上 下
86 / 193
第一部八章 陰謀

小火と懸念

しおりを挟む
 翌日の朝。
 府中で急報を受けた信繁が、与力の武藤昌幸を連れて、押っ取り刀で恵林寺に駆けつけた。

「大事御座いませぬか、兄上?」

 そう、布団の横に腰を下ろした信繁は、部屋の片隅に目を向けながら、心配げな顔をして尋ねる。
 彼が見つめる板張りの床には、黒い跡が残っていた。

「……大した事は無い。勝手に燈台が倒れて、床を焦がしただけだ」

 どこか憮然として答える信玄。

「ただそれだけなのに……わざわざお主らが足を運ぶ事でもない」
「いやいや、ひとつ間違えれば、大変な事になるところでしたぞ」

 信玄の言葉に、焦げた床の傍らに膝をつき、仔細に調べていた昌幸がかぶりを振る。

「万が一、書庫の書類に火が回れば、たちまちにして燃え広がった事でしょう。この程度で済んで幸いでした」
「……お部屋を変えた方が宜しいのではないですか?」

 信繁は、鼻の頭に皺を寄せながら信玄に勧めた。

小火ボヤで済んだとはいえ、部屋中に焦げ臭い匂いが残っておりますし……。それに、昨夜の件が、ただの偶然では無い可能性も否めませぬ」
「……賊か刺客の仕業だとでも言うのか?」

 信繁の言葉に、信玄は眉を上げた。
 そして、血の気の薄い唇を歪めて、薄笑みを浮かべる。

「それは、奇妙な事では無いか? あの後調べたが、特に何を盗られた訳でも無い。それに、儂の命を狙う者がおったとして、何故、寝首をかかずに、小火騒ぎを起こすだけで退散したのだ? ……言っては何だが、付け火をするくらいなら、儂の命を奪う暇など、いくらでもあったはずだぞ」
「確かに、仰る通りではございますが……」

 信玄の反論に、渋い顔をする信繁。
 と、昌幸が口を挟む。

「――それより、お加減はいかがですか、お屋形様」
「……珍しいの、源五郎。お主が、儂の身体を気遣うとは」

 そう、皮肉気な薄笑みを浮かべた信玄に、昌幸は大げさな身振りで手を振る。

「これはしたり! 拙者は何時でも、お屋形様のお身体を案じ、心痛めておるのですが! この武藤喜兵衛昌幸、お屋形様に、その様な非情者と思われていたとは……」
「ハッハッハ……戯言じゃ。赦せ、源五郎」

 昌幸のわざとらしい悲嘆を前に、思わず相好を崩す信玄。

「……まあ、夜になると、時折咳が止まらなくなる事はあるがな。典厩や太郎にまつりごとを任せて、恵林寺ここでのんびりと過ごさせてもらったお陰で、ここ最近は頗る調子が良い。そろそろ、湯治や座禅に飽き始めてきたところよ」
「最近調子が良いといっても、油断してはなりませぬぞ、兄上」

 うずうずした様子の信玄に、信繁はすかさず釘を刺す。

「以前にも申しましたように、京から戻られる法印殿の看立てを受けるまでは、府中に戻る事は罷り成りませぬ。まあ、そのご様子でしたら心配は無さそうですが……。それまでは、どうぞご安静に」
「……厳しい弟だな。まるで、昔の板垣 (信方)のようだ」

 信玄は、取り付く島もない信繁の様子に、辟易としながら苦笑する。
 そして、開け放たれた襖の向こうから覗く庭に目を遣りながら、呟くように訊いた。

「……府中まつりごとの方はどうだ?」
「は。問題はございませぬ」

 信玄の問いかけに、信繁は穏やかな笑顔を見せた。

「お屋形様ご不在の間も、政務を停滞させる事の無いよう、臣下も力を尽くして励んでおりまする。――特に、若殿のご奮励は著しく、日に日に頼もしくなって参りました」
「……そうか。太郎が――」

 信繁の答えに、信玄は何とも言えない表情を浮かべた。

「彼奴は、良くやっているか……」
「はい」

 信玄の呟きに、信繁は大きく頷く。

「はじめの頃は、某に泣き言を漏らす事もありましたが……。最近は、某がおらぬでも、ご立派に務めを果たしておられます。本日、某がここに駆けつけられたのも、若殿に後事を託すのに懸念が無いが故に御座います」
「……」
「ご立派になられましたぞ。……是非とも、ご帰府の際には、若殿に労いのお言葉を賜りますよう――」
「……そうだな。考えておこう」

 複雑な表情ながら、小さく頷いた信玄に、信繁はニッコリと笑って、再度大きく頷いた。



 「……それはそれとして、だ」

 と、信玄は、腕組みをしながら首をコキリと鳴らしながら言った。

「法印は……いつ頃、京から戻るのだろうな。些か遅くはないか?」
「は。――それでございますが……」

 信繁は、信玄の問いかけに、僅かに眉を顰めながら答える。

「先日、京より早馬が参りましたが、その使者が携えてきた書状によると、折悪しく公方様が夏風邪を召されてしまったとの事です。法印殿はその治療にあたるとの事で、こちらに参るのが予定よりも遅れてしまうようで……」
「何と。……ツいておらぬな」

 信繁の報告に、信玄は思わず苦笑いを浮かべた。

「それでは……まだ当分は、読経と座禅に精を出さねばならぬという事か……」
「……申し訳御座いませぬ」

 バツが悪い顔をして頭を下げる信繁に、鷹揚に手を振る信玄。

「……別に、お前が気に病む事でも無い。致し方ない事だ。……だが」

 と、信玄はおずおずと上目遣いで、信繁の顔を窺う。

「さすがに、何時までも伏せったままでは身体がなまる。……たまには、気晴らしに鷹狩りにでも行きたいのだが……いかんか?」
「……鷹狩り、で御座るか……?」

 信玄の申し出に、信繁は戸惑い顔で、顎に手を当てた。
 ――確かに、信玄が言う通り、いつまでも寺の一室と石和の湯治場を行き来するだけの毎日では、身体も――そして、心も鈍ってしまうだろう。
 ……とは言っても、鷹狩りはかなり激しい運動である。万が一、鷹狩りの最中に信玄の容態が急変してしまったら――。
 暫しの間、瞑目して考え込んでいた信繁だったが、その目を開くと、静かにかぶりを振った。

「……申し訳御座いませぬが、さすがに鷹狩りは――」

 信繁が、そこまで口を開いた時である。

 ――ひゅんッ

 三人の耳に、甲高い風切り音が聴こえた。次いで、乾いた衝突音。

「ッ!」

 三人は、音が鳴った方に目を遣り――身体を強張らせた。
 信玄の布団のすぐ側の板床に、黒く塗られたクナイが突き立っていたからだ。

「な――何事ッ!」

 昌幸が声を上げると同時に、天井から何かが降ってきた。
 ドスンという重い音が響く。
 それは――柿渋色の忍び装束を纏い、顔を頭巾で隠した人間だった。

「――曲者ッ!」
「……」

 乱破の姿をした闖入者は、無言のまま背中の刀を抜くと、呆気に取られて布団の上で固まっている信玄に向けて、その刃を振り上げた――!
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

噂好きのローレッタ

水谷繭
恋愛
公爵令嬢リディアの婚約者は、レフィオル王国の第一王子アデルバート殿下だ。しかし、彼はリディアに冷たく、最近は小動物のように愛らしい男爵令嬢フィオナのほうばかり気にかけている。 ついには殿下とフィオナがつき合っているのではないかという噂まで耳にしたリディアは、婚約解消を申し出ることに。しかし、アデルバートは全く納得していないようで……。 ※二部以降雰囲気が変わるので、ご注意ください。少し後味悪いかもしれません(主人公はハピエンです) ※小説家になろうにも掲載しています ◆表紙画像はGirly Dropさんからお借りしました (旧題:婚約者は愛らしい男爵令嬢さんのほうがお好きなようなので、婚約解消を申し出てみました)

異世界に飛ばされたおっさんは何処へ行く?

シ・ガレット
ファンタジー
おっさんが異世界を満喫する、ほのぼの冒険ファンタジー、開幕! 気づくと、異世界に飛ばされていたおっさん・タクマ(35歳)。その世界を管理する女神によると、もう地球には帰れないとのこと……。しかし、諦めのいい彼は運命を受け入れ、異世界で生きることを決意。女神により付与された、地球の商品を購入できる能力「異世界商店」で、バイクを買ったり、キャンプ道具を揃えたり、気ままな異世界ライフを謳歌する! 懐いてくれた子狼のヴァイス、愛くるしい孤児たち、そんな可愛い存在たちに囲まれて、おっさんは今日も何処へ行く? 2017/12/14 コミカライズ公開となりました!作画のひらぶき先生はしっかりとした描写力に定評のある方なので、また違った世界を見せてくれるものと信じております。 2021年1月 小説10巻&漫画6巻発売 皆様のお陰で、累計(電子込み)55万部突破!! 是非、小説、コミカライズ共々「異世界おっさん」をよろしくお願い致します。 ※感想はいつでも受付ていますが、初めて読む方は感想は見ない方が良いと思います。ネタバレを隠していないので^^;

【完結】身売りした妖精姫は氷血公爵に溺愛される

鈴木かなえ
恋愛
第17回恋愛小説大賞にエントリーしています。 レティシア・マークスは、『妖精姫』と呼ばれる社交界随一の美少女だが、実際は亡くなった前妻の子として家族からは虐げられていて、過去に起きたある出来事により男嫌いになってしまっていた。 社交界デビューしたレティシアは、家族から逃げるために条件にあう男を必死で探していた。 そんな時に目についたのが、女嫌いで有名な『氷血公爵』ことテオドール・エデルマン公爵だった。 レティシアは、自分自身と生まれた時から一緒にいるメイドと護衛を救うため、テオドールに決死の覚悟で取引をもちかける。 R18シーンがある場合、サブタイトルに※がつけてあります。 ムーンライトで公開してあるものを、少しずつ改稿しながら投稿していきます。

モブだった私、今日からヒロインです!

まぁ
恋愛
かもなく不可もない人生を歩んで二十八年。周りが次々と結婚していく中、彼氏いない歴が長い陽菜は焦って……はいなかった。 このまま人生静かに流れるならそれでもいいかな。 そう思っていた時、突然目の前に金髪碧眼のイケメン外国人アレンが…… アレンは陽菜を気に入り迫る。 だがイケメンなだけのアレンには金持ち、有名会社CEOなど、とんでもないセレブ様。まるで少女漫画のような付属品がいっぱいのアレン…… モブ人生街道まっしぐらな自分がどうして? ※モブ止まりの私がヒロインになる?の完全R指定付きの姉妹ものですが、単品で全然お召し上がりになれます。 ※印はR部分になります。

もしも○○だったら~らぶえっちシリーズ

中村 心響
恋愛
もしもシリーズと題しまして、オリジナル作品の二次創作。ファンサービスで書いた"もしも、あのキャラとこのキャラがこうだったら~"など、本編では有り得ない夢の妄想短編ストーリーの総集編となっております。 ※ 作品 「男装バレてイケメンに~」 「灼熱の砂丘」 「イケメンはずんどうぽっちゃり…」 こちらの作品を先にお読みください。 各、作品のファン様へ。 こちらの作品は、ノリと悪ふざけで作者が書き散らした、らぶえっちだらけの物語りとなっております。 故に、本作品のイメージが崩れた!とか。 あのキャラにこんなことさせないで!とか。 その他諸々の苦情は一切受け付けておりません。(。ᵕᴗᵕ。)

今こそ、すぎむらしんいち先生の大傑作「ディアスポリス」

黒いテレキャス
エッセイ・ノンフィクション
すぎむらしんいち先生の「ディアスポリス」は超面白い傑作だという話

【R18】らぶえっち短編集

おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
調べたら残り2作品ありました、本日投稿しますので、お待ちくださいませ(3/31)  R18執筆1年目の時に書いた短編完結作品23本のうち商業作品をのぞく約20作品を短編集としてまとめることにしました。 ※R18に※ ※毎日投稿21時~24時頃、1作品ずつ。 ※R18短編3作品目「追放されし奴隷の聖女は、王位簒奪者に溺愛される」からの投稿になります。 ※処女作「清廉なる巫女は、竜の欲望の贄となる」2作品目「堕ちていく竜の聖女は、年下皇太子に奪われる」は商業化したため、読みたい場合はムーンライトノベルズにどうぞよろしくお願いいたします。 ※これまでに投稿してきた短編は非公開になりますので、どうぞご了承くださいませ。

前世で処刑された聖女、今は黒薬師と呼ばれています

矢野りと
恋愛
旧題:前世で処刑された聖女はひっそりと生きていくと決めました〜今世では黒き薬師と呼ばれています〜 ――『偽聖女を処刑しろっ!』 民衆がそう叫ぶなか、私の目の前で大切な人達の命が奪われていく。必死で神に祈ったけれど奇跡は起きなかった。……聖女ではない私は無力だった。 何がいけなかったのだろうか。ただ困っている人達を救いたい一心だっただけなのに……。 人々の歓声に包まれながら私は処刑された。 そして、私は前世の記憶を持ったまま、親の顔も知らない孤児として生まれ変わった。周囲から見れば恵まれているとは言い難いその境遇に私はほっとした。大切なものを持つことがなによりも怖かったから。 ――持たなければ、失うこともない。 だから森の奥深くでひっそりと暮らしていたのに、ある日二人の騎士が訪ねてきて……。 『黒き薬師と呼ばれている薬師はあなたでしょうか?』 基本はほのぼのですが、シリアスと切なさありのお話です。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※一話目だけ残酷な描写がありますので苦手な方はご自衛くださいませ。 ※感想欄のネタバレ配慮はありません(._.)

処理中です...