甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
上 下
147 / 235
第二部三章 始末

襲撃と差し金

しおりを挟む
 「ぎゃっ!」
「うぐぅっ……!」
「ひぃっ……!」
「キャアアア――ッ!」

 笛が鳴るような風切音に続いて、馬列のあちこちから驚愕と恐怖と苦痛に満ちた悲鳴が上がる。

「ひっ!」

 琴の乗っている板輿にも何本もの矢が突き立ち、屋根を貫通した鋭いやじりを目の当たりにした彼女は、顔面を蒼白にしながら短い悲鳴を上げた。
 彼女は輿の中で身を竦ませながら、輿を運ぶ力者りきしゃたちに向かって声を荒げる。

「に、逃げよ! 今すぐこの場から離れ――」

 だが、琴がそう叫びかけたところで、輿は突如として平衡を崩した。

「きゃ……っ!」

 横倒しになった輿から外に投げ出された琴は、悲鳴を上げながらぬかるんだ地面の上を転がる。

「うぅ……っ」

 全身を地面に強く打ちつけた琴は、うめき声を上げながらよろよろと身を起こした。
 投げ出された拍子に、纏っていたお気に入りの小袖が泥濘に塗れ汚れたが、そんな事を嘆いている場合ではない。
 琴は、跳ねた泥が入った目を手の甲で擦りながら、周囲を見回す。
 泥と涙で霞む彼女の目に映ったのは、そこかしこに突き立つ夥しい数の矢と――、

「ひ……ひぃ……っ!」

 その矢に身体を貫かれ、恐怖や苦痛に満ちた形相を浮かべて泥道のそこかしこに斃れている兵や侍女たちの無惨な姿だった。
 ――その中には、つい先ほどまで、彼女の乗る輿の横について歩いていたみつの骸もあった。

「み……みつ……!」

 琴の声を耳にして上を向いた時に、矢を受けたのであろう。ちょうど眼窩のあたりを矢で貫かれたみつは、何かを叫ぼうとしていたかのように口を大きく開いたまま事切れていた。

「あ……あぁ……そんな……」

 自分が物心ついた頃から侍女として常に傍に居てくれたみつの変わり果てた姿を目の当たりにした琴は、感情が麻痺したかのように呆然としながら、うわ言のように呟いた。
 ――その時、

「ぐっ……」
「ま、待ってくれ! 命だげ――」
「ぎゃ……!」
「や、やめ――」

 周りから、くぐもった声が上がる。

「……」

 放心状態の琴が、声の上がった方に目を遣ると、粗末な胴丸に身を包んだ男たちが、まだ息のある者たちにとどめを刺していた。
 そのうちのひとりが、泥道の上でへたり込んでいる琴の姿に気付き、仲間に手招きする。
 そして、彼女は血刀を引っ提げて近寄って来た男たちに周囲を囲まれた。

「……」

 琴は、自分を取り囲む男たちに虚ろな目を向ける。
 すると、黒布で顔を覆い隠したひとりの大柄な男が、一歩前に進み出た。
 彼は、覆面の奥から琴の顔を見つめながら、低い声で尋ねる。

「――苗木城主遠山直廉夫人・琴殿にお間違い無いな?」
「……いいえ」

 琴は、覆面の男に向けて、静かに首を横に振った。
 そして、覆面の男が当惑するのを見て、その泥まみれの顔を皮肉げに綻ばせながら言葉を継ぐ。

「もう、勘太郎殿からは離縁されている。今の私は、故織田弾正忠信秀の娘にして、現織田家当主・織田上総介信長の妹・琴である」

 そう名乗った琴は、覆面の男を険しい目で睨みつけた。

「……私の素性を知っていて、その上で斯様な狼藉を働くという事は、ただの山賊の類では無いようだな。お前たちは何者であるか?」
(……さすがは、あのお方の妹御だな)

 殺気を漲らせた自分たちを前にしても、怖じ気る事無く堂々とした振る舞いを見せる琴に、覆面の男は心の中で感嘆する。
 だが、表面にはそんな感情をおくびにも出さず、冷たい声で答えた。

「……済まぬが、その問いには答えられぬ」
「で、あろうな。名乗る事が出来るのならば、そのように大仰な覆面などする必要はないからな」
「……」

 覆面の男は、琴の皮肉交じりの言葉には黙ったまま、腰に差した刀を抜く。
 露わになった幅広の刀身が、夕日の光を浴びてギラリと輝いた。
 それを見て、琴はさすがに顔を引き攣らせる。
 そんな彼女を見下ろしながら、覆面の男は口を開いた。

「では……我らの目的も察しがつくであろう。――お覚悟召されよ」
「……ここまでして私の命を奪わんとするとは、一体どこの差し金か?」
「申し訳ないが、その問いにもお答えしかねる」
「……」

 覆面の男が手にしている刀の輝きに目を遣りながら、琴は考えを巡らせる。

(武田……? でも……もし武田が私の命を奪うつもりなら、わざわざこんな山の中ではなく、苗木の城の中でいつでも実行できたはず。ならば……まさか、勘太郎殿か? いや……あの人に限って、私を殺そうとするなんて……)
「これも乱世の世の習いだ。まあ……事が済んだ後で念仏の一つでも唱えて差し上げるゆえ、どうぞご安心めされよ」
「……!」

 ――その時、彼女は覆面の男のくぐもった声に聞き覚えがある事に気が付いた。
 確か、この声を聴いたのは――。

「……っ!」

 その事を思い出した彼女は、ハッと目を見開き、上ずった声で呟く。

「お前は――あの時、密書を届けてきた木下藤吉郎の供回りのひとり――!」
「……ッ!」

 琴の声に、覆面の男は明らかに狼狽した。
 彼は、無言で右手に握った刀を振り上げながら、彼女の襟を掴まんと左腕を伸ばす。
 ――と、次の瞬間、

「……ぐうっ!」

 覆面の男は、呻き声を上げながら、伸ばした左腕を引っ込めた。彼の前腕から、真っ赤な血が地面に向かってぽたぽたと滴り落ちる。

「く……クソ! か、懐剣を隠し持っていやがったか……!」

 彼は、鋭い刃で切り裂かれた血まみれの腕を抱えながら、琴の顔を睨んだ。
 男の血がこびりついた懐剣を構えた琴は、そんな彼を憎々しげに睨みつける。

「そうか……これはあの男の企みという事か! あの猿面冠者……木下藤吉郎めの!」
「……ちッ!」

 琴の言葉を聞いた覆面の男は、忌々しげに舌を打つと、琴の周りを囲む配下たちに命じた。

「あの御方の妹君と思うて、せめてもの礼を尽くそうとしたが、もう良い! そのまま斬り捨てい!」

 男の声に、配下の者たちは一斉に得物を振り上げる。
 ――と、その時、

「控えよ、無礼者ども!」
「「「ッ!」」」

 凛とした一喝に、男たちは気圧され、思わず動きを止めた。
 周囲を取り囲む男たちを睥睨しながら、琴はゆっくりと懐剣の刃先を己の喉に当てる。

「……ッ!」
「織田家の女として、卑賎なる輩どもの手にかかる訳にはいかぬ」

 琴は、口の端に薄笑みを湛えながら、凛とした声で言った。
 そして、彼女の気魄を前に、息を呑んで佇んでいる覆面の男に目を向け、冷え切った霜のような声で言う。

「……お前の主である、あの猿面冠者にしかと伝えなさい。――此度の恨み、たとえこの魂魄が怨霊と成り果てようとも、必ず晴らしてみせよう――とな」

 覆面の男にそう告げた琴は、泥に汚れたかんばせに妖艶な薄笑みを湛えると、懐剣の切っ先を喉に擬したまま、地面に向かって決然と身を投げ出したのだった――。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

小沢機動部隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。 名は小沢治三郎。 年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。 ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。 毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。 楽しんで頂ければ幸いです!

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

天狗の囁き

井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。

処理中です...