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第一部八章 陰謀

曲者と目的

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 「兄上ッ!」

 信玄の頭上に振り下ろされた曲者の刀を防いだのは、咄嗟に間に入った信繁が抜いた刀だった。
 ギィンという、金属同士がぶつかり合う重い音が響き、曲者と信繁の間に激しい火花が舞う。
 ふたりは、互いの刀に力を漲らせて、ギャリギャリという耳障りな音を立てながら、鍔迫り合う。

「むぅんッ!」

 信繁は、腕に一層の力を込めて、強引に曲者の刀を押し返す。曲者は、無言のまま軽やかに飛び下がった。
 すかさず、信玄を庇うようにその前に立ち、一分の隙無く佇む曲者を目で牽制しながら、信繁は有無を言わさぬ声で叫ぶ。

「兄上! 今の内に早うお逃げ下さい!」
「う――うむ……!」

 信繁の声に、すっかり気を呑まれていた信玄はハッと我に返り、ヨロヨロと立ち上がる。病床にあった為か、その足取りは覚束ない。
 そんな兄の様子を、横目ででチラリと見た信繁は、その表情を険しくすると鋭い声を上げる。

「昌幸! 兄上……お屋形様をお連れしろ!」
「は――はっ!」
「早くしろっ!」

 信繁の声に呼応するかのように、相対していた曲者がやにわに身を屈め、床を蹴った。
 同時に、刃が空気を切る甲高い音が耳を打つ。

「――っ」
「――ぐっ!」

 信繁の口から、苦悶の声が上がる。
 受け止め損なった曲者の凶刃が、彼の左肩を軽く掠めたからだ。

「くッ!」

 だが、信繁は怯まず、咄嗟に右肩を前にして、曲者の身体目がけて突っ込んだ。
 体格で勝る信繁の体当たりを受けて、曲者は思わず体勢を崩す。
 すかさず、信繁は刀を振るい、曲者の右脇腹から肩口に向けて切り上げた。

「ハァッ!」
「――ッ!」

 だが、曲者は体勢を崩したまま後ろに仰け反ると、そのまま後方に回転しながら跳び、信繁の一撃を易々と躱す。
 再び両者の間合いが開き、刀を構えたふたりは、微動だにせず、互いの隙を窺う。

 ――その時、

「――典厩様! ご無事ですかッ!」

 急を聞きつけた近習たちが、遅まきながら駆けつけてきた。
 彼らは寝室の襖を蹴破り、曲者を取り囲まんと、部屋の中へと雪崩れ込む。
 ――それに対する曲者の反応は早かった。

「……ッ!」

 曲者は、小さく舌打ちすると、再び床を蹴った。――自分を取り囲もうと寄る近習たちの方へ向かって。

「う――うおっ!」

 予想に反して自分たちの方へ向かってきた曲者に驚き、近習たちの反応が一瞬遅れる。
 曲者は、その隙を逃さない。
 彼は、体勢を一層低くすると、近習たちの足下に向けて頭から飛び込んだ。
 板張りの床を滑りながら、近習たちの脚の間を擦り抜け、そのまま縁側を飛び降りて、庭に到る。

「あ――、こ、コイツッ!」

 まんまと足下を抜かれた近習たちが驚いて振り返った時には、既に曲者は背を丸めたまま、小走りで境内の方へと走り去ろうとしていた。

「――な!」
「何をしておる! 追え! 逃がすでないッ!」

 狼狽える近習たちを、厳しい声で叱咤したのは、信繁だった。
 その声を受けた近習たちの殆どは、曲者の後を追い、飢えた狼のように目をギラギラと滾らせながら走り始めた。

「て……典厩様! お怪我を――!」

 だが、ふたりの近習が信繁の負傷に気付き、慌てて彼の元に駈け寄ろうとする。
 しかし、

「良い! 浅傷あさでだ! 儂には構わず、お主らもあの曲者の後を追え!」

 信繁は激しく首を振り、追い払うかのように手を横に振った。
 彼の言葉に、ふたりの近習は当惑した顔を見合わせるが、

「大丈夫だ! 典厩様のお怪我は、俺が看る! いいから、お前達は早くあいつを捕らえてこい!」

 いち早く信繁の元に駆けつけた昌幸の言葉に背を押された。
 ふたりの近習は、信繁と昌幸に大きく頷くと、裸足のままで曲者を追う為に全力疾走し始める――。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「……行ったか?」

 曲者と近習たちが走り去り、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った寝所。その中で、声を顰めて訊いたのは、左肩を押さえて蹲っていた信繁だった。

「――はい」

 信繁の問いに、同じように低い声で応えたのは、彼の傍らに付き添った昌幸。
 その答えを聞いた信繁は、小さく頷いた。

「……よし」

 そう呟くと、ゆっくりと立ち上がる。が、斬られた左肩が痛んで、思わず呻き声を上げた。

「あ……大丈夫ですか?」

 傍らに立つ昌幸は、慌てて彼の身体を支える。そして、己の袖口を裂き、傷口に当てた。
 当てた布が血を吸って、じんわりと赤く染まっていくのを目の当たりにした昌幸は、忌々しそうに顔を歪めながら呟く。

「――佐助の奴め。襲うフリをしろとの命なのに、実際に典厩様に手傷を負わせるとは何事だ……!」
「……いや、良い」

 憤る昌幸を宥めるように、信繁は苦笑した。

「より、真に迫る芝居を打つ為には必要だった。――佐助も、そこまで考えての事であろう。血こそ派手に出たが、皮の表面を斬った程度だしな」
「そうは申されましても……」

 斬られたにも関わらず、鷹揚な信繁の様子に、忸怩たる思いで臍を噛む昌幸だったが、

「――と、いかん。のんびりしている暇はないぞ」

 という信繁の言葉に、ハッと目を見開いた。
 信繁は敷かれた布団の脇に屈み込むと、その端を持ち上げようとするが、大きな布団を動かすのに、右手一本では上手くいかない。
 彼は振り返ると、昌幸に向かって言った。

「……昌幸、手を貸してくれ。布団をどかすぞ」
「あ――はい!」

 慌てて昌幸は信繁を手伝い、信玄が寝ていた布団を脇へ除けた。
 布団の下から現れたのは――何の変哲もない板張りの床である。
 それを見下ろしながら、微かに顔を青ざめさせて、信繁は呟くように言った。

「さてと――。些か申し訳ないが、探させてもらおう。……兄上がひた隠しになさっておられる、父上からの書状とやらを――な」
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