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第一部六章 軋轢
息子と甥
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「お疲れ様にござる。典厩様」
論功行賞後の酒宴に参加し、夜半過ぎに自邸へ帰ってきた信繁を、先に帰っていた武藤昌幸が門前で迎えた。
「おや、まだ居たのか、昌幸。お主も、もう帰って構わぬぞ」
意外な顔でそう言う信繁に、昌幸はムッとした表情を浮かべた。
「与力ともあろう者が、典厩様のご帰宅も待たずに帰るわけにはゆきませぬ」
「儂は構わぬと言うに……」
「それに――正直、武藤の屋敷よりも、こちらの方が居心地が良くて……。何せ、桔梗様や綾様がいらっしゃいますからな。飯も美味いし……」
「……困った奴だ」
信繁は、昌幸の言葉に苦笑いを浮かべながら、馬丁に馬の手綱を渡し、玄関口をくぐる。
「お帰りなさいませ、主様」
「うむ。遅くなった」
玄関の三和土に両手をつき、深々と頭を下げる妻の桔梗に、信繁は労りの言葉をかける。そして、躊躇いがちに彼女に問うた。
「……綾は、もう寝たのか?」
「はい。つい先程まで『ちちうえのおかえりをまちまする』と言って、頑張って起きていたのですが……申し訳ございませぬ」
「あ、いやいや。構わぬ」
信繁は、桔梗の謝罪の言葉に、慌てて手を振る。
「子供が起きているには、もうきつい時間だ。遅くなった儂が悪い」
そう呟くと、少し残念そうな表情を浮かべたものの、すぐに気を取り直した信繁は、妻に向かって優しく言葉をかけた。
「もう夜も遅い。お前も先に寝むと良い」
「……はい。畏まりました」
桔梗は、信繁から佩刀を受け取りながら、こくんと頷いた。
と、彼女は首を傾げ、訝しげな表情で信繁に訊いた。
「そういえば……六郎次郎殿はどうなさいました? ――ご一緒ではなかったのですか?」
「ああ……。あいつは、まだ躑躅ヶ崎だ。帰り際に、四郎に誘われておった。今頃、従兄弟同士で一緒に酒でも酌み交わしておるのだろう」
「……四郎様と?」
信繁の言葉に目を丸くしたのは、昌幸だった。
「六郎次郎殿は、四郎様と知己だったのですか?」
「いや……四郎とは従兄弟ではあるが、相対したのは、今日が初めてだと思う。論功行賞後に突然、『川中島での手柄の話を伺いたい』と声をかけられて、六郎次郎も吃驚しておった」
「……どういう風の吹き回しでしょうな」
「ん?」
眉を顰める昌幸に、胡乱げな顔をする信繁。
「それは、どういう意味だ、昌幸」
「いえ……まあ、特段深い意味ではございませぬが、昼間の一件があった後に、六郎次郎殿にお近づきになろうとしているというのが……何とも」
「昼間……ああ――」
信繁の脳裏に、論功行賞の場で起きた、長坂釣閑斎の一件が浮かぶ。
と、傍らでふたりのやり取りを聞いていた桔梗が、不安そうな顔で信繁の袖を引く。
「あの、主様……昼間の一件――とは、何でございますか……?」
「ん? ――あ、いや……」
彼女の顔を見た信繁は、ハッとして、安心させるようにニコリと微笑んでみせた。
「なに、別に大した事は無い。――さあ、早く寝るが良い」
「……畏まりました。それでは……お休みなさいませ」
穏やかな信繁の表情に、桔梗は安堵の表情を露わにして、微笑み返すと屋敷の奥へと去っていった。
その背中を見送ると、信繁は昌幸の方へと振り返り、小さく頷いた。
「昌幸……その件に関するお主の考えは、座敷で聞くとしよう。お主も上がれ」
◆ ◆ ◆ ◆
座敷で向かい合って座り、先ずは酒で満たした盃を干すと、信繁は昌幸に、玄関先で口にした話の続きを促した。
「……昼間の、長坂釣閑斎様の件です。あれは一見、飯富様に向けられたものですが、真の狙いは他にあったかと思われます」
「――太郎か……」
信繁の呟きに、昌幸は大きく頷く。
「飯富様は、若殿の守役でございます。それを踏まえた上で、長坂様が敢えて、此度の飯富様の失態――という程の失態でもありませぬが――を責めたのは、飯富様が後ろ盾になっており、此度の川中島勢の大将でもあった若殿の事を間接的に貶めようという意図があったのかと思われます」
「……もっとも、その意図は見え見えで、お屋形様――兄上には手も無くあしらわれてしまったがな」
「ですが、あの場にいた諸将の心に強く印象づけ、飯富様――そして若殿への心証を、多少なりとも悪からしめる事にはなり申した。……そしてその代わりに、秤の皿の如く、相対的に評価を上げるのは――」
「……四郎。諏訪四郎勝頼――」
「はい」
コクリと首肯すると、昌幸はちびりと盃を傾けて舌を湿らせ、言葉を継いだ。
「……春に四郎様が元服なさった時に、側付としてお屋形様がお付けになった者のひとりが、他ならぬ長坂釣閑斎様でござる。あのお方が、若殿を殊更に下げ、逆に四郎様を持ち上げようとなさるのは、まあ、分からぬ事でもありませぬな」
「……まさか」
昌幸の言葉に、信繁は背中に薄寒いものを感じた。突拍子もないことだが、覚えが無い訳でもないとある推測が、彼の頭を過ぎったからである。
彼の脳裏に、二十年あまり前の事件が思い返された。
そう……自分と兄・晴信との間に起こった、武田家を真っ二つに割きかねなかった、あの一件の事を――。
信繁は、微かに顔を青ざめさせながら、低い声で呟いた。
「――長坂は太郎を廃嫡に追い込み、四郎を武田の統領に据えようと目論んでいるとでも言うのか……?」
論功行賞後の酒宴に参加し、夜半過ぎに自邸へ帰ってきた信繁を、先に帰っていた武藤昌幸が門前で迎えた。
「おや、まだ居たのか、昌幸。お主も、もう帰って構わぬぞ」
意外な顔でそう言う信繁に、昌幸はムッとした表情を浮かべた。
「与力ともあろう者が、典厩様のご帰宅も待たずに帰るわけにはゆきませぬ」
「儂は構わぬと言うに……」
「それに――正直、武藤の屋敷よりも、こちらの方が居心地が良くて……。何せ、桔梗様や綾様がいらっしゃいますからな。飯も美味いし……」
「……困った奴だ」
信繁は、昌幸の言葉に苦笑いを浮かべながら、馬丁に馬の手綱を渡し、玄関口をくぐる。
「お帰りなさいませ、主様」
「うむ。遅くなった」
玄関の三和土に両手をつき、深々と頭を下げる妻の桔梗に、信繁は労りの言葉をかける。そして、躊躇いがちに彼女に問うた。
「……綾は、もう寝たのか?」
「はい。つい先程まで『ちちうえのおかえりをまちまする』と言って、頑張って起きていたのですが……申し訳ございませぬ」
「あ、いやいや。構わぬ」
信繁は、桔梗の謝罪の言葉に、慌てて手を振る。
「子供が起きているには、もうきつい時間だ。遅くなった儂が悪い」
そう呟くと、少し残念そうな表情を浮かべたものの、すぐに気を取り直した信繁は、妻に向かって優しく言葉をかけた。
「もう夜も遅い。お前も先に寝むと良い」
「……はい。畏まりました」
桔梗は、信繁から佩刀を受け取りながら、こくんと頷いた。
と、彼女は首を傾げ、訝しげな表情で信繁に訊いた。
「そういえば……六郎次郎殿はどうなさいました? ――ご一緒ではなかったのですか?」
「ああ……。あいつは、まだ躑躅ヶ崎だ。帰り際に、四郎に誘われておった。今頃、従兄弟同士で一緒に酒でも酌み交わしておるのだろう」
「……四郎様と?」
信繁の言葉に目を丸くしたのは、昌幸だった。
「六郎次郎殿は、四郎様と知己だったのですか?」
「いや……四郎とは従兄弟ではあるが、相対したのは、今日が初めてだと思う。論功行賞後に突然、『川中島での手柄の話を伺いたい』と声をかけられて、六郎次郎も吃驚しておった」
「……どういう風の吹き回しでしょうな」
「ん?」
眉を顰める昌幸に、胡乱げな顔をする信繁。
「それは、どういう意味だ、昌幸」
「いえ……まあ、特段深い意味ではございませぬが、昼間の一件があった後に、六郎次郎殿にお近づきになろうとしているというのが……何とも」
「昼間……ああ――」
信繁の脳裏に、論功行賞の場で起きた、長坂釣閑斎の一件が浮かぶ。
と、傍らでふたりのやり取りを聞いていた桔梗が、不安そうな顔で信繁の袖を引く。
「あの、主様……昼間の一件――とは、何でございますか……?」
「ん? ――あ、いや……」
彼女の顔を見た信繁は、ハッとして、安心させるようにニコリと微笑んでみせた。
「なに、別に大した事は無い。――さあ、早く寝るが良い」
「……畏まりました。それでは……お休みなさいませ」
穏やかな信繁の表情に、桔梗は安堵の表情を露わにして、微笑み返すと屋敷の奥へと去っていった。
その背中を見送ると、信繁は昌幸の方へと振り返り、小さく頷いた。
「昌幸……その件に関するお主の考えは、座敷で聞くとしよう。お主も上がれ」
◆ ◆ ◆ ◆
座敷で向かい合って座り、先ずは酒で満たした盃を干すと、信繁は昌幸に、玄関先で口にした話の続きを促した。
「……昼間の、長坂釣閑斎様の件です。あれは一見、飯富様に向けられたものですが、真の狙いは他にあったかと思われます」
「――太郎か……」
信繁の呟きに、昌幸は大きく頷く。
「飯富様は、若殿の守役でございます。それを踏まえた上で、長坂様が敢えて、此度の飯富様の失態――という程の失態でもありませぬが――を責めたのは、飯富様が後ろ盾になっており、此度の川中島勢の大将でもあった若殿の事を間接的に貶めようという意図があったのかと思われます」
「……もっとも、その意図は見え見えで、お屋形様――兄上には手も無くあしらわれてしまったがな」
「ですが、あの場にいた諸将の心に強く印象づけ、飯富様――そして若殿への心証を、多少なりとも悪からしめる事にはなり申した。……そしてその代わりに、秤の皿の如く、相対的に評価を上げるのは――」
「……四郎。諏訪四郎勝頼――」
「はい」
コクリと首肯すると、昌幸はちびりと盃を傾けて舌を湿らせ、言葉を継いだ。
「……春に四郎様が元服なさった時に、側付としてお屋形様がお付けになった者のひとりが、他ならぬ長坂釣閑斎様でござる。あのお方が、若殿を殊更に下げ、逆に四郎様を持ち上げようとなさるのは、まあ、分からぬ事でもありませぬな」
「……まさか」
昌幸の言葉に、信繁は背中に薄寒いものを感じた。突拍子もないことだが、覚えが無い訳でもないとある推測が、彼の頭を過ぎったからである。
彼の脳裏に、二十年あまり前の事件が思い返された。
そう……自分と兄・晴信との間に起こった、武田家を真っ二つに割きかねなかった、あの一件の事を――。
信繁は、微かに顔を青ざめさせながら、低い声で呟いた。
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