽとりと落ちました。
さっきまでにこやかだったお清さんの笑みが、にやにやという風に変化します。
「あらら、お坊ちゃま。なにやら仕返しされていませんか?」
「俺は何も悪いことはしていない……気がするんだが。どうだろう」
「確信がないということは、仕返しもやむなしでごさいますねぇ」
「仕返しなのか? 俺には愛の告白に聞こえたが」
「あらまぁ、良いお耳でいらっしゃること」
お清さんの言い方が気になるのか、旦那さまがわたくしに向き直ります。
「翠子さん。もう一度言ってくれないか?」
「嫌です。もう忘れました」
「いや、一分も経っていないぞ」
「翠子は、過去を気にしない女なのです」
内心「かっこよく決まりました」と思ったのですが。旦那さまが「大人の女性は、自分のことを名前で呼んだりしないぞ」と、余計なことを仰います。
でも、いいんです。
ほんの少し魔王を成敗できて、わたくしは心穏やかに朝食をいただきました。
心は広いですけれど、ちょっぴりの反撃くらいは許されますよね。
旦那さまと家を出ると、普段と雰囲気が違っていました。周囲の屋敷の塀に縄が張られて、紙垂が下がっているのです。
神社の注連縄やご神木に下げられている紙です。その無数の紙垂が、ひらひらと朝の風になびいています。
「何かあるのですか?」
「そろそろ宵祭りのはずだから。それじゃないかな」
宵祭り。素敵な響きです。
通りを吹き抜ける風に、一斉に紙垂がひらめきます。そのかそけき音に耳を傾けながら、いつもよりもゆっくりと歩きました。
「翠子さんは、こういった縁日に行ったことがあるかい?」
「いいえ。笠井の家からは離れておりますし。宵祭りがあることも存じ上げませんでした」
神社が近づくと、紙垂だけではなく提灯も頭上に吊るされていました。
夜店の用意でしょうか。売り台に掛け棒を渡している男性がいます。
「なんのお店でしょう」
「なんだろうな。幟やのれんがないし、まだ分からんな」
「旦那さまは、お祭りの夜店にいらっしゃったことがありますか?」
少し空を仰いで、旦那さまはうなずきました。どうやら旦那さまは頭上高くに記憶の帳面がおありのようです。
「お清に連れてきてもらったことが何度かあるな。あと……まぁ、知り合いと来たことがあるというか、連れてこられたことがある」
旦那さまは言いにくそうに口ごもりました。
お清さんには連れてきてもらって、知り合いには連れてこられたって、どういうことでしょうか。
「見せてみなさい」
先に起きていらした旦那さまが、わたくしの寝間着にしている浴衣の袖をめくり、足の甲を確認し、そして衿をずらして首筋を眺めます。
「もう大丈夫そうだな」
「はい、ありがとうございます」
昨夜のことを考えると、素直にお礼を言うのは少し悔しいですけど。
朝食に、お清さんが茄子のお味噌汁を用意してくださり、わたくしの機嫌はすぐに直りました。
彩に薄緑の絹さやが入っていて、しかもお茄子は油で炒めてあるんです。そのまま煮るよりも、コクが深まりとても美味しいんですよ。
「お坊ちゃまが、今朝のみそ汁の具は茄子にしてほしいと、急に仰いましてね」
「お清。そんなことは、どうでもいい」
「翠子さんを怒らせでもしたんですかねぇ」
ふふ、とお清さんは微笑みます。
そうだったのですか。これはわたくしへの気遣いだったのですね。
魔王が蚊に刺されたら縛り上げようと考えていたのですが。その決意が揺らぎそうです。
旦那さまは胡瓜のお漬物を召し上がっています。きれいなお箸の持ち方で、背筋も伸ばして座っていらっしゃるので、とても端正に見えます。
もっとも、とても不機嫌そうに口をへの字に結んでいらっしゃるのですけど。
駄目ですよ。そんな風に装っても。
旦那さまが翠子のことを考えてくださるのは、よく分かっています。
そうですね、縛り上げるのは勘弁してあげましょう。わたくし、心が広いのです。
「翠子さんは、嬉しそうに茄子を食うんだな」
「ええ、嬉しいですよ。だって、旦那さまと一緒に朝ご飯をいただけるんですもの。旦那さまは違うんですか?」
「茄子は別に……嫌いではないが大好物というほどでも。って、え? 俺のことか」
旦那さまのお箸から、胡瓜がぽとりと落ちました。
さっきまでにこやかだったお清さんの笑みが、にやにやという風に変化します。
「あらら、お坊ちゃま。なにやら仕返しされていませんか?」
「俺は何も悪いことはしていない……気がするんだが。どうだろう」
「確信がないということは、仕返しもやむなしでごさいますねぇ」
「仕返しなのか? 俺には愛の告白に聞こえたが」
「あらまぁ、良いお耳でいらっしゃること」
お清さんの言い方が気になるのか、旦那さまがわたくしに向き直ります。
「翠子さん。もう一度言ってくれないか?」
「嫌です。もう忘れました」
「いや、一分も経っていないぞ」
「翠子は、過去を気にしない女なのです」
内心「かっこよく決まりました」と思ったのですが。旦那さまが「大人の女性は、自分のことを名前で呼んだりしないぞ」と、余計なことを仰います。
でも、いいんです。
ほんの少し魔王を成敗できて、わたくしは心穏やかに朝食をいただきました。
心は広いですけれど、ちょっぴりの反撃くらいは許されますよね。
旦那さまと家を出ると、普段と雰囲気が違っていました。周囲の屋敷の塀に縄が張られて、紙垂が下がっているのです。
神社の注連縄やご神木に下げられている紙です。その無数の紙垂が、ひらひらと朝の風になびいています。
「何かあるのですか?」
「そろそろ宵祭りのはずだから。それじゃないかな」
宵祭り。素敵な響きです。
通りを吹き抜ける風に、一斉に紙垂がひらめきます。そのかそけき音に耳を傾けながら、いつもよりもゆっくりと歩きました。
「翠子さんは、こういった縁日に行ったことがあるかい?」
「いいえ。笠井の家からは離れておりますし。宵祭りがあることも存じ上げませんでした」
神社が近づくと、紙垂だけではなく提灯も頭上に吊るされていました。
夜店の用意でしょうか。売り台に掛け棒を渡している男性がいます。
「なんのお店でしょう」
「なんだろうな。幟やのれんがないし、まだ分からんな」
「旦那さまは、お祭りの夜店にいらっしゃったことがありますか?」
少し空を仰いで、旦那さまはうなずきました。どうやら旦那さまは頭上高くに記憶の帳面がおありのようです。
「お清に連れてきてもらったことが何度かあるな。あと……まぁ、知り合いと来たことがあるというか、連れてこられたことがある」
旦那さまは言いにくそうに口ごもりました。
お清さんには連れてきてもらって、知り合いには連れてこられたって、どういうことでしょうか。
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