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第一部八章 陰謀

床板と真実

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 ――時間は、前日の深夜に遡る。

「……布団の下――か」

 僧形のままで府中の屋敷に現れた佐助の報告を聞いた信繁は、腕組みをして唸った。

「――そうだ。ほぼ間違いない」

 闇に潜み、片膝をついた佐助が小さく頷く。

「火が上がった瞬間、目を醒ました信玄がまず目を遣ったのは、自分の布団だった。咄嗟の際に、人は一番大切なものを気にかけるものだ。そう、漏らしてはならぬ秘密――などを、な」
「成程……」
「……に、しても」

 と、呆れた声を上げたのは、信繁の傍らに控える昌幸だった。
 彼は、苦笑とも渋面ともつかない表情を浮かべながら、佐助をジロリと睨んだ。

「畏れ多くも、お屋形様の寝所に火をかけるとは……。一歩間違えれば、お屋形様のお身体に危険が及ぶところではないか……!」
「……火をかけたとは言っても、少量の油の上に燈台の火を落としただけだ。あれしきの火では、床板を焦がすくらいがせいぜいだ」

 昌幸の咎言とがごとにも、佐助はいたって涼しい顔をしている。
 そんなふたりをよそに、信繁は頻りに顎髭を撫でながら、思案に暮れていた。

「……布団の下とは厄介だな。上に兄上の身体が横たわっていては、簡単には手を出せぬ」
「今回の小火ぼやを建前にして、お屋形様に部屋をお移り頂く事は出来ませぬか?」

 昌幸の言葉に、信繁は小さく頭を振った。

「先程、恵林寺の方から遣いが参った。近習たちも、部屋を移る事をお勧めしたようだが、兄上は頑として動かぬらしい。『これしきの小火如きで、いちいち騒ぎだてるなど、武田の棟梁の名折れになるわ!』などとおっしゃって、一切聞く耳を持たれぬと、向こうの宿直とのいの者たちも困っておるようだ」
「……本音は、布団の下のものが気になって動けない――という事ですか」
「だろうな」

 昌幸が苦笑混じりに言うと、信繁も同じような表情を浮かべて頷いた。

「――だが、それでは困る。どうにかして、兄上を布団の上からどかしたいものだが……」
「そうですね……。ですが、お屋形様ご自身のご意志が固い限りは、如何ともし難いところです……。こうなったら、『動かざる事山の如し』を決め込まれるでしょうからね……」
「“四如の旗”か……」

 信繁は、昌幸の言葉尻を捉えて、ボソリと呟いた。
 そして、何の気なしに、武田の旗印である“四如の旗”の元となった『孫子』の一説をそらんじる。

「……『其のはやき事風の如く、其のしずかなる事林の如く、侵掠する事火の如く、動かざる事山の如く』――か。……その後は、『知られざる事かげの如く。動く事雷霆らいていの如し……」

 そこまで呟いた瞬間――突然信繁は、正に雷霆を浴びたように、その隻眼を見開いた。
 彼は、はっしと膝を打つと、ふたりに向かって叫ぶ。

「――そうだ! それだ!」
「……典厩様?」
「佐助っ!」

 突然上がった大声に驚く昌幸をそのままにし、信繁は影に控える乱破の名を呼んだ。
 急に名を呼ばれた佐助が、訝しげに眉を顰めつつ頷いたのを見て、信繁は敢然とした態度で言った。

「――明日、儂と昌幸が、お屋形様のご機嫌伺いの為に恵林寺に行く。儂らが寝所で、お屋形様の見舞いをしている時に、そこを――お主が襲え!」
「は――?」

 信繁の言葉に、思わず言葉を喪ったのは、昌幸だった。
 彼は、顔を青ざめさせながら、信繁に言った。

「て――典厩様? 何を……!」
「いくら、兄上が意固地でも、突然刺客に襲われたら、さすがに部屋から動かざるを得まい。警護の近習たちも、刺客を追う為に駆り出される。――その隙に、儂とお主で兄上の布団の下をあらためる。……妙案だろう?」
「いや……妙案というか……随分、乱暴な手段というか何というか……」

 “妙案”を披露して、ニヤリと笑う信繁に、思わず呆れ顔をして嘆息する昌幸。
 一方の佐助は、無表情のままで、信繁の顔をジッと見た。

「まあ、確かに、一番手っ取り早い方策ではある。……だが――」
「何だ? さすがのお主でも難しいか?」
「……見くびるな」

 佐助は、信繁の挑発めいた言葉に、微かにムッとしながら、大きく首を横に振った。

「要するに、オレが信玄を襲うフリをした後、近習たちを引きつけて、時間を稼いだ上で逃げ切ればいいという話だろう? その程度、オレにかかれば容易い事よ。……オレが気にかけたのは、、お前が兄を騙し裏切る事になるまいか――という事だ」
「……知れた事」

 信繁は、佐助の問いかけに対し、決意を込めた表情で答えた。

「たとえ、兄上の意向に背く事になろうとも、それが、武田家の将来と、兄上ご自身の未来の為に必要な事であるのなら……儂は、いくらでも兄上に背いてやろうぞ――」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 ――そして、時は、翌日の朝へと戻る。

「――急げ。時間がないぞ」

 信繁は、布団をどかした床に這い蹲り、怪しい木目のずれがないかを調べ始める。
 それを見た昌幸も慌てて四つん這いになり、目を皿にして、床板を舐め回すように這いずり回った。
 そして、程なく――、

「――ここです、典厩様!」

 昌幸が興奮した声を上げる。その声を受け、信繁も素早く昌幸の視線の先を注視した。――確かに、床板の一枚が、他とは違って微妙に木目がずれている。

「……確かに、これだな」

 を見た信繁も、小さく頷いた。
 昌幸も頷き返すと、腰に差した脇差しを抜き、床板の継ぎ目に刃を入れ、梃子の様に持ち上げようとする。
 何度か失敗を繰り返したが、

「――開いた!」

 うまく刃が隙間に入り、床板を持ち上げる事に成功する。
 顔を見合わせたふたりが覗き込むと――床板の下には、小さな空洞があった。
 すぐに昌幸が手を入れ、中に入っていたものを取り出す。

「……当たり――だな」

 信繁は、小さく呟いた。
 昌幸が空洞から取り出したのは――封紙に包まれた、数通の書状だった。
 逸る気持ちを抑えつつ、信繁と昌幸は、封紙を外し、書状の中身を検める。
 庭の外から聞こえる蝉の鳴き声以外は、紙を開く乾いた音だけが、寝所の空気を揺らした。
 そして――、

「……無人斎――!」

 書状の末尾の署名を確認した昌幸が顔を上げ、微かに青ざめながらも、しっかりと信繁に頷きかける。

「……この書状は、無人斎道有様――即ち、武田信虎公からのものに、間違い御座いませぬ」
「……そうか」

 昌幸の言葉に、信繁も固い表情で頷き返す。
 その手には、中身を開かれた数通の書状が乗せられていた。
 彼は、静かに目を閉じると、沈痛さを隠せない声色で言葉を吐く。

「――これで、はっきりした。……此度の、今川との手切れの話……兄上を影で秘かに扇動していたのは――父上だ」
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