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第一部九章 愛憎
毒と酒
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廊下を踏みつけるように歩く足音が、だんだんと近付いてくる。
その足音が止まったと思った瞬間、弾け飛びそうな勢いで、襖が開け放たれた。
「……」
そこに仁王立ちしていたのは、ドロンとした目にギラギラとした剣呑な光を宿した信虎だった。
彼は、口をへの字に曲げたまま大股で部屋の中に入ると、平伏する信繁と虎昌を一瞥し「フン!」と吐き捨てると、円座の上にどっかりと腰を下ろす。
「……」
「……」
「……」
暫しの間、三人は一言も発せぬまま、膳を挟んで睨み合う。
痛い程の静寂が、部屋に満ちた。
――と、
「……チッ!」
信虎は、片頬を歪めて、大きな舌打ちをした。そして、膳の上に乗った焼き味噌を箸で掬って舐めると、何かを探すように目を左右に動かした。
そして、平伏したままの虎昌の額から垂れる血と、その膝元の床に散らばる血痕と陶器の欠片を目にして、先程自分が持っていた盃を彼に投げつけた事を思い出した。
信虎は、膳に拳を叩きつけると、不機嫌な声を上げる。
「おい、盃が無いぞ! 割れたのなら、さっさと新しいのを用意せい! 気が利か――」
「……どうぞ、父上」
信虎の怒号を中途で遮った信繁が、無表情のままで、スッと盃を差し出した。
「父上が厠に行っておられる間に、近習に持ってこさせました」
「…………フン!」
信繁の言葉にバツの悪い表情を浮かべた後、信虎は顔を歪ませて、引ったくるように盃を取った。
「……持っておるのなら、サッサと出さぬか! 気の利かぬ奴め!」
「……申し訳ございませぬ」
信虎の叱責に、素直に――というよりも、殊更に心を籠めぬ態度で頭を下げる信繁。
「次郎……貴様、何じゃその態度は――!」
「申し訳ございませぬ」
彼の態度に、眦を決した信虎が声を荒げ、腰を浮かしかけるが、信繁は抑揚の無い声で重ねて謝罪し、更に深々と頭を下げた。
信虎は中腰のまま顔を真っ赤にして、歯ぎしりをするが、
「……フン!」
と、忌々しげに鼻を鳴らすと、どっかりと腰を据える。
そして、傍らの大徳利を持ち上げると、信繁に向けて突き出した。
「注げ、次郎ッ!」
「……」
だが、信虎の催促にも、信繁は微動だにしない。紙のような顔色で、僅かに唇を噛んだまま、じっと座って居るままだった。
「……次郎?」
「……」
「どうした? 注げと言っておるだろうがッ! おい、次郎ッ、早うせいッ!」
「…………はっ」
信虎が怒号を浴びせ、漸く信繁は動いた。信虎から大徳利を受け取り、次いで突き出された盃に向けて、ゆっくりと大徳利を傾ける。
その持つ手が、僅かに震えている事に気付いた信虎が、訝しげな顔をした。
「……どうした?」
「い……いえ……何でもございませぬ。ただ……先日受けた肩の傷が痛みまして……」
そう、微かに揺れる声で咄嗟に言い繕いながら、信繁は大徳利を傾けた。
トクトクと音を立てて、盃に白濁した酒が満たされる。
「うむ……。良いぞ」
盃から立ち上る芳しい香りに、信虎の目尻が下がった。
彼は盃に鼻を近づけ、その香りを吸い込むと、満足そうな吐息を漏らした。
そして、ゆっくりと盃の端に口を近づける。
信繁は、その様子を血走った隻眼で凝視していた。
「……」
信虎の唇と盃の間がだんだんと狭まる。
あと三寸……。あと二寸……。あと一寸……!
「――父上ッ!」
気が付いたら、信繁の身体は動いていた。
彼は、叫びながら、手を伸ばし――、
信虎の手にあった盃をはたき落としていた。
「なッ――!」
「て、典厩様――!」
「――ッ!」
突然の彼の行動に、信虎と虎昌は驚きの声を上げたが、最も驚いていたのは、当の信繁自身であった。
「わ……儂は……何故……!」
彼は呆然として、自身の両手を見る。
(――何故、儂は、父上が毒を呑む寸前に、それを妨害する真似を……?)
「……!」
一方、信虎は、床に転がる盃と、零れた酒を見下ろし、全てを察した。
「――次郎! 貴様……ワシに、このワシに毒を……!」
信虎は、豺狼の様に目をぎらつかせ、憤然と立ち上がる。
そして、突き立ったままの刀の柄を掴むと、一気に引き抜いた。
「……次郎……」
信虎は、憤怒で顔を醜く歪め、嗄れた声で、信繁に言う。
「貴様……! 昔、あれ程までに目をかけてやったにも関わらず……、この父に毒を盛らんとするとは!」
「……」
「太郎など、とうの昔に見限っておったが、貴様までもワシに逆らうのか! あの、不忠者で不孝者の太郎如きに、あくまでも従おうというのかァッ!」
「――違いまする、父上!」
信繁は、激昂し、どす黒く濁った信虎の目を真っ直ぐに見返し、血を吐くような声で叫んだ。
「某は、兄上に従っておるのではない! 武田家に従っておるのだ! 武田家にとって害となる者は、断固として排除する……たとえ、父上、貴方でもだ!」
「……ッ! ほざけぇ――ッ!」
信繁の言葉に、信虎は目をカッと見開き、太刀を大上段に振りかぶる。
「その減らず口、この父自ら閉じてやろうぞ! 覚悟せよ、次郎――ッ!」
そして、絶叫と共に、自分を真っ直ぐに睨み続ける信繁に向けて、振り上げた太刀を振り下ろした。
「典厩様ァ――ッ!」
――次の瞬間、朱い花が散り舞った――!
その足音が止まったと思った瞬間、弾け飛びそうな勢いで、襖が開け放たれた。
「……」
そこに仁王立ちしていたのは、ドロンとした目にギラギラとした剣呑な光を宿した信虎だった。
彼は、口をへの字に曲げたまま大股で部屋の中に入ると、平伏する信繁と虎昌を一瞥し「フン!」と吐き捨てると、円座の上にどっかりと腰を下ろす。
「……」
「……」
「……」
暫しの間、三人は一言も発せぬまま、膳を挟んで睨み合う。
痛い程の静寂が、部屋に満ちた。
――と、
「……チッ!」
信虎は、片頬を歪めて、大きな舌打ちをした。そして、膳の上に乗った焼き味噌を箸で掬って舐めると、何かを探すように目を左右に動かした。
そして、平伏したままの虎昌の額から垂れる血と、その膝元の床に散らばる血痕と陶器の欠片を目にして、先程自分が持っていた盃を彼に投げつけた事を思い出した。
信虎は、膳に拳を叩きつけると、不機嫌な声を上げる。
「おい、盃が無いぞ! 割れたのなら、さっさと新しいのを用意せい! 気が利か――」
「……どうぞ、父上」
信虎の怒号を中途で遮った信繁が、無表情のままで、スッと盃を差し出した。
「父上が厠に行っておられる間に、近習に持ってこさせました」
「…………フン!」
信繁の言葉にバツの悪い表情を浮かべた後、信虎は顔を歪ませて、引ったくるように盃を取った。
「……持っておるのなら、サッサと出さぬか! 気の利かぬ奴め!」
「……申し訳ございませぬ」
信虎の叱責に、素直に――というよりも、殊更に心を籠めぬ態度で頭を下げる信繁。
「次郎……貴様、何じゃその態度は――!」
「申し訳ございませぬ」
彼の態度に、眦を決した信虎が声を荒げ、腰を浮かしかけるが、信繁は抑揚の無い声で重ねて謝罪し、更に深々と頭を下げた。
信虎は中腰のまま顔を真っ赤にして、歯ぎしりをするが、
「……フン!」
と、忌々しげに鼻を鳴らすと、どっかりと腰を据える。
そして、傍らの大徳利を持ち上げると、信繁に向けて突き出した。
「注げ、次郎ッ!」
「……」
だが、信虎の催促にも、信繁は微動だにしない。紙のような顔色で、僅かに唇を噛んだまま、じっと座って居るままだった。
「……次郎?」
「……」
「どうした? 注げと言っておるだろうがッ! おい、次郎ッ、早うせいッ!」
「…………はっ」
信虎が怒号を浴びせ、漸く信繁は動いた。信虎から大徳利を受け取り、次いで突き出された盃に向けて、ゆっくりと大徳利を傾ける。
その持つ手が、僅かに震えている事に気付いた信虎が、訝しげな顔をした。
「……どうした?」
「い……いえ……何でもございませぬ。ただ……先日受けた肩の傷が痛みまして……」
そう、微かに揺れる声で咄嗟に言い繕いながら、信繁は大徳利を傾けた。
トクトクと音を立てて、盃に白濁した酒が満たされる。
「うむ……。良いぞ」
盃から立ち上る芳しい香りに、信虎の目尻が下がった。
彼は盃に鼻を近づけ、その香りを吸い込むと、満足そうな吐息を漏らした。
そして、ゆっくりと盃の端に口を近づける。
信繁は、その様子を血走った隻眼で凝視していた。
「……」
信虎の唇と盃の間がだんだんと狭まる。
あと三寸……。あと二寸……。あと一寸……!
「――父上ッ!」
気が付いたら、信繁の身体は動いていた。
彼は、叫びながら、手を伸ばし――、
信虎の手にあった盃をはたき落としていた。
「なッ――!」
「て、典厩様――!」
「――ッ!」
突然の彼の行動に、信虎と虎昌は驚きの声を上げたが、最も驚いていたのは、当の信繁自身であった。
「わ……儂は……何故……!」
彼は呆然として、自身の両手を見る。
(――何故、儂は、父上が毒を呑む寸前に、それを妨害する真似を……?)
「……!」
一方、信虎は、床に転がる盃と、零れた酒を見下ろし、全てを察した。
「――次郎! 貴様……ワシに、このワシに毒を……!」
信虎は、豺狼の様に目をぎらつかせ、憤然と立ち上がる。
そして、突き立ったままの刀の柄を掴むと、一気に引き抜いた。
「……次郎……」
信虎は、憤怒で顔を醜く歪め、嗄れた声で、信繁に言う。
「貴様……! 昔、あれ程までに目をかけてやったにも関わらず……、この父に毒を盛らんとするとは!」
「……」
「太郎など、とうの昔に見限っておったが、貴様までもワシに逆らうのか! あの、不忠者で不孝者の太郎如きに、あくまでも従おうというのかァッ!」
「――違いまする、父上!」
信繁は、激昂し、どす黒く濁った信虎の目を真っ直ぐに見返し、血を吐くような声で叫んだ。
「某は、兄上に従っておるのではない! 武田家に従っておるのだ! 武田家にとって害となる者は、断固として排除する……たとえ、父上、貴方でもだ!」
「……ッ! ほざけぇ――ッ!」
信繁の言葉に、信虎は目をカッと見開き、太刀を大上段に振りかぶる。
「その減らず口、この父自ら閉じてやろうぞ! 覚悟せよ、次郎――ッ!」
そして、絶叫と共に、自分を真っ直ぐに睨み続ける信繁に向けて、振り上げた太刀を振り下ろした。
「典厩様ァ――ッ!」
――次の瞬間、朱い花が散り舞った――!
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