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一章

8、来客【3】

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「お嬢? どないしたんや。気分でも悪いんか」
「良かったです…幾久司さんがご無事で」

 わたしの言葉に、幾久司さんは呆気にとられたような顔をなさいました。
 どう答えていいのか、分からないといったご様子です。
 
 わたし、何かおかしなことを口走ったのかしら。

「えー、えーっと、ありがとうな?」

 口をへの字に結んで、幾久司さんは頭を掻きました。
 よかった。怒ってはいらっしゃらないみたい。

「こんな風に心配されたことがないから。どう反応してええんか分からへん」
「ご迷惑でしたか?」
「いや、そうやのうて。なんか背中がもぞもぞする」

 これまで経験したことのない感覚や、と困ったように呟いてらっしゃいます。
 後ろを向いた幾久司さんの背中。そこに彫られた観音さまも何故か照れていらっしゃるように見えました。

◇◇◇

 俺は混乱しとった。
 いろんな感情がいっぺんに押し寄せてきたからや。

 貴世子が隠れとう押し入れに、賊はいきなり刀を突きたてた。
 一瞬、心臓が止まったかと思た。

 けど、中から悲鳴も呻き声も聞こえへんし、人の体を刺したにしては軽々と奥まで刀は刺さった。あんまり考えたないけど。
 せやから、布団に刺さったんやと自分を納得させた。

 貴世子は細身で小柄や。けど、電力会社を騙る賊には貴世子の体格は分からへん。
 たまたま刃がかすりもせんと、無事やっただけや。

 だからというて、彼女を狙ったことは許されることやない。
 俺はそいつの腕をへし折り、ついでに両方の足首も折っといた。
 
 手に馴染んだ、鈍くて嫌な感触。
 けど、これで賊は歩くことも、這うことも、武器を取ることもできへんはずや。

「あの……幾久司さんはご無事ですか?」
「ああ、何ともあらへんで」

 恐る恐る襖の陰から顔を出す貴世子。薄紅の襦袢姿のままで、辺りを窺ってる。
 あのなぁ、自分。なんで俺の心配をしとんねん。
 優しいんか。それとも俺のことが好きなんか?

 好き? ふっと湧いて出た言葉に、俺は動揺した。
 いや、お嬢さんである貴世子とは、そもそも住む世界が違うやろ。
 これは仕事や。
 貴世子からこの家を奪おうとする奴らを叩きだして、あとは法律関係は、うちの組と懇意にしとう弁護士に任せたらええねん。

 そしたら俺は普段通りの責任のない、組長の大甥に戻れる。
 貴世子も家を手放さんで済んだら、何か仕事を見つけるやろ。そして、社内で見初められたり縁談が持ち込まれたりして、嫁いでいくんや。

 落ちぶれたとはいえお嬢さんの貴世子とヤクザ者の俺の人生は、本来交わることはない。
 今回は、ほんのちょっとすれ違っただけや。

 まぁ、それでええ。賊とはいえ相手の骨を折るのに躊躇もせん男なんか、お嬢には野蛮でしかないからな。

 どっかの誰かと結婚した貴世子が、いつか子どもに「お母さまが若い頃に、こんな怖いことがあったのよ」と話して聞かせて、それだけや。
 
 けど、せめてこの颱風が過ぎ去るまでは。
 嵐が去って、貴世子が落ち着くまでは……それまでは一緒にいてやりたい。
 いや、一緒にいたい。

 多分、一生で一度のささやかな願いやった。
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