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第二部六章 軍師
開城と滞陣
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武田信繁率いる武田軍が、安藤守就が指揮する斎藤軍を打ち破った翌日――更に大きく戦況が動いた。
烏峰城の南に位置し、岩村で二手に分かれた武田軍のもう一手――馬場信春率いる別働軍が包囲していた久々利城が降伏開城したのである。
久々利城に籠っていたのは、久々利悪五郎頼興である。
彼は元々、烏峰城の城主であった斎藤道三の猶子・斎藤正義の配下についていたが、天文十七年 (西暦1548年)二月に、正義を謀殺すると、久々利城を本拠として東美濃の地に大きな影響を及ぼした。
斎藤家の御家騒動である長良川の合戦の際では斎藤義龍側につき、義龍の死後は嫡子龍興に臣従していたのである。
だが、その忠義心は篤いとは言えないもので、此度の戦で居城である久々利城を馬場信春に囲まれた事で、武田に降る事を秘かに考えていた。
だが、程なくして、安藤守就率いる援軍が稲葉山城から木曽川を越えてやって来た事で、彼はもうしばらく籠城を続け、武田と斎藤のどちらについた方が良いか見極める事にしたのである。
北側に小高い山を背負った久々利城の守りは固く、包囲する武田別働軍は攻めあぐねていた。
このまま攻城戦は長期化するかに思われたのだが――武田信繁軍が斎藤家の援軍を豪雨に乗じて打ち破った事を知った頼興は、抵抗する事の無意味を悟って、開城して武田方へ降る事を決断したのだった。
翌日の未明に、武田方の大将である馬場信春に降伏する事を伝えた頼興は、信春の了承を得てから城内を掃き浄め、大手門の閂を外させる。
そして、入城した信春に向けて平伏し、武田家へ恭順する意志を示したのであった――。
一方――
信繁が率いる武田の本軍は、本陣は貴舩神社に置いたまま、兵を半分に分け、一方で烏峰城を包囲させると同時に、もう一方を保科正俊に任せ、西へと押し出させる。
言うまでもなく、昨日の敗走後、貴舩神社より二里ほど西に向かったところにある大井戸の渡し付近に再集結しつつある斎藤家の援軍の動きを牽制する為であった。
斎藤家の援軍を率いる安藤守就は、武田方の動きと久々利城の落城を知り、暫し懊悩した。
一時は、不利を承知の上で武田軍に攻めかかろうと考えた守就だったが、先日の戦いで思った以上に自軍の損耗が甚だしい事と兵たちの士気が低くなっている事を知り、大井戸の渡しを越えて木曽川西岸まで退く事を苦渋の思いで決めた。
その日の夜半、守就と斎藤軍は、夜闇に紛れるようにして大井戸の渡しから木曽川を渡った。
一方の武田軍・保科正俊隊は、斎藤軍が退いた後の東岸に陣を敷き、川を挟んで斎藤軍と睨み合うのだった。
以上のように、たった二日で目まぐるしく両軍が動いたのだったが――、
烏峰城と久々利城の中間に位置する八王子山に籠もっていた斎藤軍の竹中半兵衛隊は、一切動きを見せず、不気味な沈黙を守っていたのである……。
◆ ◆ ◆ ◆
それから更に三日後――。
「……一体、何を考えておるのでしょうな?」
貴舩神社に置かれた本陣の陣幕の中で、陣卓子の上に広げられた地図を見下ろしながら、浅利信種が訝しげに首を傾げた。
「八王子山の竹中半兵衛めは……」
「うむ……」
信種の言葉に、信繁も顎髭を指で撫でながら頷く。
「木曽川の対岸へ安藤守就が退いてから、既に三日……。されど、半兵衛は守就方へ合流する素振りを毛ほども見せぬまま、相変わらず八王子山に籠もり続けておる……」
「戻る機会を逸した……という事でしょうか?」
信繁の言葉に、信種は眉を顰めた。
だが、
「……それは考えづらいかと」
と、信種の推測に異議を唱えたのは、信繁の傍らに控えていた武藤昌幸である。
彼は、地図に書かれた『八王子山』の文字と、その上に置かれた黒い碁石を指さしながら、自分の考えを述べた。
「三日前、安藤守就を木曽川の西に追い出した際、典厩様はわざと八王子山を抑える隊を手薄にしたのです。――半兵衛が自分から山を下りて、安藤隊と共に木曽川を渡ろうとする様に仕向ける為に」
「ああ……あの布陣は、そういう事だったのか」
昌幸の言葉を聞いた信種は、得たりと膝を打つ。
「妙に街道周りを手薄にしておられるな……とは、配置を見た際に思っておったのだが、アレはわざとだったのですな?」
「……ああ」
信種の問いかけに、信繁は小さく頷いた。
「……正直、あの位置に敵が陣取ったままでいるのは厄介だからな。出来れば、戦う事無く出て行ってほしかったのだが……」
「半兵衛めが、左馬助様の計らいに気付かなかっただけなのでは?」
「いえ……それはありますまい」
昌幸は、信種の言葉に再び頭を振る。
「半兵衛ほどの知恵者があの配陣を見れば、確実に典厩様の意図を見抜けるはずです」
「と、いう事は……」
確信を込めてきっぱりと断言した昌幸に、信種は首を傾げた。
「半兵衛は、左馬助様の意図に気付いた上で、敢えて無視し、山に籠もり続けているという事か。――だが、それは何故じゃ?」
「それは……今掴んでいる情報だけでは、何とも……」
信種の問いかけに対し、昌幸は少し悔しげに表情を曇らせる。
――と、その時、
「……もしや」
静かに地図へ目を落として、ふたりの話に耳を傾けていた信繁が、ぽつりと呟いた。
その声を聞いた信種と昌幸が、ハッとした表情を浮かべて信繁の方に顔を向ける。
「もしやとは……典厩様、なにかお気付きになられたのですか?」
「あぁ、いや……」
昌幸の問いかけに、信繁は曖昧な笑みを浮かべた。
「ふと思いついただけだ。何の確証も無い。無い……が、全くあり得ない事とも言い切れぬ……」
「それは……どういう――」
「――昌幸よ」
信繁は、自分が述べた言葉に戸惑いの表情を浮かべた昌幸に、静かな声で告げる。
「明朝、本陣を動かす。今夜中に出立の準備を調えておくよう、兵たちに触れを出しておけ」
「はっ……畏まりました。……が」
昌幸は、信繁の指示にすぐ頷いたものの、やや眉を顰めながら、おずおずと問いかけた。
「本陣を動かすとは……一体、どちらまで……?」
「それはもちろん――」
信繁は、昌幸の問いかけに答えながら、腰帯から抜いた扇子で地図に書かれた『八王子山』の文字を指す。
「竹中半兵衛が籠もる八王子山だ」
「「!」」
彼の言葉に、昌幸と信種はハッと目を見開いた。
そんなふたりの顔を、信繁は確信に満ちた目で見回し、言葉を継ぐ。
「半兵衛の頭の中を推し測ろうとしても、斯様に離れた地からではなかなか難しいからな。――なれば、可能な限り近い距離から、彼奴が何を考えているのか見極めるとしよう」
烏峰城の南に位置し、岩村で二手に分かれた武田軍のもう一手――馬場信春率いる別働軍が包囲していた久々利城が降伏開城したのである。
久々利城に籠っていたのは、久々利悪五郎頼興である。
彼は元々、烏峰城の城主であった斎藤道三の猶子・斎藤正義の配下についていたが、天文十七年 (西暦1548年)二月に、正義を謀殺すると、久々利城を本拠として東美濃の地に大きな影響を及ぼした。
斎藤家の御家騒動である長良川の合戦の際では斎藤義龍側につき、義龍の死後は嫡子龍興に臣従していたのである。
だが、その忠義心は篤いとは言えないもので、此度の戦で居城である久々利城を馬場信春に囲まれた事で、武田に降る事を秘かに考えていた。
だが、程なくして、安藤守就率いる援軍が稲葉山城から木曽川を越えてやって来た事で、彼はもうしばらく籠城を続け、武田と斎藤のどちらについた方が良いか見極める事にしたのである。
北側に小高い山を背負った久々利城の守りは固く、包囲する武田別働軍は攻めあぐねていた。
このまま攻城戦は長期化するかに思われたのだが――武田信繁軍が斎藤家の援軍を豪雨に乗じて打ち破った事を知った頼興は、抵抗する事の無意味を悟って、開城して武田方へ降る事を決断したのだった。
翌日の未明に、武田方の大将である馬場信春に降伏する事を伝えた頼興は、信春の了承を得てから城内を掃き浄め、大手門の閂を外させる。
そして、入城した信春に向けて平伏し、武田家へ恭順する意志を示したのであった――。
一方――
信繁が率いる武田の本軍は、本陣は貴舩神社に置いたまま、兵を半分に分け、一方で烏峰城を包囲させると同時に、もう一方を保科正俊に任せ、西へと押し出させる。
言うまでもなく、昨日の敗走後、貴舩神社より二里ほど西に向かったところにある大井戸の渡し付近に再集結しつつある斎藤家の援軍の動きを牽制する為であった。
斎藤家の援軍を率いる安藤守就は、武田方の動きと久々利城の落城を知り、暫し懊悩した。
一時は、不利を承知の上で武田軍に攻めかかろうと考えた守就だったが、先日の戦いで思った以上に自軍の損耗が甚だしい事と兵たちの士気が低くなっている事を知り、大井戸の渡しを越えて木曽川西岸まで退く事を苦渋の思いで決めた。
その日の夜半、守就と斎藤軍は、夜闇に紛れるようにして大井戸の渡しから木曽川を渡った。
一方の武田軍・保科正俊隊は、斎藤軍が退いた後の東岸に陣を敷き、川を挟んで斎藤軍と睨み合うのだった。
以上のように、たった二日で目まぐるしく両軍が動いたのだったが――、
烏峰城と久々利城の中間に位置する八王子山に籠もっていた斎藤軍の竹中半兵衛隊は、一切動きを見せず、不気味な沈黙を守っていたのである……。
◆ ◆ ◆ ◆
それから更に三日後――。
「……一体、何を考えておるのでしょうな?」
貴舩神社に置かれた本陣の陣幕の中で、陣卓子の上に広げられた地図を見下ろしながら、浅利信種が訝しげに首を傾げた。
「八王子山の竹中半兵衛めは……」
「うむ……」
信種の言葉に、信繁も顎髭を指で撫でながら頷く。
「木曽川の対岸へ安藤守就が退いてから、既に三日……。されど、半兵衛は守就方へ合流する素振りを毛ほども見せぬまま、相変わらず八王子山に籠もり続けておる……」
「戻る機会を逸した……という事でしょうか?」
信繁の言葉に、信種は眉を顰めた。
だが、
「……それは考えづらいかと」
と、信種の推測に異議を唱えたのは、信繁の傍らに控えていた武藤昌幸である。
彼は、地図に書かれた『八王子山』の文字と、その上に置かれた黒い碁石を指さしながら、自分の考えを述べた。
「三日前、安藤守就を木曽川の西に追い出した際、典厩様はわざと八王子山を抑える隊を手薄にしたのです。――半兵衛が自分から山を下りて、安藤隊と共に木曽川を渡ろうとする様に仕向ける為に」
「ああ……あの布陣は、そういう事だったのか」
昌幸の言葉を聞いた信種は、得たりと膝を打つ。
「妙に街道周りを手薄にしておられるな……とは、配置を見た際に思っておったのだが、アレはわざとだったのですな?」
「……ああ」
信種の問いかけに、信繁は小さく頷いた。
「……正直、あの位置に敵が陣取ったままでいるのは厄介だからな。出来れば、戦う事無く出て行ってほしかったのだが……」
「半兵衛めが、左馬助様の計らいに気付かなかっただけなのでは?」
「いえ……それはありますまい」
昌幸は、信種の言葉に再び頭を振る。
「半兵衛ほどの知恵者があの配陣を見れば、確実に典厩様の意図を見抜けるはずです」
「と、いう事は……」
確信を込めてきっぱりと断言した昌幸に、信種は首を傾げた。
「半兵衛は、左馬助様の意図に気付いた上で、敢えて無視し、山に籠もり続けているという事か。――だが、それは何故じゃ?」
「それは……今掴んでいる情報だけでは、何とも……」
信種の問いかけに対し、昌幸は少し悔しげに表情を曇らせる。
――と、その時、
「……もしや」
静かに地図へ目を落として、ふたりの話に耳を傾けていた信繁が、ぽつりと呟いた。
その声を聞いた信種と昌幸が、ハッとした表情を浮かべて信繁の方に顔を向ける。
「もしやとは……典厩様、なにかお気付きになられたのですか?」
「あぁ、いや……」
昌幸の問いかけに、信繁は曖昧な笑みを浮かべた。
「ふと思いついただけだ。何の確証も無い。無い……が、全くあり得ない事とも言い切れぬ……」
「それは……どういう――」
「――昌幸よ」
信繁は、自分が述べた言葉に戸惑いの表情を浮かべた昌幸に、静かな声で告げる。
「明朝、本陣を動かす。今夜中に出立の準備を調えておくよう、兵たちに触れを出しておけ」
「はっ……畏まりました。……が」
昌幸は、信繁の指示にすぐ頷いたものの、やや眉を顰めながら、おずおずと問いかけた。
「本陣を動かすとは……一体、どちらまで……?」
「それはもちろん――」
信繁は、昌幸の問いかけに答えながら、腰帯から抜いた扇子で地図に書かれた『八王子山』の文字を指す。
「竹中半兵衛が籠もる八王子山だ」
「「!」」
彼の言葉に、昌幸と信種はハッと目を見開いた。
そんなふたりの顔を、信繁は確信に満ちた目で見回し、言葉を継ぐ。
「半兵衛の頭の中を推し測ろうとしても、斯様に離れた地からではなかなか難しいからな。――なれば、可能な限り近い距離から、彼奴が何を考えているのか見極めるとしよう」
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