121 / 216
第二部二章 駆引
説得と結論
しおりを挟む
「……」
直廉は、虎繁の静かながらも重みのある言葉を聞き、顔を青ざめさせて沈黙した。
その視線は、三方に盛られた甲州金の山と虎繁、そしてつやの顔の間を不安げに行き交う。
――と、その時、
「ふ……」
彼の背後から、失笑とも嘲弄ともとれる吐息が上がった。
その場にいた三人の視線が、吐息を漏らした者へと集まる。
「……いえ、失礼いたしました」
三人の注目を浴びた琴は、打掛の袖で口元を隠しながら、軽く頭を下げた。
そして、細めた目で虎繁の顔を見据えながら、低い声で言う。
「ですが……斯様な物と金で、私たち苗木遠山の衆を買おうという武田様のお心根が、とてもさもし……滑稽に思えましてね」
「奥方殿……さすがにその物言いは――!」
琴の言い草を聞き、さすがに顔色を変えた虎繁が声を荒げかける。
――と、その時、
「……琴殿」
緊迫する広間に凛とした声が響いた。
その声に、琴はやにわに表情を緊張させ、声の主に鋭い目を向ける。
つやは、琴の刺すような視線を浴びながらも、落ち着いた口調で言葉を継いだ。
「貴女は、今の遠山家の……いえ、東美濃が置かれている情勢が、良く見えていらっしゃらないようですね」
「……それは、どういう意味でしょうか、叔母上?」
琴は、つやの言葉に僅かに片眉を上げながら訊き返した。その声には、隠しきれない苛立ちが感じ取れる。
それに対して、つやはあくまで穏やかな口調で答えた。
「今の東美濃は、東の武田、西の斎藤、南には織田と今川……と、周囲を大きな勢力に取り囲まれている状況です。そんな中、我ら遠山一族が生き残る為には、どこかの勢力の庇護を受けなければなりません」
「……そのような事、今更叔母上に教えて頂かなくとも存じております」
琴は、つやの言葉を鼻で嗤う。
「ですから、今まで我らは武田家と織田家に両属し、安定を保ってきた――」
「確かに、今まではそれでも良かった……いえ、赦されてきました」
つやは、琴の言葉を中途で遮ると、「ですが――」と頭を振り、言葉を続けた。
「これからは、それはもう赦されません。武田家が、本格的な西進をお決めになりましたから……」
「……」
それを聞いた琴は、憮然として口を噤む。
無論、琴もつやに言われるまでもなく理解していた。
武田家が稲葉山 (現在の岐阜県岐阜市)の斎藤氏と事を構える為には、ここ東美濃の地を完全に掌握する必要がある。それなのに、東美濃に勢力を張る遠山家が、自分たちと同様に美濃の地を狙っている織田家にも仕えている両属状態のままでは、いつ寝返るか分からず、後顧の憂いが拭えない。
だからこそ、武田家は、遠山七支族の中で唯一旗幟を鮮明にしていない苗木遠山家を、些か強硬な手段に訴えてでも完全に家中へ抱え込もうとしているのだ。
「ですが……」
だが、琴はそれでも言い抗おうとする。
「だからといって、我が織田家を捨てて……」
「琴殿」
再び、つやが琴の言葉を中途で遮った。
彼女は、やや険しい光を宿した瞳を琴へ向ける。
「貴女は、ひとつ考え違いをしています」
「考え違い……?」
「今の貴女は、もう織田家の女ではありませぬ」
「……!」
淡々と紡がれたつやの言葉に、琴はハッと目を見開いた。
そんな彼女の表情の変化を見ながら、つやは更に言葉を継ぐ。
「私も貴女も、共に遠山家へ嫁いだ身。今はもう遠山家の女なのです。であれば、遠山家の存続と繁栄を第一に考えるべきでしょう」
「……」
琴は、つやの言葉に何も言わなかった。先ほどと同じように表情を消し、自分からつと目を逸らした姪の顔を一瞥しつつ、つやは言葉を継ぐ。
「武田様は遠山家に、恭順後の本領安堵と国人衆としての待遇をお約束して下さいました」
「左様」
つやの声を受けるように、虎繁が首肯した。
「要するに、木曾谷 (現在の長野県木曽郡)の木曾殿と同様という事ですな。後日、当家より改めて在番衆を置かせて頂く事になろうが、それ以外は、今までと変わらぬとお考え頂いて差し支え御座らぬ」
「今までと変わらぬ……ですと?」
虎繁の説明に表情を輝かせたのは、直廉だった。
そんな直廉に、虎繁は小さく頷き、話を続ける。
「……どうであろうか。これでも、まだ当家に属される気にはなりませぬか?」
「うむ……」
虎繁の言葉に、直廉は迷う素振りを見せながら、ちらりと背後に目を遣った。
そんな夫の視線に気付いた琴は、おもむろに手にした扇を開いて口元を隠すと、僅かに眉を顰める。
そして、扇の陰で小さく息を吐くと、「……分かりました」と、呟くように言った。
「そこまで武田様に御配慮頂けるというのであれば、当家にお誘いを拒否する理由もありませんね」
「おお……では!」
妻の言葉を聞くや、安堵の表情を浮かべながら声を上ずらせる直廉。
そんな彼に小さく頷きかけた琴は、「それに……」と、つやに微笑みかけた。
「叔母上……いえ、岩村遠山家の奥方様がわざわざこの城までお越しになられ、私たちを直々に説得なさったのです。そこまでされて、さすがに否やとは申せませぬ」
「琴殿……」
琴の言葉に、僅かに戸惑う表情を浮かべるつや。
一方の虎繁は、喜色を満面に浮かべつつ、その身を乗り出す。
「奥方殿、勘太郎殿……では!」
「ええ」
虎繁の問いかけに、穏やかな微笑みを湛えながら首肯した琴は、立膝の姿勢から手を前に身体を支えて上体を倒した。
それを見た直廉も、慌てて姿勢を正しながらその場で両手をつき、深々と頭を下げる。
「我ら苗木遠山の衆一同、謹んで武田様の御意に従いまする!」
「……よしなに」
ふたりが頭を垂れたのを見た虎繁とつやは、互いの顔を見合わせた。
そして、僅かに微笑みを浮かべて頷き合うと、直廉たちと同じように深く頭を下げるのだった。
――だが、虎繁たちからは見えていなかった。
平伏する琴の美しい顔に、穏やかならぬ薄笑みが浮かんでいるのを――。
直廉は、虎繁の静かながらも重みのある言葉を聞き、顔を青ざめさせて沈黙した。
その視線は、三方に盛られた甲州金の山と虎繁、そしてつやの顔の間を不安げに行き交う。
――と、その時、
「ふ……」
彼の背後から、失笑とも嘲弄ともとれる吐息が上がった。
その場にいた三人の視線が、吐息を漏らした者へと集まる。
「……いえ、失礼いたしました」
三人の注目を浴びた琴は、打掛の袖で口元を隠しながら、軽く頭を下げた。
そして、細めた目で虎繁の顔を見据えながら、低い声で言う。
「ですが……斯様な物と金で、私たち苗木遠山の衆を買おうという武田様のお心根が、とてもさもし……滑稽に思えましてね」
「奥方殿……さすがにその物言いは――!」
琴の言い草を聞き、さすがに顔色を変えた虎繁が声を荒げかける。
――と、その時、
「……琴殿」
緊迫する広間に凛とした声が響いた。
その声に、琴はやにわに表情を緊張させ、声の主に鋭い目を向ける。
つやは、琴の刺すような視線を浴びながらも、落ち着いた口調で言葉を継いだ。
「貴女は、今の遠山家の……いえ、東美濃が置かれている情勢が、良く見えていらっしゃらないようですね」
「……それは、どういう意味でしょうか、叔母上?」
琴は、つやの言葉に僅かに片眉を上げながら訊き返した。その声には、隠しきれない苛立ちが感じ取れる。
それに対して、つやはあくまで穏やかな口調で答えた。
「今の東美濃は、東の武田、西の斎藤、南には織田と今川……と、周囲を大きな勢力に取り囲まれている状況です。そんな中、我ら遠山一族が生き残る為には、どこかの勢力の庇護を受けなければなりません」
「……そのような事、今更叔母上に教えて頂かなくとも存じております」
琴は、つやの言葉を鼻で嗤う。
「ですから、今まで我らは武田家と織田家に両属し、安定を保ってきた――」
「確かに、今まではそれでも良かった……いえ、赦されてきました」
つやは、琴の言葉を中途で遮ると、「ですが――」と頭を振り、言葉を続けた。
「これからは、それはもう赦されません。武田家が、本格的な西進をお決めになりましたから……」
「……」
それを聞いた琴は、憮然として口を噤む。
無論、琴もつやに言われるまでもなく理解していた。
武田家が稲葉山 (現在の岐阜県岐阜市)の斎藤氏と事を構える為には、ここ東美濃の地を完全に掌握する必要がある。それなのに、東美濃に勢力を張る遠山家が、自分たちと同様に美濃の地を狙っている織田家にも仕えている両属状態のままでは、いつ寝返るか分からず、後顧の憂いが拭えない。
だからこそ、武田家は、遠山七支族の中で唯一旗幟を鮮明にしていない苗木遠山家を、些か強硬な手段に訴えてでも完全に家中へ抱え込もうとしているのだ。
「ですが……」
だが、琴はそれでも言い抗おうとする。
「だからといって、我が織田家を捨てて……」
「琴殿」
再び、つやが琴の言葉を中途で遮った。
彼女は、やや険しい光を宿した瞳を琴へ向ける。
「貴女は、ひとつ考え違いをしています」
「考え違い……?」
「今の貴女は、もう織田家の女ではありませぬ」
「……!」
淡々と紡がれたつやの言葉に、琴はハッと目を見開いた。
そんな彼女の表情の変化を見ながら、つやは更に言葉を継ぐ。
「私も貴女も、共に遠山家へ嫁いだ身。今はもう遠山家の女なのです。であれば、遠山家の存続と繁栄を第一に考えるべきでしょう」
「……」
琴は、つやの言葉に何も言わなかった。先ほどと同じように表情を消し、自分からつと目を逸らした姪の顔を一瞥しつつ、つやは言葉を継ぐ。
「武田様は遠山家に、恭順後の本領安堵と国人衆としての待遇をお約束して下さいました」
「左様」
つやの声を受けるように、虎繁が首肯した。
「要するに、木曾谷 (現在の長野県木曽郡)の木曾殿と同様という事ですな。後日、当家より改めて在番衆を置かせて頂く事になろうが、それ以外は、今までと変わらぬとお考え頂いて差し支え御座らぬ」
「今までと変わらぬ……ですと?」
虎繁の説明に表情を輝かせたのは、直廉だった。
そんな直廉に、虎繁は小さく頷き、話を続ける。
「……どうであろうか。これでも、まだ当家に属される気にはなりませぬか?」
「うむ……」
虎繁の言葉に、直廉は迷う素振りを見せながら、ちらりと背後に目を遣った。
そんな夫の視線に気付いた琴は、おもむろに手にした扇を開いて口元を隠すと、僅かに眉を顰める。
そして、扇の陰で小さく息を吐くと、「……分かりました」と、呟くように言った。
「そこまで武田様に御配慮頂けるというのであれば、当家にお誘いを拒否する理由もありませんね」
「おお……では!」
妻の言葉を聞くや、安堵の表情を浮かべながら声を上ずらせる直廉。
そんな彼に小さく頷きかけた琴は、「それに……」と、つやに微笑みかけた。
「叔母上……いえ、岩村遠山家の奥方様がわざわざこの城までお越しになられ、私たちを直々に説得なさったのです。そこまでされて、さすがに否やとは申せませぬ」
「琴殿……」
琴の言葉に、僅かに戸惑う表情を浮かべるつや。
一方の虎繁は、喜色を満面に浮かべつつ、その身を乗り出す。
「奥方殿、勘太郎殿……では!」
「ええ」
虎繁の問いかけに、穏やかな微笑みを湛えながら首肯した琴は、立膝の姿勢から手を前に身体を支えて上体を倒した。
それを見た直廉も、慌てて姿勢を正しながらその場で両手をつき、深々と頭を下げる。
「我ら苗木遠山の衆一同、謹んで武田様の御意に従いまする!」
「……よしなに」
ふたりが頭を垂れたのを見た虎繁とつやは、互いの顔を見合わせた。
そして、僅かに微笑みを浮かべて頷き合うと、直廉たちと同じように深く頭を下げるのだった。
――だが、虎繁たちからは見えていなかった。
平伏する琴の美しい顔に、穏やかならぬ薄笑みが浮かんでいるのを――。
0
お気に入りに追加
197
あなたにおすすめの小説
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
日は沈まず
ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。
また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる