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七章

9、なぜ?

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 放課後、空は雲が重く垂れこめていました。お書物を風呂敷に包んでいると、小使こづかいの男性が教室を覗きました。

「笠井翠子さん、いらっしゃいますか?」
「あ、はい。わたくしです」

 何事でしょう、呼び出しなんて。急いでドアに向かうと「お家の方が校門でお待ちです」と言われました。
 そうでした。今日は銀司さんが迎えに来て下さるんでした。まだ約束の時間には少し早いですが、お待たせしてはいけません。

 学校のお庭を抜けて、校門へ小走りで向かいます。湿気の多い風が、袂を揺らします。
 振り返って校舎を見上げると、二階の窓辺に高瀬先生の姿がありました。窓に背中を向けていらっしゃるので、こちらには気づいていらっしゃいません。
 ご一緒できませんが、家で待っていればいいだけですものね。

 小使さんに声をかけたのに、銀司さんは校門を入って玄関で待つことはなさいませんでした。

「銀司さん。わざわざありがとうございます」
「銀司? なんだ、お前は高瀬以外にも男がいるのか。なるほど、義兄さんがお前を売ろうと考えるはずだ」

 呆れたような物言いを聞いて、わたくしの体は凍り付きました。ええ、まるで足下が、氷に閉ざされた最果ての北極でもあるかのように。
 
 逃げなければ。校内に戻らなければ。先生の元へ。
 踵を返そうとしたのに、わたくしの腕はきつく握られてしまいました。

「離してください。おじさま」

 そう、わたくしをたばかり、捕らえているのは達比古たつひこおじさまです。小使さんに「お家の方」と聞いていましたが。まさか会いたくもないおじさまだなんて。

「離してください。声を上げます」
「どうぞ? でもぼくは君の身内だからね。何もやましいことはないよ」

 わたくしは風呂敷包みを、おじさまの顔面めがけて投げつけました。威力はなくとも辞書が入っているので相当重いです。包みは、狙い通りに命中しました。次は……。

「きゃああああーっ!」
「さ、騒ぐな。翠子」

 鼻を押さえながら、おじさまがわたくしの袖を引っ張ります。びりりと鋭い音を立てて絹の袂が裂けました。
 銘仙の着物の袖が千切れるのも構わずに、わたくしは走りだします。
 
 これまでなら、おじさまの言うなりになって従っていたでしょう。でも、今はもう理不尽なことに従うだけの、弱い翠子ではないのです。
 旦那さまが導いて、わたくしがたどり着いた優しい場所を、決して奪われたりはしません。

 校内へ逃れようとしましたが、おじさまがいるので反対に向かうしかありません。
 
 速く。少しでも遠くへ。授業の徒競走のように呑気に走ってはなりません。
 ですが、袴の裾が長いままで足に絡まります。

「待て。翠子」

 何のためにおじさまが、待ち伏せをするのか分かりません。でも、当然よからぬことに決まっています。

「翠子さま。こちらへ」
「銀司さん」

 角を曲がった時、銀司さんが現れて腕を引っ張ってくださいました。

「なぜ……ここにいらっしゃるの」
「迎えに行く約束だったでしょ? そうしたら翠子さまの悲鳴が聞こえて。いったい何があったんです?」
「逃げてください。追われているんです」

 銀司さんはすぐに合点がいったようで「失礼しますよ」と言うと、わたくしを肩に担ぎあげました。
 まるで麻袋を運ぶように。

「あ、あの」
「しゃべらないでください。舌を噛みます」

 ズボンのポケットから何かを出すと、銀司さんはそれをばら撒きます。そして近くの生け垣の中にわたくしを押し込みました。続いてご自分も生垣の隙間に入り込みます。

 ばさばさと木の葉が揺れて、髪が枝に引っかかりました。

 逃げ込んだ生垣の家は補修中のようで、庭には角材やそれよりも細い角棒が積んでありました。
 この家の人に「助けてください」と頼めばいいのでしょうが。
 ああ、でも達比古おじさまはわたくしの身内。むしろ助けてくれている銀司さんの方が他人なのです。
 血縁であることを主張されたら、わたくしどころか銀司さんまで害をこうむってしまいます。

「翠子。お前は本来行くべき場所へ行くんだよ。さぁ、おいで」

 土の道を踏みしめる音が近づいてきます。わたくしは息をひそめて、決して体を動かさないようにしました。

「どうせもう穢れた体なんだろう? だったら誰に身を任せても同じこと。さぁ、ぼくのために出ておいで」

 ゴロゴロという低い音は雷でしょうか。おじさまのねっとりとした声と相まって、身震いを抑えることができません。
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