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三章
9、颱風一過の朝【2】
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早朝には、まだ颱風の名残があったのですが。幾久司さんのお家を出る頃には、空は磨き上げたかのように美しく澄み渡っておりました。
ですが風はまだ湿り気を帯びており、わたしが身に着けた大きな外套の裾を揺らします。
洗剤の香りのその奥に、うっすらと幾久司さんの匂いがするようで。
昨夜のことが思い出されて、わたしは一人で頬を熱くしていました。
「どうしたん? 具合でも悪いんか?」
「いえ、大丈夫です」
「うーん。貴世子の家までちょっと遠いからな、俥でも頼もか?」
「いえ、大丈夫です。歩けますっ」
わたしは勢い込んで言いました。
だって俥だと別々に乗らないといけないんですもの。ここがどの辺りか、土地勘のないわたしには分かりませんが。
でも、残された時間を幾久司さんの隣で歩いていたいんです。
「家に帰ったら、颱風の後の片付けもあるやろけど。今日は寝とくんやで」
うんうん、とわたしは頷きました。
ちゃんと言うことを聞かないと「無理しそうやから、やっぱり俥にしよ」と言われそうだからです。
玄関を出て、木戸のような門を開こうとしたところで幾久司さんは家を振り返りました。
「あー。昨夜は暗いから気づかんかったなぁ」
玄関を出たところで、幾久司さんは振り返りました。わたしの視線の高さでは見えないのですが。背伸びをすると、どうやら折れた太い枝が屋根を直撃しているようです。
「俺らが戻ってくる前に、もう折れたみたいやな。あかんなぁ、瓦が落ちてしもとう。あの枝を退けたら、雨漏りは確実やな」
わたし達がいた部屋……つまり幾久司さんが主に生活している部屋からは離れているようですが。修繕しないと暮らすのも難しそうです。
わたしの家で一緒に暮らしませんか? そう誘えば、幾久司さんとこれからも離れずに済むでしょうか。
勇気を出して。ほら、言うのよ。
拳をきゅっと握りしめて、わたしは唇を開きました。
「あの……」
「しゃあないな。昔みたいに、組長の家に厄介になるか。雪野姐がうるさそうやけどな」
頭を掻きながら、幾久司さんがわたしに視線を向けます。
「何か言いかけた?」と問われて、わたしは慌てて首を振りました。
「いえ、何も。補修も大変そうですね」
「せやなぁ。もともと古い家やから、しゃあないわ」
「うちも相当古いですよ」
「けど、格が違うやろ。貴世子ん家はお屋敷やもんな」
「女中部屋はあっても、今では使用人は誰もおりませんよ。ただ広いだけです」
幾久司さんは「またまた、そんな風に謙遜して」と笑いました。
それに応じるように、わたしも笑います。
けれど、うまく笑えているでしょうか。口の端や頬がこわばってはいないでしょうか。
道の土はまだ湿っており、轍には水たまりができています。轍の間に伸びた草は濡れており、朝日にきらきらと煌めいていました。
これがお散歩なら、どんなにか楽しいでしょう。
一緒に家に戻れるのなら、どれほど心が踊ることでしょう。
「ほら、手ぇつないだろ。歩くん、しんどいやろ」
「え、あの……」
「平気、平気。皆、颱風の片付けで俺らのことなんか見てへんから」
幾久司さんのおっしゃるように、通りの左右の家では梯子で屋根に上る男性や、窓に打ち付けた板を外す人の姿が見えました。
わたしが手を伸ばすと、幾久司さんはぎゅっと力を入れてつないできたんです。
まるで、決して離さないとでもいう風に。
もちろん、勝手な願望であることは分かっています。
ですが、わたしも力を込めて幾久司さんの大きな手を握りしめました。
ですが風はまだ湿り気を帯びており、わたしが身に着けた大きな外套の裾を揺らします。
洗剤の香りのその奥に、うっすらと幾久司さんの匂いがするようで。
昨夜のことが思い出されて、わたしは一人で頬を熱くしていました。
「どうしたん? 具合でも悪いんか?」
「いえ、大丈夫です」
「うーん。貴世子の家までちょっと遠いからな、俥でも頼もか?」
「いえ、大丈夫です。歩けますっ」
わたしは勢い込んで言いました。
だって俥だと別々に乗らないといけないんですもの。ここがどの辺りか、土地勘のないわたしには分かりませんが。
でも、残された時間を幾久司さんの隣で歩いていたいんです。
「家に帰ったら、颱風の後の片付けもあるやろけど。今日は寝とくんやで」
うんうん、とわたしは頷きました。
ちゃんと言うことを聞かないと「無理しそうやから、やっぱり俥にしよ」と言われそうだからです。
玄関を出て、木戸のような門を開こうとしたところで幾久司さんは家を振り返りました。
「あー。昨夜は暗いから気づかんかったなぁ」
玄関を出たところで、幾久司さんは振り返りました。わたしの視線の高さでは見えないのですが。背伸びをすると、どうやら折れた太い枝が屋根を直撃しているようです。
「俺らが戻ってくる前に、もう折れたみたいやな。あかんなぁ、瓦が落ちてしもとう。あの枝を退けたら、雨漏りは確実やな」
わたし達がいた部屋……つまり幾久司さんが主に生活している部屋からは離れているようですが。修繕しないと暮らすのも難しそうです。
わたしの家で一緒に暮らしませんか? そう誘えば、幾久司さんとこれからも離れずに済むでしょうか。
勇気を出して。ほら、言うのよ。
拳をきゅっと握りしめて、わたしは唇を開きました。
「あの……」
「しゃあないな。昔みたいに、組長の家に厄介になるか。雪野姐がうるさそうやけどな」
頭を掻きながら、幾久司さんがわたしに視線を向けます。
「何か言いかけた?」と問われて、わたしは慌てて首を振りました。
「いえ、何も。補修も大変そうですね」
「せやなぁ。もともと古い家やから、しゃあないわ」
「うちも相当古いですよ」
「けど、格が違うやろ。貴世子ん家はお屋敷やもんな」
「女中部屋はあっても、今では使用人は誰もおりませんよ。ただ広いだけです」
幾久司さんは「またまた、そんな風に謙遜して」と笑いました。
それに応じるように、わたしも笑います。
けれど、うまく笑えているでしょうか。口の端や頬がこわばってはいないでしょうか。
道の土はまだ湿っており、轍には水たまりができています。轍の間に伸びた草は濡れており、朝日にきらきらと煌めいていました。
これがお散歩なら、どんなにか楽しいでしょう。
一緒に家に戻れるのなら、どれほど心が踊ることでしょう。
「ほら、手ぇつないだろ。歩くん、しんどいやろ」
「え、あの……」
「平気、平気。皆、颱風の片付けで俺らのことなんか見てへんから」
幾久司さんのおっしゃるように、通りの左右の家では梯子で屋根に上る男性や、窓に打ち付けた板を外す人の姿が見えました。
わたしが手を伸ばすと、幾久司さんはぎゅっと力を入れてつないできたんです。
まるで、決して離さないとでもいう風に。
もちろん、勝手な願望であることは分かっています。
ですが、わたしも力を込めて幾久司さんの大きな手を握りしめました。
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