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第二部一章 進撃

叔母と姪

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 「……ッ!」

 凛と紡がれたつやの声を聞いた遠山家の家臣たちが、再びざわつく。
 だが、それは先ほど上がった驚愕のどよめきとは少し違う、どこか腑に落ちたというような響きを孕んだ、静かなざわつきであった。
 その違いを敏感に感じ取った信繁が、不思議に思いながら眉を顰める。
 と、彼の背後に虎繁がにじり寄り、耳元でそっと囁きかけた。

「……左馬助様」
「ん……? どうした、伯耆」

 虎繁の囁きに、信繁は前を向いたまま訊き返す。
 そんな彼に、どことなく可笑しさを堪えているような表情を浮かべた虎繁が耳打ちした。

「今、つや殿が口になさった事……なかなかの妙案やもしれませぬぞ」
「妙案? 奥方殿が苗木へ向かい、遠山勘太郎の妻を説き伏せるという……アレがか?」
「左様に御座る」

 信繁の問いかけに、虎繁は小さく頷き、言葉を継ぐ。

「実は……遠山勘太郎殿の妻君めぎみ――琴殿は、かなり御気性の激しい御方でして……。拙者も何度かお目にかかる機会がございましたが……なかなか辟易とさせられました」
「ほう……」

 虎繁の言葉を聞いた信繁は、僅かに眉を上げ、含み笑いを漏らした。

「“武田の猛牛”の二つ名を持つお主ほどの男が辟易させられるとは、なかなかの女傑だな」
「いや……」

 からかい混じりの信繁の言葉に、少しムッとしながら「左馬助様も、お会いになれば分かりますよ……」とぼやいた虎繁は、気を取り直すように咳払いをしてから言葉を続ける。

「……それは、夫である勘太郎殿に対しても同様でして……。その上、琴殿の血筋の事もあって、勘太郎殿は頭が上がらない……まあ、早い話が、勘太郎殿は妻の琴殿の尻に敷かれているという事でして……」
「なるほどな……」

 虎繁の言葉に、信繁は小さく頷いた。
 ――先述したが、苗木城の遠山勘太郎直廉に嫁いだ琴は、尾張の織田信長の妹である。
 つまり、織田家と武田家に両属していた遠山直廉から見ると、妻の琴は主君の妹という事だ。妻とはいえ、あだや疎かには出来ぬ相手である。
 自然じねん、半従属の地方領主でしかない夫の立場は弱くなり、それとは対照的に、主筋である織田家の娘である妻の発言権と影響力は増す……。
 そんな歪な力関係の苗木遠山家が、これまでの両属関係から脱却し、織田か武田を選ばねばならぬと決断を迫られたら――。
 一瞬でそこまで考え到った信繁は、虎繁の顔をチラリと見ると、抑えた声で言った。

「苗木の衆の旗幟が不鮮明な事の理由――それが、遠山勘太郎の妻……信長の妹の意志によるものだという事か」
「……断定は出来ませぬが、可能性は高いかと」

 虎繁は、信繁の呟き声にコクンと頷き、更に言葉を継ぐ。

「で、あれば、先ほどつや殿が申された通りです。苗木をこちら方につかせる為には、勘太郎殿よりも琴殿を説き伏せる事が肝要となります。……ですが」

 そこで虎繁は一旦言葉を切り、先ほどのつやの発言を聞いて唖然としている景任の青ざめた顔を一瞥した。

「――言いづらいですが、琴殿を説得するには、大和守殿では些か力不足かと……」
「……」

 虎繁の言葉に、信繁は無言のまま顎髭を撫でる。
 数年前まで、在番衆として東濃に駐留し、遠山家の人間と交流してきた虎繁の言葉には、的を射ているという説得力があった。
 そして、今日初めて景任と会い、その顔相と人柄を見た信繁自身も、虎繁と同じ事を感じていた。

(どうも、遠山殿は気性が弱いきらいがある。確かにこの調子では、人の命運が末路がかかった交渉事には向かぬであろう……)

 そう考えながら、信繁は顎髭を撫でる指を止める。
 そして、彼の後ろで毅然と控えている甲冑姿の美しい女性へと視線を向けた。
 彼の視線に気付いたつやは、僅かに会釈をしてから、落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。

「――武田様もご存知かと思いますが、私と勘太郎殿の御内儀である琴殿は、叔母と姪の間柄にございます」

 彼女の言葉の通りだった。
 つやは、尾張の織田信長の祖父である故・織田弾正だんじょう左衛門尉さえもんのじょう信定の娘であり、信長と琴にとっては叔母にあたる(叔母とはいっても、年齢は信長よりも下であり、琴ともほとんど変わらないが)。
 もちろん、その事を知っていた信繁は、つやの言葉に小さく頷いた。

「……ああ、そうで御座ったな」
「叔母姪の間柄と申しましても、そこまで親密だった訳ではありませぬ。が、かといって、全く知らぬ仲でも御座いませぬ。琴殿も、義理の兄である主人よりも、実際に血が繋がっていて、尾張に居た頃から面識のある私との方が、より気持ちを寛げる事が出来ると思われますが?」
「ふむ……」

 つやの言葉に小さく唸った信繁は、地図の上に目を落とすと、再び顎髭を忙しげに撫で始める。
 そんな彼の顔を切れ長の目で真っ直ぐに見つめながら、つやは「それに……」と続けた。

「琴殿の難しい御気性に関しても、ここに居る誰よりも古い付き合いである私が一番よく解っていると思います。説き伏せる役目としては最適かと」
「……相分かった」

 信繁は、地図の上の『苗木』という文字を隻眼で見据えると、大きく頷く。
 そして、ゆっくりと顔を上げてつやの顔を見つめると、穏やかな声で言った。

「おっしゃる通り、苗木の衆を此方へ引き込む為には、それが一番のようだ。ここは、奥方殿の御力を頼る事にしよう。――遠山殿、まことに相済まぬが、それで宜しいか?」
「あ……」

 信繁の問いかけに、景任は当惑した様子でつやの方を振り返る。そして、彼女が微笑みを浮かべながら小さく首肯したのを見て、諦めた様子で溜息を吐くと、信繁に向かって深々と平伏する。

「……畏まりました。武田様の御意向のままに」
「忝い」

 と、景任に短く謝意を伝えた信繁は、膝に手を置いて、遠山夫妻に向かって深々と頭を下げたのだった。
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