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一章

3、結婚の条件

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「翠子さん。君はこの家から学校に通うんだ。それ以外は、俺と共に過ごしてもらう」
「あの、でも。借金は……」
「そのことはもう忘れた方がいい」

 忘れられるはずがありません。
 わたくしは相当な高額で買われた身です。経営が傾いた父の会社を立て直すのに、いったいどれほどのお金が必要だったのか。
 具体的な金額は分からずとも、こんな小娘一人と引き換えにしていい値段ではないはずです。

 母は、わたくしが家を出る時に、泣いて見送ってくれました。だからわたくしも覚悟を決めたのです。
 苦しい下働きなのか、江戸時代の頃の遊女のように客を取らされるのか、と。

 でも、高瀬先生はわたくしを妻にすると仰っています。学校にも通わせる、と。
 
「俺の妻になるのは、嫌か?」
「いえ、そういうわけではありません。ですが、わたくしは先生のことを、あまり存じ上げておりませんから」

「ふっ」と先生が鼻で笑いました。

「結婚式当日に、花婿の顔を初めて知る花嫁もいるというのに。担任と教え子、充分に相手を知っているだろう?」
「学校での先生しか、存じ上げません」
「ならば、これから知ればいい。時間はいくらでもある。俺たちは二人で一緒に暮らすのだからな」

 わたくしの耳から手を放すと、先生は座布団に座りなおしました。
 こうして向かい合っていると、着ているものが和服というだけで、学校での高瀬先生そのものです。
 なのに、わたくしに近づいたときは見知らぬ殿方になるみたいで。空恐ろしく感じられます。
 考えすぎなのでしょうか。

「君の名誉のためにも、学校では結婚のことは伏せておこう。けれどこれだけは覚えておきなさい。翠子さんは、どこであっても許可なく俺から離れてはいけない」
「外出にも許可がいるのですか?」
「当たり前だろう? それに許可があっても、門限もある。破ったらどうなるか、分かるかい」

 わたくしは首を振りました。
 寮生活では、寮監に外出届を提出すると聞いたことがありますが。

「約束を破ることは、粗相そそうをするのと同じこと。ならば躾けないといけないんだ」

 もともと先生の声は低めなのですが。さらに低くなった声は、感情を伴っていないようにも思えました。
 背筋を冷たいものが這い上がってくる感覚がします。

 夫とか妻とか、結婚とか。
 漠然とではありますが、思い描いたこともあります。ですが、今先生が提示した結婚は、わたくしが夢に見たものとはあまりにもかけ離れていました。

 光あふれる庭に背中を向けているせいか、先生の顔は暗い影に沈んでいます。
 青い空にぽっかりと浮かんだ白い雲、そのさらに向こうに銀色に走る稲妻が見えました。

 畳の上に置いた、風呂敷包みがわたくしの視界に入りました。
 あの人のことは、もう忘れた方がいい。どうせ会うことの叶わない人なのだと自分に言い聞かせながら。
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