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第一部五章 軍神

墓と夏空

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 ――武田軍が善光寺に本陣を置いてから四日後、遂に箕輪城が落ちたとの報が上野より届く。
 信繁は、奥信濃へ乱破を放ち、葛山城などの主要な城を抑えていた別働隊も含めた上杉軍が、全て越後へと引き上げた事を確認していた。
 つまり、川中島へ赴いた武田軍は、多大な代償を支払いながらも、『箕輪錠が陥落するまで、上杉から奥信濃を守る』という大役を、見事に果たしたという事である――。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「……ここか」
「はっ、左様にござります」

 信繁は、善光寺から海津城へと引き上げる途中、義信の赦しを得て陣列から離れ、供に信豊だけを連れて、八幡原の小高い丘まで馬で駆けてきた。
 丘の上には、背の低い桜の若木が一本生えていて、青葉を風に揺らしている。
 ――そして、その幹に寄り添うように、まだ石肌の真新しい五輪塔が、ぽつんと立っていた。
 信繁は、馬から下り、桜の幹に手綱を括りつけると、鞍にかけていた瓢箪を手に取り、五輪塔の前に立つ。
 そして、フッと表情を和らげた。

「久しいな、幸実。参るのが遅れて、すまなんだ」

 彼は、五輪塔に向けて静かに語りかけると、その石肌を優しく撫でた。

「……随分と小さくなってしまったな」

 そう呟くと、信繁は瓢箪の栓を抜く。
 キュポンという音と共に、彼らの周りに芳醇な酒の芳香かおりが漂った。

「――ははは、そう怒ってくれるな。土産も持ってきた。お前が好きだった……甲斐の酒だ」

 信繁は、親しげに五輪塔に語りかけながら寂しげに笑うと、五輪塔の上に瓢箪を掲げ、ゆっくりと傾ける。瓢箪の口から零れた酒が、五輪塔を伝い落ち、乾いたその表面を潤していく。
 五輪塔を一通り湿らせると、信繁は瓢箪に栓をして腰帯に吊った。そして、顔を上げると、ゆっくりと辺りを見回しながら呟く。

「うむ。なかなか見晴らしの良い場所だな。向こうには、海津の城も見える……」

 彼は、満足そうに頷く。そして、傍らの桜の幹を愛おしげに撫でながら、静かに言葉を継いだ。

「――そういえば、お前は山桜が好きであったのう。良かったな……好きな桜を愛でられる、良き場所に葬られて……」

 信繁は頻りに呟きながら、右手の甲で、左目を拭った。そして、再び五輪塔に目を落とし、深々と頭を下げる。

「儂は……二度もお前に命を救われた。三年前と……そして、十日前にな」

 ――『典厩様ッ!』

 ――赤備え衆を率い、敵陣を突っ切って広瀬の渡しへ急いでいたあの時、突然の上杉輝虎の襲来を報せた幸実の声。
 ……断言できる。あれは決して、幻聴などでは無かった。

「死して魂のみの存在になってもなお、儂を守ってくれて……ありがとう、幸実」

 そう言うと信繁は、墓前で静かに手を合わせる。

「だが、儂はもう大丈夫だ。だから――ゆっくりと眠ってくれ。……そして」

 そこで言葉を切ると、彼はゆっくりと立ち上がった。腰に吊った瓢箪を再び手に取り、自分の口元に運ぶと一気に呷る。
 そして、残りの酒を全て五輪塔に注ぎかける。最後の一滴が五輪塔を濡らすと、信繁は晴れ晴れとした笑顔を見せ、五輪塔に姿を変えた幸実に向けて、優しく語りかけた。

「儂がそちらに行った時には、また一緒に美味い酒を酌み交わそうぞ。――それまで、さらばだ……幸実よ!」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「もう……宜しいのですか? 父上」

 墓参を終え、丘を下りてきた信繁に、麓で彼を待っていた信豊が、おずおずと訊いた。
 信繁は、息子に穏やかに微笑みかけると、小さく頷く。

「ああ……、待たせて済まぬな、六郎次郎よ」
「いえ、拙者は構いませぬ……。もう少し、ごゆるりとされても――」
「……墓に話しかけたところで、何も答えてはくれぬからな。積もる話は、儂があの世むこうに逝ってから、たっぷりしてやるさ」
「左様でござりまするか。……そうですね。それが宜しいかと」

 いつもと変わらぬ信繁の様子に、信豊も安堵の表情を浮かべて微笑んだ。

「さて――若殿達は、どこまで進んだかの? 急いで追いかけるぞ、六郎次郎」

 信繁は、信豊にそう言うと、馬の横腹を蹴った。信豊も、「ハッ!」と応えて、父と馬首を並べて馬を駆る。
 ――と、

「……そういえば、父上――」
「ん? 何じゃ、六郎次郎?」

 急に声をかけられ、訝しげな顔を向ける父に、信豊は心に浮かんだ素朴な疑問を口にする。

「あの……、大した事では無いのですが」

 そう言って、彼は自分の右目を指さして言葉を継いだ。
 
「……突然、眼帯をお付けになって、どうなさったのか――と。今まで、いくら拙者や母上がお勧めしても、頑としてお付けにならなかったのに……と思いまして」
「……」

 信豊の問いかけに、信繁は言葉を詰まらせた。
 そして、無意識のうちに右目に手を添えながら、彼はの事を思い返す。


 ――『……うん……、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?』


 至近の近さで囁かれた、上杉輝虎の艶やかな声。そして、頬に感じた、彼の手の柔らかさと温もりを……。


「……父上? どうなさいましたか、父上?」
「ん……? あ……ああ――、何でも……ない」

 信豊の呼びかけに、ハッと我に返った信繁は、仄かに頬を染めながら応えた。
 そして、盲いた右目を覆う眼帯にそっと触れる。
 それから彼は、どこまでも高く晴れ渡った夏の空に浮かぶ入道雲を見上げながら、

「これは――人の心は、移りゆく雲の如し……と、いう奴だな」

 と、素知らぬ顔で誤魔化すのだった――。
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