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四章
8、これは逢引きなんか?【2】
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逢引き。
その言葉を脳内で何度も繰り返し、心で幾度も味わう。
甘美な言葉やなぁ。まさか三十年生きてきて、自分が逢引きなんて、甘酸っぱいもんを経験するとは思わんかった。
ああいうもんは、どっかの書生と初心な女學生がするもんやと思とった。
しかも相手は絲さんや。
あかん、口許が緩んでしまいそうや。
俺は平静を装ったが、ソーサーに置いたカップがかちゃんと音を立ててしまった。
絲さんは、さっきの小箱を手にとっては嬉しそうに眺めている。
家にいる時と、していることは変わらへんのに。なんで外やったら、こんなにも特別感があるんやろ。
「そういえば、蒼一郎さんのお買い物はないんですか?」
「今日は絲さんの日傘を買いに来たんやで」
「ですけど。わたしばかり買っていただくのも、気が引けます」
何を言うんかな。この子は。
俺が欲しいのは絲さんで、それ以外には特にないし。
「そうやなぁ、欲しいのあったわ」
「何ですか?」
嬉しそうに顔を輝かせて、絲さんが身を乗り出してくる。
「わたし、お金は持ってないですけど。蒼一郎さんが欲しいものなら、選ぶところを見てみたいです」
「選ぶんは無理やろなぁ」
「どうしてですか? 一つしか無いものなの?」
葡萄のジュースを飲んでしまった絲さんに、真正面から見つめられる。
水滴が、グラスの表面をつーっと流れて、そして縁がレースになった小さなコップ敷きに吸い込まれていく。
「選ぶとか、傲慢なことは言われへんなぁ」
「あら、蒼一郎さんらしくないですね」
おいおい、君は俺のことをどう思とんや?
俺は珈琲を飲みながら、しみじみと考えた。そして名案が閃いた。
「せや、絲さん。夏休みの間に、温泉に行こか」
「温泉? 夏にですか?」
「血の巡りが良くなるし。絲さんが健康になった方が、欲しいもんが出来やすくなるからなぁ」
そこまで告げても、絲さんはぴんと来ないようだ。
けど、俺はすでに絲さんと温泉に一緒に浸かって、にこにこと微笑みあってる姿を想像してしまった。
そう、頭に思い描いたことは現実にせんと気が済まんのや。
「美肌になるで。美顔水とか云うのを塗りたくるより、ええらしいで」
「行きますっ」
おっ。存外簡単に釣れたな。
そもそも、全身すべすべの肌やのに。絲さんは身を乗り出した。
◇◇◇
喫茶室で葡萄ジュースを頂いた後、わたし達は店舗の一階で日傘を買い求めました。
黒い蝙蝠傘でも問題ないのですけど。どうしても「白で、愛らしいフリルがついているのを」と蒼一郎さんがこだわって選びます。
「これが一番可愛い」
「でもお高いですよ」
「絲さんに似合うんは、一番かわいいヤツに決まっとうやろ」
あの、褒めてくださるのは嬉しいんですけど。家ではなくて外なので、そういうのは恥ずかしいんです。
それに蒼一郎さんは教えてくださらないので、わたしも敢えて尋ねないのですが。百貨店の中に三條組の方が、三人ほどいるようです。
登校日にも送り迎えだけでなく、校内に蒼一郎さんは波多野さんが入ってらしたので、まだ安全という訳ではないのでしょう。
わたしは蒼一郎さんから離れないように、ぴったりと背中にくっついていました。
「なんや、絲さん。歩きにくいで」
「済みません。離れた方がいいですか?」
「いや、そういう訳やあらへんけど」
ふいに蒼一郎さんがわたしの手を握りました。そして振り返って微笑みます。
「どうせやったら、手ぇ繋いで横になって歩いた方がええやろ」
そ、そんな。だって百貨店の中ですよ。お店の人もお客さんもいらっしゃいます。
蒼一郎さんは組長で有名な方だから。女學生と手を繋ぐなんて目立ちますよ。
人目を気にするわたしの歩みは、普段よりも遅いのですが。蒼一郎さんは、わたしに歩調を合わせてくださいます。
その時でした。
「お客さま!」という叫び声を聞いたのは。
その言葉を脳内で何度も繰り返し、心で幾度も味わう。
甘美な言葉やなぁ。まさか三十年生きてきて、自分が逢引きなんて、甘酸っぱいもんを経験するとは思わんかった。
ああいうもんは、どっかの書生と初心な女學生がするもんやと思とった。
しかも相手は絲さんや。
あかん、口許が緩んでしまいそうや。
俺は平静を装ったが、ソーサーに置いたカップがかちゃんと音を立ててしまった。
絲さんは、さっきの小箱を手にとっては嬉しそうに眺めている。
家にいる時と、していることは変わらへんのに。なんで外やったら、こんなにも特別感があるんやろ。
「そういえば、蒼一郎さんのお買い物はないんですか?」
「今日は絲さんの日傘を買いに来たんやで」
「ですけど。わたしばかり買っていただくのも、気が引けます」
何を言うんかな。この子は。
俺が欲しいのは絲さんで、それ以外には特にないし。
「そうやなぁ、欲しいのあったわ」
「何ですか?」
嬉しそうに顔を輝かせて、絲さんが身を乗り出してくる。
「わたし、お金は持ってないですけど。蒼一郎さんが欲しいものなら、選ぶところを見てみたいです」
「選ぶんは無理やろなぁ」
「どうしてですか? 一つしか無いものなの?」
葡萄のジュースを飲んでしまった絲さんに、真正面から見つめられる。
水滴が、グラスの表面をつーっと流れて、そして縁がレースになった小さなコップ敷きに吸い込まれていく。
「選ぶとか、傲慢なことは言われへんなぁ」
「あら、蒼一郎さんらしくないですね」
おいおい、君は俺のことをどう思とんや?
俺は珈琲を飲みながら、しみじみと考えた。そして名案が閃いた。
「せや、絲さん。夏休みの間に、温泉に行こか」
「温泉? 夏にですか?」
「血の巡りが良くなるし。絲さんが健康になった方が、欲しいもんが出来やすくなるからなぁ」
そこまで告げても、絲さんはぴんと来ないようだ。
けど、俺はすでに絲さんと温泉に一緒に浸かって、にこにこと微笑みあってる姿を想像してしまった。
そう、頭に思い描いたことは現実にせんと気が済まんのや。
「美肌になるで。美顔水とか云うのを塗りたくるより、ええらしいで」
「行きますっ」
おっ。存外簡単に釣れたな。
そもそも、全身すべすべの肌やのに。絲さんは身を乗り出した。
◇◇◇
喫茶室で葡萄ジュースを頂いた後、わたし達は店舗の一階で日傘を買い求めました。
黒い蝙蝠傘でも問題ないのですけど。どうしても「白で、愛らしいフリルがついているのを」と蒼一郎さんがこだわって選びます。
「これが一番可愛い」
「でもお高いですよ」
「絲さんに似合うんは、一番かわいいヤツに決まっとうやろ」
あの、褒めてくださるのは嬉しいんですけど。家ではなくて外なので、そういうのは恥ずかしいんです。
それに蒼一郎さんは教えてくださらないので、わたしも敢えて尋ねないのですが。百貨店の中に三條組の方が、三人ほどいるようです。
登校日にも送り迎えだけでなく、校内に蒼一郎さんは波多野さんが入ってらしたので、まだ安全という訳ではないのでしょう。
わたしは蒼一郎さんから離れないように、ぴったりと背中にくっついていました。
「なんや、絲さん。歩きにくいで」
「済みません。離れた方がいいですか?」
「いや、そういう訳やあらへんけど」
ふいに蒼一郎さんがわたしの手を握りました。そして振り返って微笑みます。
「どうせやったら、手ぇ繋いで横になって歩いた方がええやろ」
そ、そんな。だって百貨店の中ですよ。お店の人もお客さんもいらっしゃいます。
蒼一郎さんは組長で有名な方だから。女學生と手を繋ぐなんて目立ちますよ。
人目を気にするわたしの歩みは、普段よりも遅いのですが。蒼一郎さんは、わたしに歩調を合わせてくださいます。
その時でした。
「お客さま!」という叫び声を聞いたのは。
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