7 / 247
一章
6、手に入れたかった
しおりを挟む
俺は手にした箸を落としそうになって、はっとした。
笠井翠子は、俺が担当する学級の生徒だ。年は十六。三十一歳の俺とは、ひとまわり以上離れている。
華族や商家のお嬢さんたちが集まる女学校は、華やかだ。だが家が没落し、父の会社が傾いた翠子さんは目立たない存在だ。
翠子さんは知らないことだが、このままでは女学校を自主退学しなければならないと、先日、彼女の両親から相談を受けていた。
ならば、うちで住み込みとして預かり、卒業まで面倒を見ることを提案し、彼女の給金としてまとまった金を渡したのだ。
翠子さんの両親には「住み込みで」と言ったが「住み込みの使用人として」とは言っていない。
なぜ、あなたを下働きとして迎えなければならないんだ。
ようやく会えたのに。
俺は海老の尾を挟んだ箸を皿に置き、次にガラスの器に入った蓴菜を手にした。
ぬるりとした蓴菜は、箸ではつまみにくい。
「そのまま飲みなさい」
「匙は使わせてもらえないんですか?」
「この俺が命じているんだよ」
「……はい」
従順に育った翠子さんは、素直にうなずいた。
家が没落するまでは、苦労もせずに人を疑うことも知らないのだろう。
だから、だ。初心なあなたを、危険に晒しかねない実家には、置いておけなかったのだ。
器を差し出すと、翠子さんは身を乗り出してきた。彼女の手が置かれた太腿に、ぐいっと力が加わる。
浴衣の布越しに翠子さんのてのひらを感じ、目眩がしそうになる。
そんなことは、おくびにも出さないが。
学校での彼女と会話をすることはめったにない。すれ違った時の挨拶と、数学の問題が解けなくて「済みません」と謝るか細い声くらいしか聞くことはない。
友人とは仲良くしゃべっているのに、その笑顔を決して俺には向けてくれない。
俺を取り巻くお嬢さんたちは、うるさいくらいに喋りかけ、常に笑顔でいるというのに。あいつらだって、翠子さんと同じくらい数学は苦手だというのに。
なぜあなたは、俺に笑顔を見せてはくれないんだ。あの時のように。
薄桃色の唇が、ガラスの器に寄せられる。
「ちゃんと噛むんだ。一息に飲み込めば、苦しいぞ」
「はい」
俺が器を傾けると、つるりとした透明なジェリィのような膜に覆われた蓴菜が、翠子さんの口に入っていった。
「ん……っ」
酢に噎せたのか、翠子さんが小さく咳き込んだ。
「そんなに腹が減っていたのか。はしたないな」
「……言わないでください」
頬を染めながら、翠子さんは器を持つ俺の手に指を添えた。
不意に、しかも直に触れられて、胸が高鳴りそうになる。
いい年をして、初恋みたいなことを。馬鹿か、俺は。
蓴菜の膜でとろりとした酢が、翠子さんの口からこぼれて白い肌を伝う。
背筋に稲妻のようなものが走った気がした。
誰もまだ踏んでいない新雪に手を突っ込んで、強く握りしめるような。高揚感と背徳感だ。
俺は翠子さんに顔を近づけて、そのあごまで垂れた酢を舐めた。
だしの味と微かな甘みと、そして酸味を感じる。
「先生っ?」
急に正気に戻ったのか、翠子さんが俺から離れようとする。
させない、そんなことは。
俺は空いた手で彼女の手首を掴んだ。
笠井翠子は、俺が担当する学級の生徒だ。年は十六。三十一歳の俺とは、ひとまわり以上離れている。
華族や商家のお嬢さんたちが集まる女学校は、華やかだ。だが家が没落し、父の会社が傾いた翠子さんは目立たない存在だ。
翠子さんは知らないことだが、このままでは女学校を自主退学しなければならないと、先日、彼女の両親から相談を受けていた。
ならば、うちで住み込みとして預かり、卒業まで面倒を見ることを提案し、彼女の給金としてまとまった金を渡したのだ。
翠子さんの両親には「住み込みで」と言ったが「住み込みの使用人として」とは言っていない。
なぜ、あなたを下働きとして迎えなければならないんだ。
ようやく会えたのに。
俺は海老の尾を挟んだ箸を皿に置き、次にガラスの器に入った蓴菜を手にした。
ぬるりとした蓴菜は、箸ではつまみにくい。
「そのまま飲みなさい」
「匙は使わせてもらえないんですか?」
「この俺が命じているんだよ」
「……はい」
従順に育った翠子さんは、素直にうなずいた。
家が没落するまでは、苦労もせずに人を疑うことも知らないのだろう。
だから、だ。初心なあなたを、危険に晒しかねない実家には、置いておけなかったのだ。
器を差し出すと、翠子さんは身を乗り出してきた。彼女の手が置かれた太腿に、ぐいっと力が加わる。
浴衣の布越しに翠子さんのてのひらを感じ、目眩がしそうになる。
そんなことは、おくびにも出さないが。
学校での彼女と会話をすることはめったにない。すれ違った時の挨拶と、数学の問題が解けなくて「済みません」と謝るか細い声くらいしか聞くことはない。
友人とは仲良くしゃべっているのに、その笑顔を決して俺には向けてくれない。
俺を取り巻くお嬢さんたちは、うるさいくらいに喋りかけ、常に笑顔でいるというのに。あいつらだって、翠子さんと同じくらい数学は苦手だというのに。
なぜあなたは、俺に笑顔を見せてはくれないんだ。あの時のように。
薄桃色の唇が、ガラスの器に寄せられる。
「ちゃんと噛むんだ。一息に飲み込めば、苦しいぞ」
「はい」
俺が器を傾けると、つるりとした透明なジェリィのような膜に覆われた蓴菜が、翠子さんの口に入っていった。
「ん……っ」
酢に噎せたのか、翠子さんが小さく咳き込んだ。
「そんなに腹が減っていたのか。はしたないな」
「……言わないでください」
頬を染めながら、翠子さんは器を持つ俺の手に指を添えた。
不意に、しかも直に触れられて、胸が高鳴りそうになる。
いい年をして、初恋みたいなことを。馬鹿か、俺は。
蓴菜の膜でとろりとした酢が、翠子さんの口からこぼれて白い肌を伝う。
背筋に稲妻のようなものが走った気がした。
誰もまだ踏んでいない新雪に手を突っ込んで、強く握りしめるような。高揚感と背徳感だ。
俺は翠子さんに顔を近づけて、そのあごまで垂れた酢を舐めた。
だしの味と微かな甘みと、そして酸味を感じる。
「先生っ?」
急に正気に戻ったのか、翠子さんが俺から離れようとする。
させない、そんなことは。
俺は空いた手で彼女の手首を掴んだ。
0
お気に入りに追加
1,475
あなたにおすすめの小説
【1章完結】経験値貸与はじめました!〜但し利息はトイチです。追放された元PTメンバーにも貸しており取り立てはもちろん容赦しません〜
コレゼン
ファンタジー
冒険者のレオンはダンジョンで突然、所属パーティーからの追放を宣告される。
レオンは経験値貸与というユニークスキルを保持しており、パーティーのメンバーたちにレオンはそれぞれ1000万もの経験値を貸与している。
そういった状況での突然の踏み倒し追放宣言だった。
それにレオンはパーティーメンバーに経験値を多く貸与している為、自身は20レベルしかない。
適正レベル60台のダンジョンで追放されては生きては帰れないという状況だ。
パーティーメンバーたち全員がそれを承知の追放であった。
追放後にパーティーメンバーたちが去った後――
「…………まさか、ここまでクズだとはな」
レオンは保留して溜めておいた経験値500万を自分に割り当てると、一気に71までレベルが上がる。
この経験値貸与というスキルを使えば、利息で経験値を自動で得られる。
それにこの経験値、貸与だけでなく譲渡することも可能だった。
利息で稼いだ経験値を譲渡することによって金銭を得ることも可能だろう。
また経験値を譲渡することによってゆくゆくは自分だけの選抜した最強の冒険者パーティーを結成することも可能だ。
そしてこの経験値貸与というスキル。
貸したものは経験値や利息も含めて、強制執行というサブスキルで強制的に返済させられる。
これは経験値貸与というスキルを授かった男が、借りた経験値やお金を踏み倒そうとするものたちに強制執行ざまぁをし、冒険者メンバーを選抜して育成しながら最強最富へと成り上がっていく英雄冒険譚。
※こちら小説家になろうとカクヨムにも投稿しております
乙女ゲーム攻略対象者の母になりました。
緋田鞠
恋愛
【完結】「お前を抱く気はない」。夫となった王子ルーカスに、そう初夜に宣言されたリリエンヌ。だが、子供は必要だと言われ、医療の力で妊娠する。出産の痛みの中、自分に前世がある事を思い出したリリエンヌは、生まれた息子クローディアスの顔を見て、彼が乙女ゲームの攻略対象者である事に気づく。クローディアスは、ヤンデレの気配が漂う攻略対象者。可愛い息子がヤンデレ化するなんて、耐えられない!リリエンヌは、クローディアスのヤンデレ化フラグを折る為に、奮闘を開始する。
国王陛下の夜伽係
水野酒魚。
BL
新国王に即位したコラサオンは、幼馴染みで乳母の子であるネーヴィエスを『夜伽係』に任命する。
年若い国王(28)×ノンケの衛士長(40)。
#闇BL2023企画に向けて書かれた作品です。救いとかそんなモノはありません。
※欠損表現があります。
異世界ゲームへモブ転生! 俺の中身が、育てあげた主人公の初期設定だった件!
東導 号
ファンタジー
雑魚モブキャラだって負けない! 俺は絶対!前世より1億倍!幸せになる!
俺、ケン・アキヤマ25歳は、某・ダークサイド企業に勤める貧乏リーマン。
絶対的支配者のようにふるまう超ワンマン社長、コバンザメのような超ごますり部長に、
あごでこきつかわれながら、いつか幸せになりたいと夢見ていた。
社長と部長は、100倍くらい盛りに盛った昔の自分自慢語りをさく裂させ、
1日働きづめで疲れ切った俺に対して、意味のない精神論に終始していた。
そして、ふたり揃って、具体的な施策も提示せず、最後には
「全社員、足で稼げ! 知恵を絞り、営業数字を上げろ!」
と言うばかり。
社員達の先頭を切って戦いへ挑む、重い責任を背負う役職者のはずなのに、
完全に口先だけ、自分の部屋へ閉じこもり『外部の評論家』と化していた。
そんな状況で、社長、部長とも「業務成績、V字回復だ!」
「営業売上の前年比プラス150%目標だ!」とか抜かすから、
何をか言わんや……
そんな過酷な状況に生きる俺は、転職活動をしながら、
超シビアでリアルな地獄の現実から逃避しようと、
ヴァーチャル世界へ癒しを求めていた。
中でも最近は、世界で最高峰とうたわれる恋愛ファンタジーアクションRPG、
『ステディ・リインカネーション』に、はまっていた。
日々の激務の疲れから、ある日、俺は寝落ちし、
……『寝落ち』から目が覚め、気が付いたら、何と何と!!
16歳の、ど平民少年ロイク・アルシェとなり、
中世西洋風の異世界へ転生していた……
その異世界こそが、熱中していたアクションRPG、
『ステディ・リインカネーション』の世界だった。
もう元の世界には戻れそうもない。
覚悟を決めた俺は、数多のラノベ、アニメ、ゲームで積み重ねたおたく知識。
そして『ステディ・リインカネーション』をやり込んだプレイ経験、攻略知識を使って、
絶対! 前世より1億倍! 幸せになる!
と固く決意。
素晴らしきゲーム世界で、新生活を始めたのである。
カクヨム様でも連載中です!
【前世の記憶】と【現世の記憶】~元婚約者の前で、前世のご主人様を求めた話
くったん
恋愛
他の女に夢中な婚約者に婚約破棄され、【前世の記憶】が甦る。しかし皇子の命令で地下牢へ。そこで【前世の記憶】にあるご主人様と出会い、婚約者の前でご主人様と行為を……。皇子で遊びながらも徐々に気持ちを取り戻していくが、でもやっぱり裏切り者には制裁をする話。//
私が悪役令嬢? 喜んで!!
星野日菜
恋愛
つり目縦ロールのお嬢様、伊集院彩香に転生させられた私。
神様曰く、『悪女を高校三年間続ければ『私』が死んだことを無かったことにできる』らしい。
だったら悪女を演じてやろうではありませんか!
世界一の悪女はこの私よ! ……私ですわ!
【完結】浮気者と婚約破棄をして幼馴染と白い結婚をしたはずなのに溺愛してくる
ユユ
恋愛
私の婚約者と幼馴染の婚約者が浮気をしていた。
私も幼馴染も婚約破棄をして、醜聞付きの売れ残り状態に。
浮気された者同士の婚姻が決まり直ぐに夫婦に。
白い結婚という条件だったのに幼馴染が変わっていく。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる