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第二部七章 帰陣
咎と功
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「典厩様、くれぐれもお気をつけて甲斐までお戻り下され」
片口で信繁の盃に酒を注ぎながら、浅利信種が言った。
その言葉に、信繁は頷く。
「ああ、分かっておる」
「そろそろ雪が降り出す季節ですからな。寒さ対策も万全にせねばなりませぬぞ」
そう言いながら、信種はおもむろに片手を挙げた。
彼の合図に応じて、襖の外に控えていた小者が、何かを恭しく捧げ持ちながら室内に入って来る。
信種は、それを小者から受け取り、信繁に向かって恭しく差し出した。
「宜しければ、どうぞお受け取り下され」
「おお……これは」
信繁は、思わず感嘆の声を上げる。
信種が差し出したのは、いかにも暖かそうな毛皮の羽織だった。
「熊皮の羽織に御座る。これを着れば、雪に覆われた冬山の中でも凍える事は御座いませぬ」
「うむ……そうだな」
羽織の表面を覆う真っ黒な毛を手で撫でながら、信繁は大きく頷き、自慢げな信種に向かって微笑みかける。
「有難く使わせてもらおう。感謝するぞ、右馬助」
「いえいえ! お気に召して頂けたのなら何よりに御座いまする!」
信繁からの感謝の言葉に、信種は喜色を露わにした。
と、彼の横に座った保科正俊が改まった様子で口を開く。
「典厩様……」
「ん? 何だ、甚四郎よ?」
怪訝そうな顔をして訊き返した信繁に、正俊は真剣な顔で尋ねた。
「此度の戦いで討ち死にした諏訪衆の事……お屋形様には何と……?」
「……!」
正俊の言葉を聞いた一同が、一斉に表情を変える。
一方、問いかけられた信繁は、無言で傍らに熊皮の羽織を置くと、背筋を伸ばして正俊の顔をまっすぐに見つめた。
「……小原丹後か」
「……はっ」
信繁の問いかけに、正俊は小さく頷く。
――前の安藤軍との戦いにおいて、不在の勝頼に代わって諏訪衆を率い、先備の一角を担っていた小原丹後守継忠は、功を焦って抜け駆けし、敵の策に嵌って数多の将兵を失ったのだった。
戦場において、自分勝手な抜け駆けは決して褒められた所業ではない。その行いによって、自軍に多大な犠牲をもたらしたのなら尚更だ。
継忠自身も、その事は重々承知しており、己の失態の責を負おうと敵陣で奮戦した末に壮烈な討ち死にを遂げたが……それだけで、彼の咎が全て赦された訳ではない。
もし、抜け駆けの件が当主である信玄の耳に伝わったなら――武田家の軍法に則って、継忠本人だけではなく、小原家の一族郎党も罪に問われるかもしれない。
いや、それだけに止まらず……諏訪衆を束ねる立場である勝頼自身に沙汰が及ぶ可能性も――。
「……あの時の小原丹後の所業は――御当家の軍法に照らして、決して赦されるものではない事は重々承知しております。ですが……」
「……」
正俊の言葉に、信繁は言葉を返さず、難しい顔で腕組みをした。
そんな彼の顔を窺い見ながら、正俊はなおも訴えかける。
「正直……小原丹後の奮戦が無ければ、我ら高遠衆と我らが救い出した諏訪衆の生き残りが御味方と合流できたかどうか分かりませぬ。――確かに、敵の策に嵌った小原の浅慮は擁護できませぬが、一命を賭して味方の活路を開いた功がある事も、また事実……」
「……」
「何卒……小原の遺族や郎党には咎が及ばぬよう、典厩様の御配慮を賜りたく……。それが、あの戦場で小原めに命を救われたそれがしの願いに御座ります」
そう言って、正俊は信繁に向けて深々と頭を下げた。
「……」
部屋の中に、重苦しい沈黙が垂れ込める。
信種や信春はもちろん、常に皮肉げな薄笑みを口の端に浮かべているような幸綱でさえも、神妙な顔をして押し黙っていた。
「……典厩様」
「……」
見かねた昌幸が、おずおずと信繁に声をかけるが、彼はそれを遮るように、無言で片手を軽く挙げる。
そして、思案するように顎髭を擦り――平伏する正俊に目を落とした。
「……甚四郎、面を上げよ」
「……はっ」
信繁に促され、おずおずと頭を上げる正俊。
無表情で彼の顔をじっと見つめた信繁は――ふっと相好を崩した。
「――案ずるな、甚四郎」
「典厩様……」
「お主に言われずとも、元より小原丹後守の抜け駆けの件を明かすつもりはなかった」
そう言って盃を干した信繁は、ほうと息を吐いて、再び言葉を継ぐ。
「小原丹後守は、敵の策によって包囲され、奮戦の末に華々しい討ち死を遂げた――お屋形様には、そう伝えるつもりだった。……嘘は吐いておらぬだろう?」
「典厩様……!」
信繁の答えを聞いた正俊が、パッと顔を輝かせ、もう一度深々と平伏した。
そんなふたりを見る昌幸たちも、ホッと安堵の息を吐く。
「有難き事に御座りまする、典厩様……!」
「まあ……そういう事であるから」
正俊の感謝の言葉に照れくさそうな表情を浮かべながら頭を掻いた信繁は、その場に居合わせた者たちの顔を見回した。
「お主らも、儂が今申した通りに口裏を合わせてくれよ」
「ははは、お任せ下されぃ!」
信繁の念押しに、幸綱が満面の笑みを浮かべ、大きく頷く。
「ワシは、適当に口裏を合わせたり誤魔化すのは、得意中の得意ですからな! カッカッカッ!」
「いや、親父殿……それは、胸を張っていい事ではないでしょうが……」
堂々と言い放つ父親に、昌幸が呆れ顔で言った。
「ぷ……それは確かに!」
「ふはははは……! これは、まんまと馬脚を現しましたな、一徳斎殿!」
「ふふ……馬脚を現すも何も……初めから隠す気など無かったであろうというくらいにハッキリと見えておったがな、ははは……」
ふたりのやり取りに、信繁たちも思わず吹き出し、宴席の場は和やかな空気に包まれたのだった――。
片口で信繁の盃に酒を注ぎながら、浅利信種が言った。
その言葉に、信繁は頷く。
「ああ、分かっておる」
「そろそろ雪が降り出す季節ですからな。寒さ対策も万全にせねばなりませぬぞ」
そう言いながら、信種はおもむろに片手を挙げた。
彼の合図に応じて、襖の外に控えていた小者が、何かを恭しく捧げ持ちながら室内に入って来る。
信種は、それを小者から受け取り、信繁に向かって恭しく差し出した。
「宜しければ、どうぞお受け取り下され」
「おお……これは」
信繁は、思わず感嘆の声を上げる。
信種が差し出したのは、いかにも暖かそうな毛皮の羽織だった。
「熊皮の羽織に御座る。これを着れば、雪に覆われた冬山の中でも凍える事は御座いませぬ」
「うむ……そうだな」
羽織の表面を覆う真っ黒な毛を手で撫でながら、信繁は大きく頷き、自慢げな信種に向かって微笑みかける。
「有難く使わせてもらおう。感謝するぞ、右馬助」
「いえいえ! お気に召して頂けたのなら何よりに御座いまする!」
信繁からの感謝の言葉に、信種は喜色を露わにした。
と、彼の横に座った保科正俊が改まった様子で口を開く。
「典厩様……」
「ん? 何だ、甚四郎よ?」
怪訝そうな顔をして訊き返した信繁に、正俊は真剣な顔で尋ねた。
「此度の戦いで討ち死にした諏訪衆の事……お屋形様には何と……?」
「……!」
正俊の言葉を聞いた一同が、一斉に表情を変える。
一方、問いかけられた信繁は、無言で傍らに熊皮の羽織を置くと、背筋を伸ばして正俊の顔をまっすぐに見つめた。
「……小原丹後か」
「……はっ」
信繁の問いかけに、正俊は小さく頷く。
――前の安藤軍との戦いにおいて、不在の勝頼に代わって諏訪衆を率い、先備の一角を担っていた小原丹後守継忠は、功を焦って抜け駆けし、敵の策に嵌って数多の将兵を失ったのだった。
戦場において、自分勝手な抜け駆けは決して褒められた所業ではない。その行いによって、自軍に多大な犠牲をもたらしたのなら尚更だ。
継忠自身も、その事は重々承知しており、己の失態の責を負おうと敵陣で奮戦した末に壮烈な討ち死にを遂げたが……それだけで、彼の咎が全て赦された訳ではない。
もし、抜け駆けの件が当主である信玄の耳に伝わったなら――武田家の軍法に則って、継忠本人だけではなく、小原家の一族郎党も罪に問われるかもしれない。
いや、それだけに止まらず……諏訪衆を束ねる立場である勝頼自身に沙汰が及ぶ可能性も――。
「……あの時の小原丹後の所業は――御当家の軍法に照らして、決して赦されるものではない事は重々承知しております。ですが……」
「……」
正俊の言葉に、信繁は言葉を返さず、難しい顔で腕組みをした。
そんな彼の顔を窺い見ながら、正俊はなおも訴えかける。
「正直……小原丹後の奮戦が無ければ、我ら高遠衆と我らが救い出した諏訪衆の生き残りが御味方と合流できたかどうか分かりませぬ。――確かに、敵の策に嵌った小原の浅慮は擁護できませぬが、一命を賭して味方の活路を開いた功がある事も、また事実……」
「……」
「何卒……小原の遺族や郎党には咎が及ばぬよう、典厩様の御配慮を賜りたく……。それが、あの戦場で小原めに命を救われたそれがしの願いに御座ります」
そう言って、正俊は信繁に向けて深々と頭を下げた。
「……」
部屋の中に、重苦しい沈黙が垂れ込める。
信種や信春はもちろん、常に皮肉げな薄笑みを口の端に浮かべているような幸綱でさえも、神妙な顔をして押し黙っていた。
「……典厩様」
「……」
見かねた昌幸が、おずおずと信繁に声をかけるが、彼はそれを遮るように、無言で片手を軽く挙げる。
そして、思案するように顎髭を擦り――平伏する正俊に目を落とした。
「……甚四郎、面を上げよ」
「……はっ」
信繁に促され、おずおずと頭を上げる正俊。
無表情で彼の顔をじっと見つめた信繁は――ふっと相好を崩した。
「――案ずるな、甚四郎」
「典厩様……」
「お主に言われずとも、元より小原丹後守の抜け駆けの件を明かすつもりはなかった」
そう言って盃を干した信繁は、ほうと息を吐いて、再び言葉を継ぐ。
「小原丹後守は、敵の策によって包囲され、奮戦の末に華々しい討ち死を遂げた――お屋形様には、そう伝えるつもりだった。……嘘は吐いておらぬだろう?」
「典厩様……!」
信繁の答えを聞いた正俊が、パッと顔を輝かせ、もう一度深々と平伏した。
そんなふたりを見る昌幸たちも、ホッと安堵の息を吐く。
「有難き事に御座りまする、典厩様……!」
「まあ……そういう事であるから」
正俊の感謝の言葉に照れくさそうな表情を浮かべながら頭を掻いた信繁は、その場に居合わせた者たちの顔を見回した。
「お主らも、儂が今申した通りに口裏を合わせてくれよ」
「ははは、お任せ下されぃ!」
信繁の念押しに、幸綱が満面の笑みを浮かべ、大きく頷く。
「ワシは、適当に口裏を合わせたり誤魔化すのは、得意中の得意ですからな! カッカッカッ!」
「いや、親父殿……それは、胸を張っていい事ではないでしょうが……」
堂々と言い放つ父親に、昌幸が呆れ顔で言った。
「ぷ……それは確かに!」
「ふはははは……! これは、まんまと馬脚を現しましたな、一徳斎殿!」
「ふふ……馬脚を現すも何も……初めから隠す気など無かったであろうというくらいにハッキリと見えておったがな、ははは……」
ふたりのやり取りに、信繁たちも思わず吹き出し、宴席の場は和やかな空気に包まれたのだった――。
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