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第二部一章 進撃

城主と妻

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 信濃国木曽郡の鉢森山の南を水源とし、信濃 (長野県)から美濃 (滋賀県)・尾張 (愛知県)を流れ、伊勢 (三重県)まで到る長大な河川・木曽川は、その豊かな水量と広い川幅によって、古来から軍事上の要衝として重要視されてきた。
 東美濃苗木城は、そんな木曽川の北岸に聳える急峻な岩山の上に築かれた山城である。
 大永六年 (西暦1526年)に遠山一雲入道昌利が築城し、それまで本拠としていた植苗木うえなえぎの館から移り、それ以降苗木遠山氏の居城となっていた。
 山肌のあちこちに露出した巨大な岩を活用し、懸け造りを活用した櫓や石垣で組み上げられた苗木城は、他の城塞には無い異様な姿をしており、その標高と険しさから、城としての防御力も頗る高い。
 その上、岩山の頂上に建てられた本丸からは、城の南を流れる木曽川や中津川の平野部を通る街道を一望に見渡す事が可能で、周辺の動きが手に取るように把握できた。
 その為、東濃で軍事活動を行う為には、是非とも手中に治めておきたい拠点のひとつだった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「と、殿! 殿ーっ!」

 昼下がりの苗木城の本丸館に、上ずった声が響く。
 叫びながら館の廊下を走ってきた鎧直垂姿の家臣は、広間の円座わろうだに腰を下ろして食事を摂っていた小袖姿の若い男に向かって頭を下げてから、興奮した顔で報告した。

「あ、現れました! 木曽川の南岸に、武田の軍勢が……!」
「……ッ!」

 家臣の言葉を聞いた男は、目を大きく見開き、その顔を引き攣らせる。
 そして、土器かわらけ白湯さゆを口に含んで、食べかけた飯と一緒に飲み込むと、慌ただしく立ち上がった。
 早足で広間を出た男――苗木城主・遠山勘太郎直廉は、本丸の南に設けられた物見台に上がり、城の麓を見下ろす。
 彼の目に、木曽川の南岸に生い茂る木々の間から見える夥しい数の幟や旗が映った。
 木曽川岸から苗木城本丸がある高森山頂上までは、およそ五十五丈 (約170メートル)の程の標高差がある。
 それにもかかわらず、木曽川南岸に集結した軍馬の嘶きや甲冑の鎧擦れの音、統率する侍大将の上げる号令の声が、風に乗って直廉の耳まで届いていた。

「むう……」

 想像していた以上の武田軍の旗幟の多さに、直廉は顔を青ざめさせながら小さく唸る。
 彼は、微かに声を震わせながら、背後に控えた家臣に問いかけた。

「へ……兵数は、武田方の数は如何程だ?」
「は、はっ……」

 主君の問いに、家臣は躊躇いがちに答える。

「放ちました物見の者によると……少なく見積もっても、五千は下らぬという事で御座ります」
「五千……」

 家臣の答えを聞いた直廉は、思わず唇を噛んだ。
 今、この城に詰めている遠山の兵は二千ほどだ。

(我らの倍以上の兵が、城の麓に押し寄せてきているという事か……)

 そう考えただけで、直廉はやにわに肝が冷えるのを感じた。
 と、その時、

五千ですか……。案外と小勢ですね。当家も随分と侮られたようで……」
「!」

 不意に背後から上がった女の声に、直廉と家臣は驚いた顔をして振り向く。
 そして、物見台の階段を昇ってきた打掛姿の女の姿を見るや、上ずった声を上げた。

「お……奥方様……!」
「琴……! こんな所まで、何をしに……?」
「何をしに……? そのような事、決まっておりましょう」

 驚きながらの直廉の問いかけに、彼の正室・琴は、打掛の裾を侍女に持たせて物見台を歩きながら、直廉に冷たい目を向ける。

「見に参ったのですよ。この苗木の地に土足で踏み込んで荒そうとしている、遠山の……そして、織田の敵の姿を」
「お、奥方様!」

 物見台から身を乗り出し、麓の様子を覗き込みながら露骨に顔を顰める琴に、膝をついて頭を下げていた家臣が、思わず声を上げた。

「ま……まだ、武田勢が、この城を攻めに来たとは決まってはおりませぬ! 当方と武田家が手切れした訳では御座いませぬゆえ、“敵”と呼ぶのは些か尚早――」
「お黙りなさい。お前に直答を赦した覚えはない」
「あっ……も、申し訳ございませぬ……!」

 振り返った琴に、冷徹な光を宿した目で睨み据えられた家臣は、顔を青ざめさせながら、再び平伏する。
 そんな彼を「フン」と鼻で嗤い、もう一度木曽川の南岸に目を凝らす琴は――とても美しかった。
 その黒髪は、照り下ろす陽の光を反射してきらりきらりと輝き、彼女の肌は髪とは対照的に、白絹の如き肌理きめ細かさだった。
 すらりと伸びた鼻筋は高く、鮮やかな紅を引いた唇は、彼女の意志の強さを感じさせるように真一文字に結ばれている。
 誰もが、彼女の気高い美しさに見惚れるかに思えるが――そんな印象は、彼女の瞳を見た途端に覆されてしまった。
 と言っても、琴の瞳も、その貌と同じように美しい。
 美しいのだが……。

(……相変わらず、毒蛇のような目をしておる)

 直廉は、物見台の手すりに体を預け、無言で麓を見下ろしている琴の横顔を見ながら、心の中で溜息を吐く。
 と、その時、

「勘太郎殿」
「へっ?」

 不意に琴から声をかけられた直廉は、自分の心の中を透かし見られたかと思って、激しく身体を震わせた。
 そして、(さすがの琴でも、他人の心を見通す事など出来ぬ)と自分に言い聞かせつつ咳払いをし、それから平静を装った声で訊き返す。

「な、何だ、琴?」
「あの武田方を率いる将に関する報せはありましたか?」
「あ、ああ……それか」

 直廉は、琴の問いに心中で秘かに安堵しながら、先ほどから膝をついて頭を垂れている家臣に目配せをした。
 彼の目配せに気付いた家臣は、「は、はっ!」と応えると、おずおずと答える。

「武田軍を率いているのは、武田信玄公のご舎弟にあらせられる武田左馬助様……そして、秋山伯耆守様の由にございます」
「……なぜ、お前はに敬称を付けているのですか?」
「あ、い、いえ……それは……」
「それは? 何?」
「さ、先ほども申しましたように……あ……そ、その……申し訳ございませぬ……」

 琴の切れ長の目に宿る冷たい光に気圧された家臣は、顔面に脂汗を浮かべながらしどろもどろの謝罪の言葉を漏らし、物見台の床に額が付くほどに低く頭を下げた。
 そんな家臣の頭を冷ややかに見下した琴は、嘲るように「ふん」と小さく鼻を鳴らすと、じろりと目を巡らし、今度は夫の顔を見据える。
 彼女の視線に晒された直廉は、まさに『蛇に睨まれた蛙』のような居たたまれない気分で、表情と背筋を凍りつかせるのだった……。
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