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第一部六章 軋轢

責任と切腹

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 長坂釣閑斎が口走った“切腹”という穏やかならぬ言葉に、論功行賞の場は大いにどよめいた。
 特に、信春と虎昌の弟である飯富昌景は、憤怒で顔面を朱に染めて釣閑斎の顔を睨みつける。
 そんな険悪な雰囲気の中、ひとり立ち上がった釣閑斎は、手にした扇子で虎昌の事を指しながら、声高に言葉を続ける。

「そもそも“赤備え衆”といえば、御当家の諸隊の中でも最強を謳われ、他国へも広く名を轟かせる精鋭でござる! 三年前の八幡原合戦においても、上杉勢を蹴散らし、その名は他国にあまねく轟き申した! されど……今回の失策によって、その勇名は地に堕ちた!」
「長坂殿……!」
「そもそも、此度の戦は、あくまでふたつの渡しを守り切れば、自ずと我が方の勝ちに終わるものだったと聞いております。上杉軍の度重なる挑発にも乗らず、只管ひたすら渡しの前で亀のようにジッとしていれば良かっただけの話じゃ。されど……」

 そこまで言うと、釣閑斎はフンと鼻を鳴らして言葉を継いだ。

「飯富殿は短気を起こされ、軽々に隊を動かし、結果として上杉の策にかかり、隊の半数を超える死傷者を出したのじゃ。――これまで積み上げてきた赤備え衆の名が、塵と砕けたのでござる。不様な負け戦を晒す事によってな!」
「長坂殿ッ! 貴殿、さすがに口が過ぎるぞ!」

 信春が、厳しい声で釣閑斎を咎める。彼の剣幕を前にした釣閑斎は僅かにたじろいだが、それでも尊大な態度は崩さず、信春の顔を睨み返した。
 大広間はしんと静まり返り、居合わせた重臣たちは、睨み合うふたりの事を固唾を呑んで見守る。
 ――と、
 信玄の前で座っていた昌景が、ユラリと立ち上がった。
 風采の上がらない顔に、いつもの無表情を貼り付けながら、ゆっくりと釣閑斎の方へと歩みを進める。
 と、その口が微かに動いた。

「……不様? ……負け戦? ――長坂殿……貴殿は、我ら赤備え衆のあの戦いを、不様とのたまうのか……?」
「……う――」

 自分の方へと近付いてくる昌景の形相に、釣閑斎の顔から血の気が失せた。昌景の小さな瞳には狼のそれのような剣呑な光が宿り、彼の背後からは、紛れもない殺気が朦々と噴き出しているのがハッキリと解った。

「――待て、三郎兵衛! お屋形様の御前である! 控えよっ」

 さすがに危険を感じ、信春がふたりの間に身体を割り込ませて昌景を止めようとする。が、昌景は無言で信春の肩を掴むと、無造作に横へと振り投げた。
 昌景の、矮躯に似合わぬ強い力に圧され、信春の身体は大きく蹈鞴たたらを踏んだ。だが、そんな信春には一瞥もせず、昌景は真っ直ぐに釣閑斎の顔を睨みつけ続けている。
 周囲の家臣達は、昌景の放つ余りの怒気に気圧され、微動だにせず、その成り行きを見つめているだけだ。
 釣閑斎は、微かに声を震わせつつ、なけなしの虚勢を掻き集めて、昌景を怒鳴りつける。

「お……飯富三郎兵衛ぇっ! 貴様、お屋形様と……御旗楯無の御前で狼藉を働こうというのかっ! 身を弁え――ッ」

 だが、彼の怒号は途中で途切れた。昌景の左手が伸び、釣閑斎の襟元を掴んだからだ。
 その尋常ならざる握力で首元を締められ、釣閑斎の顔色がみるみる青黒く染まっていく。
 ――そして昌景は、左手で釣閑斎の首を締めあげつつ、右掌を固く握って叫んだ。

「……狼藉は貴殿の方ぞ! いかな御普代衆の大身であるとはいえ、碌にその身を剣林に晒した事も無い分際で、我ら赤備えの衆が命を賭け、そして命を捨てた、あの戦いを“不様”と愚弄するとは――!」
「が…が、は――はな――!」
「ええい! 止めぬか、源四郎ッ!」
「ッ――!」

 突然、昌景の身体がクルリと一回転し、大広間の板張りの床に強かに叩きつけられた。その煽りを受けて、襟首を掴まれていた釣閑斎の身体も派手な音を立てて転がる。
 昌景を投げたのは――兄である虎昌だった。

「この……たわけがッ!」

 彼は、忿怒で顔面を朱に染めながら、床に転がる昌景を一喝すると、上座の信玄と居並ぶ家臣達へ深々と頭を下げた。

「お屋形様……そして、皆々様。我が愚弟がご無礼仕った。……この飯富兵部少輔虎昌が、此奴に代わりまして、深くお詫び致し申す」
「……良い。そもそもは、釣閑斎の言葉が発端じゃ」

 虎昌の言葉に、信玄は鷹揚に頷く。
 そして、床の上に無様に転がった釣閑斎に、静かに語りかけた。

「……のう、釣閑斎よ。お主はひとつ勘違いしておるぞ」
「……勘違い?」

 信玄の言葉に、釣閑斎は当惑の表情を浮かべた。

「そもそも、此度の戦と兵部の隠居は、全くの無関係だ」
「……は――?」
「兵部自身の心の内はどうだか解らぬがな……。儂も、何とか翻心する様に説いたのだが、兵部の隠居の決意を翻す事は出来なんだ。……とはいえ、兵部も齢六十を超えておる。隠居を願い出てもおかしくは無いしの……」

 信玄は、心惜しげな様子で苦笑いを浮かべたが、すぐにその表情を引き締めて、言葉を継いだ。

「……だが、それは別の事としても、少なくとも儂は、先の戦で発生した損耗の責任を、誰かに負わせるつもりはない。兵部にも、典厩にも、――にもな」
「……!」

 信玄の言葉に、思わず目を丸くしたのは、他ならぬ義信だった。
 信玄は、嫡男の反応にも気付かぬ体で、ただ、その怜悧な目で釣閑斎を射抜きながら、静かに――だが、圧倒的な威圧感を以て、その言葉を紡ぐ。

「それとも何か? よもやお主は、この三人の腹も切らせろと言うつもりか?」
「……い、いえ! そ、そういう意味では……」
「――なれば」

 ふと、信玄の貌が険しさを増した。
 場の空気が凍りつく。
 凍てついた大広間の中で、信玄の声だけが朗々と響いた。

「――三年前の八幡原で、数多の兵と、(山本)勘助や豊後 (諸角豊後守虎定)ら、有能な臣たちを徒に損なった、この儂こそが真っ先に腹を切るべきだな。……お主が申すのは、そういう事なのだな、長坂釣閑斎光堅よ――?」
「ひ――ッ!」

 信玄にひと睨みされた釣閑斎は、顔面を蒼白にして、両手をついて深々と頭を下げ、額を床に擦りつけた。

「め――滅相も御座いませぬ! せ……拙者は、その様なつもりで申したのでは……!」
「……もう良い。お主は去れ、釣閑斎」
「は……はは――ッ!」

 信玄の静かな怒気に中てられた釣閑斎は、わなわなと打ち震えながら、そそくさと大広間を出て行った。
 その様子を、詰めかけた諸将は、身じろぎもせずに見送る。その間、口を開く者は誰もいなかった。
 が、

「……今一度、皆にも言うておく」

 信玄が厳かに言葉を紡ぎ出すと、一瞬にして場の空気は張り詰めた絹の糸の如く緊張した。
 そんな中、信玄の嗄れた声がその場の皆の耳朶を打つ。

「儂は、此度の戦の責任を誰にも求める気はない。戦は時の運。寧ろ、策に嵌り、あの越後勢を相手取りながら、壊滅せずに長らえた……それだけで称賛に値すると、儂は思っておる。今後、赤備え衆や飯富の事を悪し様に申す事は罷りならぬ。――良いな」
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