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第二部七章 帰陣

書状と密書

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 「……」

 信繁の問いかけに、藤吉郎は一瞬表情を消した。
 だが、すぐに先ほどまでのにこやかな顔に戻り、小さく首を横に振る。

「目的……それは、先ほども申し上げた通り、妻の懐妊を願う為に恵那神社へ――」
「あまり儂の事を舐めるなよ、木下殿」

 藤吉郎の言葉を、信繁が険しい声で遮った。
 そして、地面の上で胡坐をかく藤吉郎を馬上から油断の無い目で見据える。
 彼の鋭い視線を浴びた藤吉郎だったが、さして怖気づいた様子もなく、その顔に浮かんだ笑みを苦笑に変えながら頭を掻いた。

「……いやはや、やっぱり誤魔化せませぬか。まあ、恵那神社詣でも目的のひとつには間違い御座らぬのだが」

 そうぼやくように言った藤吉郎は、細めた目で信繁の隻眼を見返しながら言葉を継ぐ。

「なに……ウチの殿から、ちょいと苗木と岩村へ行って来いと命じられましてな。その御使いの最中なのですよ」
「な……っ!」

 藤吉郎の答えに驚愕の声を上げたのは、彼の傍らに座っていた蜂須賀又十郎だった。
 彼は、狼狽えながら藤吉郎に向けて声を荒げる。

「おい藤吉郎ッ! き、貴様……何を馬鹿正直に答えておるのだ!」
「いやぁ、そう申されましても……」

 藤吉郎は、血相を変えた又十郎の怒声に身を竦めながら、信繁たちの事を指さした。

「武田様は聡い上に手強い御仁ですから、もう『恵那神社へ参るだけ』といくら言ったところで信じて頂けないでしょう。だったら、いっそ正直に話してしまった方が逆に手っ取り早いかな、と」
「な、何が『逆に手っ取り早い』なのか、まるで意味が解らん……」

 悪びれもせずに答える藤吉郎に、呆れと諦めと怒りと困惑が入り混じった表情を浮かべて頭を抱える又十郎。
 ――だが、藤吉郎の答えに当惑しているのは、彼だけではなかった。

「苗木と岩村へ……か」

 藤吉郎の言葉に、信繁は眉間に深い皺を寄せながら、更に問い質す。

「答えは訊くまでもなく分かり切っておるが、敢えて訊こう。――織田弾正忠殿は、苗木と岩村で何をしてこいとお主らに命じたのだ?」
「典厩様……」

 浅利信種が、信繁におずおずと囁いた。

「それは、訊くだけ無駄かと……どうせ、苗木城の遠山勘太郎殿と岩村城の遠山大和守殿に何か良からぬ事を吹き込む為に決まっておりましょう」
「そうであろうが……どうも引っかかる」

 信繁は信種の言葉に同意するが、胡乱げな表情のままで、顎髭を指で撫でる。

「斯様な調略を仕掛けようとしている最中であれば、なぜ自らの存在を我らの前に晒すような真似をしたのだ? 普通なら、出来る限り隠密裏に事を運ぼうとするものではないか?」
「それは……確かに……」

 信種は、先ほどの状況を思い浮かべ、ハッとした。

(――あの時、木下藤吉郎この男は、自分から典厩様に声をかけていた)

 調略の最中であるならば、出来る限り自分の存在を隠すのが当然だし、鉄則だ。
 先ほどの状況ならば、己の顔が見られぬように平伏して、信繁一行の事をやり過ごそうとするのが普通だ。
 だが――藤吉郎は、隠れるどころか、自ら声を上げて自身の存在を信繁に知らせていた。
 明らかに、おかしい。
 ――と、

「ああ、その事に御座りますか?」

 ふたりの会話にそれとなく聞き耳を立てていた藤吉郎が、苦笑しながら声を上げる。

「おふたりが考えておるような胡乱な事など何も御座いませぬぞ。某らは、ただ殿の書状を届けに参っただけですので」
「書状?」

 訝しげに訊き返した信繁に頷いた藤吉郎は、唐突に傍らの又十郎の着物を引っ掴むと、その袖を勢いよく破った。

「な……何をする藤吉郎ッ! やめよ! それは……」
「まあまあ、ご案じなさるな」

 突然の事に焦りの叫びを上げ、必死に身を捩ろうとする又十郎を涼しい顔で宥めながら、藤吉郎は破いた着物の袖に縫い付けられていた何かをむしり取る。
 ――それは、白い懸け紙に包まれた二通の書状だった。

「それは……?」
「見ての通り、殿からの書状に御座います」

 訝しげに尋ねる信繁にニコリと笑いかけながら、藤吉郎は答える。

「――苗木城の遠山勘太郎殿と、岩村城のおつや様に宛てた……ね」
「!」

 藤吉郎の言葉を聞いた信繁たちの顔色が変わった。
 だが、彼の暴露に最も仰天したのは、蜂須賀又十郎だった。

「と、藤吉郎ッ? 貴様……そこまで明かすとは……乱心したかッ?」
「いえいえ、某は至って正気に御座るよ」

 激しく狼狽する又十郎を見ながら、涼しい顔で首を横に振った藤吉郎は、手にした二通の書状をヒラヒラと振りながら言葉を継ぐ。

「だって、別にコソコソ隠すような類の書状じゃありませぬからな、コレは」
「ほう……」

 彼の言葉に隻眼を光らせた信繁は、又十郎の裂けた野良着を指さした。

「こそこそと隠す類のものではないというのなら、なぜわざわざ着物の袖に縫い付けておったのだ? ……まるで、密書のように」
「ははは……やっぱり、隠しているように見えてしまいますかな」

 信繁の指摘にも、藤吉郎は一向に動じる様子を見せずに答える。

「別に隠してる訳では御座いませぬ。――ただ、この又十郎殿は、救いようも無いほどの粗忽者でしてな。どんな大切な物も、すぐにどこかに落としたり忘れたりしてしまうのですよ。ですから、絶対に落とさぬよう、着物に縫い付けさせておるのです」

 そうしれっと答えた藤吉郎は、わざとらしく肩を竦めてみせた。

「まったく……いちいち手間がかかって仕方御座いませぬ」
「戯けた事を申すな!」

 彼の言葉に顔面を朱に染めて怒鳴ったのは、浅利信種だった。

「斯様にあからさまな嘘を我らが信じると思うのか、お主はッ!」
「嘘では御座いませぬって」

 藤吉郎は、信種の怒声にも全く怖じず、苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
 そして、恨めしげな目を傍らの又十郎に向けて言った。

「まったく……貴方様のせいで、要らぬ疑いをかけられてしまいましたぞ、又十郎殿」
「……」

 藤吉郎に恨めしげな目を向けられた又十郎は、何か言いたげに口を動かしかけたが、結局憮然とした顔で黙り込む。
 ――と、

「なるほどな……」

 ふたりのやり取りを黙って聞いていた信繁が、小さく頷き、藤吉郎が持つ書状を指さした。

「つまり、それは密書でも何でもないただの書状だと、貴殿は言い張るのだな?」
「ええ、はい」
「ならば――」

 自分の問いかけに頷いた藤吉郎の顔を油断の無い目で睨み据えながら、信繁は有無を言わせぬ口調で命じる。

「今ここで、儂がその二通の書状をあらためる。その内容に胡乱なものが無ければ、貴殿の言葉を信じるとしよう」
「……」

 信繁の言葉を聞いた藤吉郎は、一瞬目を鋭くさせた。
 それを見た信繁の表情が、一層厳しくなる。

「……どうした? やはり、その中に書いてあるのは、儂に……武田家の人間には見せる事が出来ぬ内容なのか?」
「……いえいえ。滅相も無い」

 信繁の追及に、藤吉郎は首を軽く横に振りながら口元を綻ばせ、あっさりと手にした書状を彼に向けて差し出した。

「畏まり申した! どうぞ存分に御検め下され。さすれば、某の言うておる事がたばかりではない事がはっきりいたしましょう」
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