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第二部一章 進撃

大将と副将

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 「そうなりますと……」

 信繁の横で、昌幸が顎に指を当てながら考え込む。

「信長は、美濃と三河のどちらを選ぶのでしょうか……?」
「お主はどちらだと思う、昌幸?」

 昌幸からの問いかけに、問いかけで返す信繁。

「そうですね……」

 信繁に問われた昌幸は、指を顎にかけたまま薄く目を閉じ、それから真っ直ぐに主の顔を見つめながら、ハッキリと答える。

「拙者は……三河の方だと考えます」
「ほう……」

 昌幸の答えを聞いた信繁は、僅かに眉を上げると、口元に微かな笑みを浮かべながら、更に問いを重ねた。

「なぜ、三河だと思ったのだ?」
「それは、今の信長にとっては、美濃を我らに掠め取られるよりも、三河が今川の手に落ちる事の方が深刻だからです」

 信繁の目を真っ直ぐに見据えたまま、昌幸はキッパリと言い切った。

さき治部大輔じぶたいふ (義元)様が横死なされた後、三河に残った家康に接近し、その独立を西で支援したのが、他ならぬ尾張の織田信長です。家康が織田家の人質だった頃に個人的な親交があった事も、信長が松平を支援した理由のひとつでしょうが、一番の動機は、三河を東の緩衝帯とする為でしょう」
「もちろん、そうだろう」

 昌幸の言葉に、信繁は大きく頷く。

「三河が今川領のままでは、桶狭間の復仇を期す今川家と直接境を接する事になるからな。いつ攻め込まれるか分からぬ。常に槍の穂先を喉元に突き付けられておるようなものだ」
「東がそんな状況では、おちおち美濃に攻め込む事も叶いませぬな」
「ああ」

 信繁は、昌幸の言葉に、口元を僅かに綻ばせた。
 一方の昌幸は、考え込む時の癖で顎を頻りに撫でながら、更に言葉を継ぐ。

「――ですから、信長にとっては、三河が今川の手に落ちる事こそが絶対に避けたい事態なのです。己の事を仇敵と憎む相手と自分とを隔ててくれている壁をむざむざと喪う訳にはいきませぬゆえ。――少なくとも、拙者が信長の立場ならば、迷う間もなく三河松平の救援に向かいますな」
「うむ」

 昌幸の意見を聞いた信繁は、満足げに頷いた。

「儂も全く同じ見立てだ。なかなかやるな、昌幸よ」
「……!」

 信繁からの賛辞に、昌幸はパッと顔を輝かせる。
 そんな彼に温和な微笑みを向けながら、信繁は更に言葉を続けた。

「……とはいえ、思いもかけぬ事が起こるのがいくさというものだ。我らがそう読んでいる事を逆手に取り、漁夫の利を狙って一気に美濃へ押し出してくる可能性も捨て切れぬ。油断は禁物だ」
「もちろん、重々承知しております」

 信繁の言葉に、昌幸も表情を引き締める。
 そんな彼の横顔を頼もしそうに見た信繁は、いつの間に飯田城の大手門のすぐ近くまで進んでいた事に気付いた。
 大きく開いた大手門の向こうには、満々と水を湛えた水堀を区切る堰が、土橋として真っ直ぐ伸びている。
 そして、その先には、夥しい数の旗幟が立てられ、風に靡いていた。
 それを見た信繁は、やにわに表情を引き締め、昌幸に声をかける。

「……では、参るぞ」
「ハッ!」

 気迫に満ちた昌幸の声を聞きながら、口を真一文字に引き締めた信繁は、馬の横腹を軽く蹴った。
 少し速度を上げて土橋を渡った馬の背に跨った信繁の目に、整然と並んだ大軍勢の姿が映る。
 それは言うまでもなく、これから彼の指揮下に入り、共に美濃へと向かう一万二千の兵であった。

「……!」

 しわぶきひとつも嘶きひとつも立てる事無く、一糸の乱れも無く整列した武田軍の威容に圧倒され、信繁は思わず目を見張る。
 と、その先頭に並んでいたふたりの騎馬武者が、彼の前まで静かに馬を進めてきた。
 騎馬武者のうち、濃い顎髭を蓄えた壮年の男が、騎乗したまま恭しく一礼をする。

「典厩殿、お待ち申しておりました」
「うむ……」

 自軍に思わず見惚れていた信繁は、壮年の武者の声でようやく我に返り、急いで威儀を正してから小さく頷いた。

「……済まぬな、美濃。遅くなった」
「いえ、滅相も御座いませぬ」

 謝る信繁に、生真面目にかぶりを振ったのは、武田家の重臣のひとりである馬場美濃守信春である。
 彼は、その力量と経験を買われて、信濃の中心である深志城 (現在の長野県松本市)の城代を務めていたが、此度の美濃攻めにおいて、大将である信繁の補佐を務める副将として、先日参陣したのだった。
 彼は、黒々とした顎髭をしごきながら、口の端に笑みを浮かべる。

「とはいえ、今日は風が心地良う御座りますからな。典厩殿をお待ち申しておる間、馬の上で居眠りをしており申した。ハッハッハッ!」
「馬場様、御冗談を……」
「それが、冗談ではないのだ、武藤」

 馬場の言葉に思わず苦笑を漏らした昌幸にそう言ったのは、まるで女性にょしょうのように美しいかんばせの若い武者だった。
 彼に声をかけられて、昌幸は慌てて首を垂れる。

「これは、四郎様……」
「ははは、良い良い。そう構えないでくれ」

 四郎――信玄の四男にして、諏訪家の棟梁である諏訪四郎勝頼は、恐縮する昌幸に向かって鷹揚に言った。

「此度の私は、叔父上……典厩様に付けられた副将のひとりに過ぎぬ。そう過剰に畏まられると、こちらが困ってしまう。場合によっては、総大将である典厩様の直臣であるお主の命を聞かねばならぬ身だからな、私は」
「そんな……拙者ごときが四郎様に命じるなど……そんな畏れ多い事などいたしませぬ」

 勝頼の言葉に一層恐縮しながら、昌幸は首を横に振る。
 そして、勝頼の横でニヤニヤ笑っている信春の顔をチラリと見て、ニコリと微笑んだ。

「――そういう事は、四郎様ではなく、もうおひとりの副将であらせられる馬場様に全てお頼み申しますゆえ……」
「おい、源五郎! キサマ……!」

 こまっしゃくれた口を利く昌幸に、目を剥く信春。もっとも、本気で怒った訳では無く、冗談交じりの戯れである。
 ふたりの滑稽なやり取りに、信繁は思わず破顔した。

「はっはっは……」
「――典厩様」

 愉快そうな笑い声を上げる信繁に向けて、おもむろに勝頼が何かを差し出す。
 それは――全軍の指揮を執る為の采配だった。
 勝頼は、信繁の顔を真っ直ぐ見据えながら、静かな声で言う。

「どうぞ、御下知を」
「うむ」

 彼の声に軽く頷いた信繁は、差し出された采配を受け取ると、三人の顔を順々に見回した。
 そして、目に力を込めて、厳かに言う。

「では……各々方、参ろうか」
「「「応!」」」

 信繁の声に、三人が気迫の籠もった声を上げ、力強く頷くのだった。
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