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第二部七章 帰陣
後事と懸念
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「まあ……ともかく」
注がれた酒を飲み干した信繁は、信春と幸綱の顔を見回しながら、改まった声で言った。
「後の事は任せたぞ、美濃、弾正」
「「はっ!」」
信繁の言葉を聞いた信春と幸綱は、ピンと背筋を伸ばし、両手をついて深々と頭を下げる。
「ご安心下され。典厩様よりお預かりしたこの地、命に代えても守り通しまする!」
「まあ、ワシはともかく、“鬼美濃”殿が居られる限り、織田も斎藤も迂闊に手出しは出来ますまい。どうぞ大舟に乗った気で、ご安心して甲斐にお戻り下され。カッカッカッ!」
「そうだな……」
ふたりの頼もしい返事を聞いて、満足げに頷いた信繁だったが、つと表情を引き締めた。
「……とはいえ、努々油断いたすなよ。百戦錬磨のお主らには釈迦に説法かもしれぬが、この乱世、いつ何時情勢が変わるか分からぬからな」
「はっ! 無論、重々に承知しておりまする!」
信繁の忠告に大きく頷いた信春は、豊かな顎髭を撫でながら言葉を継ぐ。
「まずは、此度の戦で損壊した烏峰城の修復を早急に進める事といたします。ついでに、気になる所の改修も兼ねて」
「そうですなぁ」
信春の言葉に、幸綱もうんうんと頷いた。
「特に、ワシが本丸に攻め込んだ北東の急所……あそこは早急にどうにかせねばなりますまいのう。出丸を設けるか、土塁で遮ってから虎口を切るか……」
「あるいは、その両方を施すか……」
幸綱の言葉にそう付け加えると、信春はニヤリと笑った。
「いや……これほど大規模に城の縄張 (設計)に手を付けるのは、深志 (現在の松本城)以来に御座る。今から腕が鳴りまするな」
「新たな勘助仕込みの縄張術が拝めるという事か。それは楽しみだ」
そう言って信春に微笑みかけた信繁は、次いで幸綱の方に顔を向ける。
「……弾正。尾張方面の抑えは頼んだぞ」
「はっ、頼まれ申した!」
信繁の言葉に、幸綱は不敵な笑みを浮かべながらドンと胸を叩いてみせた。
まるで使いを頼まれた童のような気安い口調で答えた彼に、息子の昌幸が心配そうな表情を浮かべる。
「……くれぐれもお気を付け下さい、親父殿。敵は外だけに居るとは限りませぬゆえ」
「カッカッカッ! なんじゃ源五郎? よもや、ワシの事を気遣ってくれとるのか? いや、嬉しいのう~」
「そ、そんなんじゃないっ!」
昌幸は、声を弾ませる幸綱に慌てて首を横に振った。
「せ、拙者が申しているのは、久々利城の事です! 当主の久々利頼興を失った事で、久々利城の臣たちが心変わりをする可能性も捨て切れませぬし……。もし、当主の戦死に疑念を抱かれたら、状況的にも一番身が危ういのは、久々利城に詰めている親父殿なのですぞ!」
「カッカッカッ! なんじゃ、そんな事か」
幸綱は、昌幸の懸念を一笑に付すと、息子の顔を覗き込むように見据えながら言葉を継ぐ。
「その程度の事は、今更お前に言われんでも重々分かっとるわ。心配は無用じゃ」
そう言った幸綱は、昌幸の前の膳から肴の焼き味噌を勝手に指で掬った。
そして、指先の焼き味噌を旨そうに舐め取ってから、幸綱は再び口を開く。
「――悪五郎殿が死んだ後、久々利家の跡目を継ぐのは嫡子の長寿丸じゃが、まだ十にも満たぬ童じゃからひとりでは何も出来ぬ。久々利家の主だった臣下にはあらかた鼻薬を嗅がせておるから、主殿の死をどうこう言うような輩はほぼ居らぬ。……まあ、それは、悪五郎殿の生前の行いに拠るところも大いにあるがのう」
そう言ってクックッと笑う幸綱。
そんな父に、なおも心配顔で昌幸は言う。
「そうは申されても……この地は、敵と境を接する最前線です。いつ何時斎藤や織田の手が伸びるか分かりませぬ。もしご入用ならば、佐助の奴を――」
「要らん要らん」
昌幸の提案に苦笑しながら、幸綱は頭を振った。
「源五郎。ワシが何の備えも無しにここまでノコノコ来たと思うておるのか? ――そっち方面なら、真田本城から何人か連れて来ておるから心配無用じゃ」
「そうですか。なら、まあ……」
安心させようとする幸綱の答えを聞いても、昌幸の顔は晴れない。
と、
「そう案ずるでない、源五郎。この地にはそれがしらも居るのだぞ」
「そうだそうだ!」
唐突に、少し不満げな響きを帯びたふたりの男の声が上がった。
ハッとした昌幸が、声のした方に顔を向ける。
「保科様……浅利様……」
「おお、ようやく参られたか! 待ちかねたぞ!」
開け放たれた襖の向こうに立っていた保科正俊と浅利信種に、満面に喜色を湛えた幸綱が歓声を上げた。
信繁も、柔和な笑みを浮かべ、ふたりを手招きする。
「ご苦労であったな、ふたりとも。さあ、遠慮なく入れ」
「はっ……失礼いたす」
信繁の誘いに軽く頭を下げた正俊と信種は、彼の前に並んで腰を下ろした。
すかさず昌幸が差し出した盃を受け取ったふたりは、恭しく信繁の酌を受ける。
片口でふたりの盃に酒を注いだ信繁は、自分の盃を手に取り、他の者たちに目配せした。
「では、ふたりも揃ったところで、改めて……」
そう言いながら、信繁は自分の盃を高く掲げる。
他の一同も、彼と同じように、酒で満たされた盃を掲げ上げた。
それを待ってから、信繁は穏やかな笑みを湛えながら乾杯の音頭を取る。
「――乾杯!」
「「「「「乾杯!」」」」」
信繁の音頭に、他の者たちも声を合わせてから一気に盃を飲み干し、それから穏やかな笑みを互いに交わすのだった。
注がれた酒を飲み干した信繁は、信春と幸綱の顔を見回しながら、改まった声で言った。
「後の事は任せたぞ、美濃、弾正」
「「はっ!」」
信繁の言葉を聞いた信春と幸綱は、ピンと背筋を伸ばし、両手をついて深々と頭を下げる。
「ご安心下され。典厩様よりお預かりしたこの地、命に代えても守り通しまする!」
「まあ、ワシはともかく、“鬼美濃”殿が居られる限り、織田も斎藤も迂闊に手出しは出来ますまい。どうぞ大舟に乗った気で、ご安心して甲斐にお戻り下され。カッカッカッ!」
「そうだな……」
ふたりの頼もしい返事を聞いて、満足げに頷いた信繁だったが、つと表情を引き締めた。
「……とはいえ、努々油断いたすなよ。百戦錬磨のお主らには釈迦に説法かもしれぬが、この乱世、いつ何時情勢が変わるか分からぬからな」
「はっ! 無論、重々に承知しておりまする!」
信繁の忠告に大きく頷いた信春は、豊かな顎髭を撫でながら言葉を継ぐ。
「まずは、此度の戦で損壊した烏峰城の修復を早急に進める事といたします。ついでに、気になる所の改修も兼ねて」
「そうですなぁ」
信春の言葉に、幸綱もうんうんと頷いた。
「特に、ワシが本丸に攻め込んだ北東の急所……あそこは早急にどうにかせねばなりますまいのう。出丸を設けるか、土塁で遮ってから虎口を切るか……」
「あるいは、その両方を施すか……」
幸綱の言葉にそう付け加えると、信春はニヤリと笑った。
「いや……これほど大規模に城の縄張 (設計)に手を付けるのは、深志 (現在の松本城)以来に御座る。今から腕が鳴りまするな」
「新たな勘助仕込みの縄張術が拝めるという事か。それは楽しみだ」
そう言って信春に微笑みかけた信繁は、次いで幸綱の方に顔を向ける。
「……弾正。尾張方面の抑えは頼んだぞ」
「はっ、頼まれ申した!」
信繁の言葉に、幸綱は不敵な笑みを浮かべながらドンと胸を叩いてみせた。
まるで使いを頼まれた童のような気安い口調で答えた彼に、息子の昌幸が心配そうな表情を浮かべる。
「……くれぐれもお気を付け下さい、親父殿。敵は外だけに居るとは限りませぬゆえ」
「カッカッカッ! なんじゃ源五郎? よもや、ワシの事を気遣ってくれとるのか? いや、嬉しいのう~」
「そ、そんなんじゃないっ!」
昌幸は、声を弾ませる幸綱に慌てて首を横に振った。
「せ、拙者が申しているのは、久々利城の事です! 当主の久々利頼興を失った事で、久々利城の臣たちが心変わりをする可能性も捨て切れませぬし……。もし、当主の戦死に疑念を抱かれたら、状況的にも一番身が危ういのは、久々利城に詰めている親父殿なのですぞ!」
「カッカッカッ! なんじゃ、そんな事か」
幸綱は、昌幸の懸念を一笑に付すと、息子の顔を覗き込むように見据えながら言葉を継ぐ。
「その程度の事は、今更お前に言われんでも重々分かっとるわ。心配は無用じゃ」
そう言った幸綱は、昌幸の前の膳から肴の焼き味噌を勝手に指で掬った。
そして、指先の焼き味噌を旨そうに舐め取ってから、幸綱は再び口を開く。
「――悪五郎殿が死んだ後、久々利家の跡目を継ぐのは嫡子の長寿丸じゃが、まだ十にも満たぬ童じゃからひとりでは何も出来ぬ。久々利家の主だった臣下にはあらかた鼻薬を嗅がせておるから、主殿の死をどうこう言うような輩はほぼ居らぬ。……まあ、それは、悪五郎殿の生前の行いに拠るところも大いにあるがのう」
そう言ってクックッと笑う幸綱。
そんな父に、なおも心配顔で昌幸は言う。
「そうは申されても……この地は、敵と境を接する最前線です。いつ何時斎藤や織田の手が伸びるか分かりませぬ。もしご入用ならば、佐助の奴を――」
「要らん要らん」
昌幸の提案に苦笑しながら、幸綱は頭を振った。
「源五郎。ワシが何の備えも無しにここまでノコノコ来たと思うておるのか? ――そっち方面なら、真田本城から何人か連れて来ておるから心配無用じゃ」
「そうですか。なら、まあ……」
安心させようとする幸綱の答えを聞いても、昌幸の顔は晴れない。
と、
「そう案ずるでない、源五郎。この地にはそれがしらも居るのだぞ」
「そうだそうだ!」
唐突に、少し不満げな響きを帯びたふたりの男の声が上がった。
ハッとした昌幸が、声のした方に顔を向ける。
「保科様……浅利様……」
「おお、ようやく参られたか! 待ちかねたぞ!」
開け放たれた襖の向こうに立っていた保科正俊と浅利信種に、満面に喜色を湛えた幸綱が歓声を上げた。
信繁も、柔和な笑みを浮かべ、ふたりを手招きする。
「ご苦労であったな、ふたりとも。さあ、遠慮なく入れ」
「はっ……失礼いたす」
信繁の誘いに軽く頭を下げた正俊と信種は、彼の前に並んで腰を下ろした。
すかさず昌幸が差し出した盃を受け取ったふたりは、恭しく信繁の酌を受ける。
片口でふたりの盃に酒を注いだ信繁は、自分の盃を手に取り、他の者たちに目配せした。
「では、ふたりも揃ったところで、改めて……」
そう言いながら、信繁は自分の盃を高く掲げる。
他の一同も、彼と同じように、酒で満たされた盃を掲げ上げた。
それを待ってから、信繁は穏やかな笑みを湛えながら乾杯の音頭を取る。
「――乾杯!」
「「「「「乾杯!」」」」」
信繁の音頭に、他の者たちも声を合わせてから一気に盃を飲み干し、それから穏やかな笑みを互いに交わすのだった。
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