128 / 221
第二部二章 駆引
夜襲と応襲
しおりを挟む
「……信濃守様」
鬱蒼と茂る森の木に紛れるように息を潜め、前方にじっと目を凝らしていた矢口茂武に、使番の兵が声をかけた。
顔は動かさぬまま、目だけを向けた茂武に、使番は声を潜めて告げる。
「内蔵助様の別動隊が、所定の位置についた模様です。たった今、合図が」
「うむ」
使番の報告を聞いた茂武は、緊張した面持ちで頷き、再び目を前方に向けた。
彼の視線の先には、下草を刈り払われただだっ広い原野が広がっており、その至る所には、甲斐武田家の家紋である武田菱があしらわれた数十数百にも及ぶ陣幕が張り巡らされている。
陣幕の前には煌々と篝火が焚かれ、大小さまざまな馬印や旗印が林立しており、少し強い夜風に煽られて揺れていた。
そして、陣幕の周囲には――、
「……ふ」
軍陣のあちこちで、生えている木の幹にもたれかかったり、地面の草の上に寝転がって大鼾をかいている雑兵たちの姿を見留め、茂武は思わず口元を綻ばせた。
「物見の報せの通りじゃな。気持ちよさそうに眠り呆けておるわ」
武田軍の陣から離れた距離に潜む茂武の鼻まで、風に乗って熟柿のような匂いが漂ってくる。
そこかしこに転がる酒樽や酒甕も、事前に得た情報通りだ。
未だに酒盛りの真っ最中の者もいるのか、耳を澄ませると、調子外れの下手糞な唄や、それに対する喝采の声が微かに聞こえてくる。
「まったく……ワシらがこうして、藪の中で蚊に食われるのも我慢して潜んでおる事も知らずに、愉しそうな事じゃ」
茂武は、蚊に刺された首筋を掻きながら、忌々しげに呟く。
と、彼の乗騎の轡を握る供廻りが、苦笑交じりに声をかけた。
「はは……とはいえ、もうじき、我らの手にかかって地獄に落ちる事になるのです。今のうちにせいぜい愉しい思いをさせてやるのも慈悲かと」
「ふふ……そうじゃな」
茂武は、供廻りの言葉に頷きながら、手に持った采配を握り直す。
「では……そろそろ始めるか」
「はっ」
茂武の声に、森に潜む苗木遠山の兵たちの間に緊張が走った。
最前方に配置した弓兵が、背中の矢筒から抜いた矢を弓につがえながら、音を立てぬよう一斉に立ち上がる。
そして、武田軍の陣に狙いを定め、きりきりと弓を引き絞った。
その後方に控えた兵たちも各々の得物を構え、号令がかかるやすぐに武田軍の陣内へ攻めかかれるように身構える。
その中央で、茂武はゆっくりと采配を頭上に掲げ、
「弓隊! 放――」
そう、雄々しく下知を下そうとした――その時、
“ブツリ”“ブツリ”
という音を立てて、武田方の陣に張られていた陣幕を吊る縄が次々と断ち切られた。
それと同時に、陣幕は突風に薙ぎ払われたかのように手際よく取り払われ、その陰から、整然と並んだ武田の兵たちが現れる。
彼らが構えているのは、今まさに火縄が落ちようとしている火縄銃――!
「な――ッ?」
想像だにしなかった光景を目の当たりにした茂武は、目を大きく見開きながら絶句する。
――次の瞬間、武田兵たちの構えた火縄銃が、一斉に火を噴き、耳を劈く轟音が原野に響き渡った。
「うわあああああッ!」
「ぎゃあああっ!」
「ヒ、ヒヒイイイイィィンッ!」
「がああッ!」
森の木々に鉛玉が当たって弾ける乾いた音に混じって、苗木兵の上げる悲鳴と苦悶の声と、百雷の如き火縄銃の発射音に驚いた馬の嘶きがあちこちから上がる。
そして、武田軍の陣からも、百万の獣の咆哮のような雄叫びが上がった。
「なッ……?」
茂武をはじめとした苗木衆は、目の当たりにした光景に、皆一様に目を疑い、言葉を失う。
驚いた事に、酔い潰れて前後不覚に眠りこけていると思っていた武田兵たちが俊敏な動きで起き上がると、身体の下に隠していた槍や刀を携えて、鬨の声を上げながら一斉に苗木衆の方に向かって突っ込んできたからだ。
「まさか……ッ!」
それを見た茂武は、ようやく気が付いた。
「武田軍は、初めから我らの計略を見抜いていて、その上で知らないフリをして、逆に我らを罠に嵌めたのか……ッ?」
そう、
武田軍――武田信繁は、苗木衆に二心がある事など、とうの昔に看破していたのだ。その上で、その叛心にあえて気付かぬふりをして、苗木衆を誘い出す為に一芝居を打ち、彼らが夜襲をかけてくるのを準備万端の体勢を整えて待ち構えていたのである。
自分たちが、武田方の策略にまんまと嵌った事を悟った茂武は、接近する武田軍の兵たちを前に、下知を下す事も忘れて呆然としていた。
「――し、信濃守様! 御下知を……!」
「こ、このままでは……」
「――ッ!」
口々に叫びながら、縋るような目で自分を見る兵たちの怯えた表情を前に、茂武はようやく我に返る。
彼は、目まぐるしく視線を彷徨わせながら、上ずった声で兵たちに命じた。
「と、とにかく! ここは一旦退くのだ! 武田の兵を迎え撃ちながら、間道を戻って、苗木の城に――」
「うわああああああああっ!」
命を下そうとする茂武の声は、それに倍する悲鳴と断末魔の声と剣戟が打ち合わされる甲高い金属音によって遮られる。
「こ、後方からも敵襲! 背後に回られました!」
「な……何だとっ?」
悲鳴混じりの報せに、茂武は顔面蒼白になった。
間違いない……。
背後に現れたのは、自分たちが前方の武田軍の陣に気を取られているうちに、本隊から離れ、森の中を大きく回り込んできた武田の別動隊だ。
これで、武田軍を夜襲しに来たはずの苗木衆は、逆に武田軍によって前後から挟み撃ちされる事になってしまう……!
作戦の失敗と敗北を悟った茂武は、唇を戦慄かせながら、信じられないと言わんばかりにふるふると首を左右に振る。
「ば……バカな……! こんな……こんなハズでは……」
自分の手から采配が零れ落ちた事にも気付かず、彼は呆然と立ち尽くすのだった。
鬱蒼と茂る森の木に紛れるように息を潜め、前方にじっと目を凝らしていた矢口茂武に、使番の兵が声をかけた。
顔は動かさぬまま、目だけを向けた茂武に、使番は声を潜めて告げる。
「内蔵助様の別動隊が、所定の位置についた模様です。たった今、合図が」
「うむ」
使番の報告を聞いた茂武は、緊張した面持ちで頷き、再び目を前方に向けた。
彼の視線の先には、下草を刈り払われただだっ広い原野が広がっており、その至る所には、甲斐武田家の家紋である武田菱があしらわれた数十数百にも及ぶ陣幕が張り巡らされている。
陣幕の前には煌々と篝火が焚かれ、大小さまざまな馬印や旗印が林立しており、少し強い夜風に煽られて揺れていた。
そして、陣幕の周囲には――、
「……ふ」
軍陣のあちこちで、生えている木の幹にもたれかかったり、地面の草の上に寝転がって大鼾をかいている雑兵たちの姿を見留め、茂武は思わず口元を綻ばせた。
「物見の報せの通りじゃな。気持ちよさそうに眠り呆けておるわ」
武田軍の陣から離れた距離に潜む茂武の鼻まで、風に乗って熟柿のような匂いが漂ってくる。
そこかしこに転がる酒樽や酒甕も、事前に得た情報通りだ。
未だに酒盛りの真っ最中の者もいるのか、耳を澄ませると、調子外れの下手糞な唄や、それに対する喝采の声が微かに聞こえてくる。
「まったく……ワシらがこうして、藪の中で蚊に食われるのも我慢して潜んでおる事も知らずに、愉しそうな事じゃ」
茂武は、蚊に刺された首筋を掻きながら、忌々しげに呟く。
と、彼の乗騎の轡を握る供廻りが、苦笑交じりに声をかけた。
「はは……とはいえ、もうじき、我らの手にかかって地獄に落ちる事になるのです。今のうちにせいぜい愉しい思いをさせてやるのも慈悲かと」
「ふふ……そうじゃな」
茂武は、供廻りの言葉に頷きながら、手に持った采配を握り直す。
「では……そろそろ始めるか」
「はっ」
茂武の声に、森に潜む苗木遠山の兵たちの間に緊張が走った。
最前方に配置した弓兵が、背中の矢筒から抜いた矢を弓につがえながら、音を立てぬよう一斉に立ち上がる。
そして、武田軍の陣に狙いを定め、きりきりと弓を引き絞った。
その後方に控えた兵たちも各々の得物を構え、号令がかかるやすぐに武田軍の陣内へ攻めかかれるように身構える。
その中央で、茂武はゆっくりと采配を頭上に掲げ、
「弓隊! 放――」
そう、雄々しく下知を下そうとした――その時、
“ブツリ”“ブツリ”
という音を立てて、武田方の陣に張られていた陣幕を吊る縄が次々と断ち切られた。
それと同時に、陣幕は突風に薙ぎ払われたかのように手際よく取り払われ、その陰から、整然と並んだ武田の兵たちが現れる。
彼らが構えているのは、今まさに火縄が落ちようとしている火縄銃――!
「な――ッ?」
想像だにしなかった光景を目の当たりにした茂武は、目を大きく見開きながら絶句する。
――次の瞬間、武田兵たちの構えた火縄銃が、一斉に火を噴き、耳を劈く轟音が原野に響き渡った。
「うわあああああッ!」
「ぎゃあああっ!」
「ヒ、ヒヒイイイイィィンッ!」
「がああッ!」
森の木々に鉛玉が当たって弾ける乾いた音に混じって、苗木兵の上げる悲鳴と苦悶の声と、百雷の如き火縄銃の発射音に驚いた馬の嘶きがあちこちから上がる。
そして、武田軍の陣からも、百万の獣の咆哮のような雄叫びが上がった。
「なッ……?」
茂武をはじめとした苗木衆は、目の当たりにした光景に、皆一様に目を疑い、言葉を失う。
驚いた事に、酔い潰れて前後不覚に眠りこけていると思っていた武田兵たちが俊敏な動きで起き上がると、身体の下に隠していた槍や刀を携えて、鬨の声を上げながら一斉に苗木衆の方に向かって突っ込んできたからだ。
「まさか……ッ!」
それを見た茂武は、ようやく気が付いた。
「武田軍は、初めから我らの計略を見抜いていて、その上で知らないフリをして、逆に我らを罠に嵌めたのか……ッ?」
そう、
武田軍――武田信繁は、苗木衆に二心がある事など、とうの昔に看破していたのだ。その上で、その叛心にあえて気付かぬふりをして、苗木衆を誘い出す為に一芝居を打ち、彼らが夜襲をかけてくるのを準備万端の体勢を整えて待ち構えていたのである。
自分たちが、武田方の策略にまんまと嵌った事を悟った茂武は、接近する武田軍の兵たちを前に、下知を下す事も忘れて呆然としていた。
「――し、信濃守様! 御下知を……!」
「こ、このままでは……」
「――ッ!」
口々に叫びながら、縋るような目で自分を見る兵たちの怯えた表情を前に、茂武はようやく我に返る。
彼は、目まぐるしく視線を彷徨わせながら、上ずった声で兵たちに命じた。
「と、とにかく! ここは一旦退くのだ! 武田の兵を迎え撃ちながら、間道を戻って、苗木の城に――」
「うわああああああああっ!」
命を下そうとする茂武の声は、それに倍する悲鳴と断末魔の声と剣戟が打ち合わされる甲高い金属音によって遮られる。
「こ、後方からも敵襲! 背後に回られました!」
「な……何だとっ?」
悲鳴混じりの報せに、茂武は顔面蒼白になった。
間違いない……。
背後に現れたのは、自分たちが前方の武田軍の陣に気を取られているうちに、本隊から離れ、森の中を大きく回り込んできた武田の別動隊だ。
これで、武田軍を夜襲しに来たはずの苗木衆は、逆に武田軍によって前後から挟み撃ちされる事になってしまう……!
作戦の失敗と敗北を悟った茂武は、唇を戦慄かせながら、信じられないと言わんばかりにふるふると首を左右に振る。
「ば……バカな……! こんな……こんなハズでは……」
自分の手から采配が零れ落ちた事にも気付かず、彼は呆然と立ち尽くすのだった。
0
お気に入りに追加
202
あなたにおすすめの小説
小沢機動部隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。
名は小沢治三郎。
年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。
ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。
毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。
楽しんで頂ければ幸いです!
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
転生一九三六〜戦いたくない八人の若者たち〜
紫 和春
歴史・時代
二〇二〇年の現代から、一九三六年の世界に転生した八人の若者たち。彼らはスマートフォンでつながっている。
第二次世界大戦直前の緊張感が高まった世界で、彼ら彼女らはどのように歴史を改変していくのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる