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第一部七章 血縁

報告と相談

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 「ふう……」

 目立たぬよう奥の間に通された義信は、桔梗が淹れてきた茶を一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。

「……宜しければ、お着替えでも。濡れた着物のままでは、お風邪を召されてしまいます」

 と、雨でぐっしょりと濡れた衣服のままの義信の身を気遣った桔梗が尋ねるが、

「あ……お気遣い、忝うござる、叔母上。されど、どうかお構い無く……」

 義信は頑なに首を横に振り続ける。

「ですが……」
「良い、桔梗。太郎本人がそう申しておるのだ。あまりに無理強いをするな。――それに、雨に濡れるくらい、戦場いくさばでは茶飯事だ。そうそう風邪などひかぬさ」

 心配顔の桔梗に、信繁は苦笑混じりで窘めた。

「それより、酒を持ってきてくれ。冷えた身体を温めるには、酒が一番だ」
「お、義姉上あねうえ。出来れば、盃は三枚でお頼み申しますぞ」

 信繁の指示に、ちゃっかり乗っかる信廉。
 桔梗は、信廉のおどけた様子に思わず吹き出しかけて、慌てて口元を袖で隠す。
 笑いを堪えつつ、「畏まりました」と言うと、部屋を出て行った。

「……さて」

 信繁は、桔梗の足音が遠ざかるのを確認すると、対面に座る義信に目を向けた。

「では、太郎……いや、若殿。聞かせて頂こうか。我々に相談したい儀というのは、一体、何だ?」
「……はい」

 義信は、信繁から向けられた鋭い視線を真っ直ぐに見返しながら頷くと、重い口を開く。

「まず一つ目……、本日の夕刻過ぎ――。父上……お屋形様が、激しく咳き込み、お倒れになり申した」
「は――?」
「な――ッ!」

 義信の口から伝えられた信玄あにの凶報に、信繁と信廉は驚愕の表情を浮かべた。

「お倒れになったとは……ご、ご容態はどうなのじゃ!」

 信廉が顔を真っ青にし、義信の肩を掴んで揺さぶりながら叫ぶ。
 と、義信は、自分の肩を掴む叔父の手に、そっと自分の手を乗せ、小さく頭を振って言った。

「ご安心なされよ、逍遙様。すぐに薬師くすしを呼んで、薬を処方させました。その薬が効き、今はぐっすりと眠っておられます」
「そ……そうか……」

 義信の言葉に、信廉は安堵の息を漏らす。
 ――が、信繁の顔は晴れない。
 彼は、渋面を作ったまま、腕組みをしながら考え込む。
 そして、義信に目を向けると、静かな声で尋ねた。

「太郎……。お屋形様がお倒れになったのは、此度が初めてか?」
「え……? は、はい。私が知る限りでは――」

 彼の問いに、訝しみながらも答える義信。信廉も、「わ……私も、今まで聞いた事がございませぬ」と頷いた。
 信繁は小さく唸ると、更に質問を重ねる。

「確か……お屋形様は、春先ごろにお風邪を召してらしたようだが、その後の様子は如何であった?」
「……そういえば、なかなか快癒せず、今でも時々乾いた咳をしていらっしゃった様でございます。……ですが、お倒れになったのは、今宵が初めてで――」

 義信の答えに、信繁の眉間の皺は、ますます深くなる。
 彼は、二月に信玄とまみえ、甲駿往還の道普請について、彼を問い質した時の事を思い出していた。

(そういえば……あの時も、気になる咳をしておられた。――あの時のと、今回の昏倒の元になった咳。もしも、同じものならば……)

 彼は、考え込む時の癖で、頻りに顎髭を指の腹で撫でながら、猶も義信に訊く。

「では――お屋形様を看た薬師は、何と申しておった?」
「それは――」

 この問いに対して、義信は逡巡する素振りを見せた。信繁の表情は更に険しくなる。

「……そんなにお悪いのか――?」
「あ、いえ……そうではござらぬが……御典医の板坂法印殿が不在だった故、その弟子が看たのですが、その者が『快方に向かう』と申しておったのが、妙に引っかかって……」
「……ひとまず――か」
「確かに、気になる言い方ですな……」

 信繁と信廉は、お互いの当惑した顔を見合わせた。

「とにかく、京から法印殿が戻り次第、看て頂く事に致します。……すぐに、という訳にはいきませぬが……」
「……うむ。それしか無いか……」

 義信の言葉に、浮かぬ顔のまま頷き、義信に向けて告げる。

「――で、あれば。法印が戻るまでの間、これ以上お屋形様のご容態が悪化せぬよう、薬師を二六時中お側につけておくべきだな。……太郎よ。お屋形様のご公務は、暫くの間、儂とお主とで代行する事としよう」
「は。承知仕りました」

 義信は、信繁に深々と頭を下げた。
 と、

「のう……太郎よ」
 信廉が首を傾げながら義信に向かって尋ねる。

「はい」
「……確かに、お屋形様がお倒れになったのは一大事。……ではあるが、それを伝える為に、この雨の中をわざわざお主自らが参る事は無かったのではないか? ご容態が小康を保っておるのならば、我らに報せるのは明朝でも構わぬであろうに?」
「確かにな……。伝えに来るにしても、お屋形様付きの近習か小姓を差し向ければ良いだけであろう。敢えて、武田家の嫡男であるお主が自ら参る必要は――」

 そこまで言いかけて、信繁は、最初に義信が言った言葉を思い出した。

「そうだ……先程、お主は『まず一つ目』と申したのだったな……」

 そう呟くと、信繁は隻眼を光らせて、義信をじいっと見据えた。

「――まだあるのか。いや……寧ろ、なのか」
「…………はい」

 義信は、コクリと頷いた。
 そして、威儀を正すと、青ざめた顔を引き締め、覚悟を決めた表情を浮かべる。

「ご推察の通り――私がお伺いしたのは、もう一つの件に関してでござる。叔父上に御相談の上、是が非でもご助力を賜りたいと考え、ここまで罷り越しました」

 彼は、そこで一旦言葉を切ると、唇を舌で湿してから、意を決した様に口を開く。

「実は……お屋形様がお倒れになる前、私に告げたのです。――『今川と手切れし、我らは駿河へ攻め込む』……と!」
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