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第二部三章 始末

襲撃と差し金

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 「ぎゃっ!」
「うぐぅっ……!」
「ひぃっ……!」
「キャアアア――ッ!」

 笛が鳴るような風切音に続いて、馬列のあちこちから驚愕と恐怖と苦痛に満ちた悲鳴が上がる。

「ひっ!」

 琴の乗っている板輿にも何本もの矢が突き立ち、屋根を貫通した鋭いやじりを目の当たりにした彼女は、顔面を蒼白にしながら短い悲鳴を上げた。
 彼女は輿の中で身を竦ませながら、輿を運ぶ力者りきしゃたちに向かって声を荒げる。

「に、逃げよ! 今すぐこの場から離れ――」

 だが、琴がそう叫びかけたところで、輿は突如として平衡を崩した。

「きゃ……っ!」

 横倒しになった輿から外に投げ出された琴は、悲鳴を上げながらぬかるんだ地面の上を転がる。

「うぅ……っ」

 全身を地面に強く打ちつけた琴は、うめき声を上げながらよろよろと身を起こした。
 投げ出された拍子に、纏っていたお気に入りの小袖が泥濘に塗れ汚れたが、そんな事を嘆いている場合ではない。
 琴は、跳ねた泥が入った目を手の甲で擦りながら、周囲を見回す。
 泥と涙で霞む彼女の目に映ったのは、そこかしこに突き立つ夥しい数の矢と――、

「ひ……ひぃ……っ!」

 その矢に身体を貫かれ、恐怖や苦痛に満ちた形相を浮かべて泥道のそこかしこに斃れている兵や侍女たちの無惨な姿だった。
 ――その中には、つい先ほどまで、彼女の乗る輿の横について歩いていたみつの骸もあった。

「み……みつ……!」

 琴の声を耳にして上を向いた時に、矢を受けたのであろう。ちょうど眼窩のあたりを矢で貫かれたみつは、何かを叫ぼうとしていたかのように口を大きく開いたまま事切れていた。

「あ……あぁ……そんな……」

 自分が物心ついた頃から侍女として常に傍に居てくれたみつの変わり果てた姿を目の当たりにした琴は、感情が麻痺したかのように呆然としながら、うわ言のように呟いた。
 ――その時、

「ぐっ……」
「ま、待ってくれ! 命だげ――」
「ぎゃ……!」
「や、やめ――」

 周りから、くぐもった声が上がる。

「……」

 放心状態の琴が、声の上がった方に目を遣ると、粗末な胴丸に身を包んだ男たちが、まだ息のある者たちにとどめを刺していた。
 そのうちのひとりが、泥道の上でへたり込んでいる琴の姿に気付き、仲間に手招きする。
 そして、彼女は血刀を引っ提げて近寄って来た男たちに周囲を囲まれた。

「……」

 琴は、自分を取り囲む男たちに虚ろな目を向ける。
 すると、黒布で顔を覆い隠したひとりの大柄な男が、一歩前に進み出た。
 彼は、覆面の奥から琴の顔を見つめながら、低い声で尋ねる。

「――苗木城主遠山直廉夫人・琴殿にお間違い無いな?」
「……いいえ」

 琴は、覆面の男に向けて、静かに首を横に振った。
 そして、覆面の男が当惑するのを見て、その泥まみれの顔を皮肉げに綻ばせながら言葉を継ぐ。

「もう、勘太郎殿からは離縁されている。今の私は、故織田弾正忠信秀の娘にして、現織田家当主・織田上総介信長の妹・琴である」

 そう名乗った琴は、覆面の男を険しい目で睨みつけた。

「……私の素性を知っていて、その上で斯様な狼藉を働くという事は、ただの山賊の類では無いようだな。お前たちは何者であるか?」
(……さすがは、あのお方の妹御だな)

 殺気を漲らせた自分たちを前にしても、怖じ気る事無く堂々とした振る舞いを見せる琴に、覆面の男は心の中で感嘆する。
 だが、表面にはそんな感情をおくびにも出さず、冷たい声で答えた。

「……済まぬが、その問いには答えられぬ」
「で、あろうな。名乗る事が出来るのならば、そのように大仰な覆面などする必要はないからな」
「……」

 覆面の男は、琴の皮肉交じりの言葉には黙ったまま、腰に差した刀を抜く。
 露わになった幅広の刀身が、夕日の光を浴びてギラリと輝いた。
 それを見て、琴はさすがに顔を引き攣らせる。
 そんな彼女を見下ろしながら、覆面の男は口を開いた。

「では……我らの目的も察しがつくであろう。――お覚悟召されよ」
「……ここまでして私の命を奪わんとするとは、一体どこの差し金か?」
「申し訳ないが、その問いにもお答えしかねる」
「……」

 覆面の男が手にしている刀の輝きに目を遣りながら、琴は考えを巡らせる。

(武田……? でも……もし武田が私の命を奪うつもりなら、わざわざこんな山の中ではなく、苗木の城の中でいつでも実行できたはず。ならば……まさか、勘太郎殿か? いや……あの人に限って、私を殺そうとするなんて……)
「これも乱世の世の習いだ。まあ……事が済んだ後で念仏の一つでも唱えて差し上げるゆえ、どうぞご安心めされよ」
「……!」

 ――その時、彼女は覆面の男のくぐもった声に聞き覚えがある事に気が付いた。
 確か、この声を聴いたのは――。

「……っ!」

 その事を思い出した彼女は、ハッと目を見開き、上ずった声で呟く。

「お前は――あの時、密書を届けてきた木下藤吉郎の供回りのひとり――!」
「……ッ!」

 琴の声に、覆面の男は明らかに狼狽した。
 彼は、無言で右手に握った刀を振り上げながら、彼女の襟を掴まんと左腕を伸ばす。
 ――と、次の瞬間、

「……ぐうっ!」

 覆面の男は、呻き声を上げながら、伸ばした左腕を引っ込めた。彼の前腕から、真っ赤な血が地面に向かってぽたぽたと滴り落ちる。

「く……クソ! か、懐剣を隠し持っていやがったか……!」

 彼は、鋭い刃で切り裂かれた血まみれの腕を抱えながら、琴の顔を睨んだ。
 男の血がこびりついた懐剣を構えた琴は、そんな彼を憎々しげに睨みつける。

「そうか……これはあの男の企みという事か! あの猿面冠者……木下藤吉郎めの!」
「……ちッ!」

 琴の言葉を聞いた覆面の男は、忌々しげに舌を打つと、琴の周りを囲む配下たちに命じた。

「あの御方の妹君と思うて、せめてもの礼を尽くそうとしたが、もう良い! そのまま斬り捨てい!」

 男の声に、配下の者たちは一斉に得物を振り上げる。
 ――と、その時、

「控えよ、無礼者ども!」
「「「ッ!」」」

 凛とした一喝に、男たちは気圧され、思わず動きを止めた。
 周囲を取り囲む男たちを睥睨しながら、琴はゆっくりと懐剣の刃先を己の喉に当てる。

「……ッ!」
「織田家の女として、卑賎なる輩どもの手にかかる訳にはいかぬ」

 琴は、口の端に薄笑みを湛えながら、凛とした声で言った。
 そして、彼女の気魄を前に、息を呑んで佇んでいる覆面の男に目を向け、冷え切った霜のような声で言う。

「……お前の主である、あの猿面冠者にしかと伝えなさい。――此度の恨み、たとえこの魂魄が怨霊と成り果てようとも、必ず晴らしてみせよう――とな」

 覆面の男にそう告げた琴は、泥に汚れたかんばせに妖艶な薄笑みを湛えると、懐剣の切っ先を喉に擬したまま、地面に向かって決然と身を投げ出したのだった――。
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