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第一部五章 軍神

首級と夜空

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 広瀬の渡しにて、武田軍と上杉軍が激しく衝突した日の夜――。

 海津城の南西に位置するもうひとつの渡し――雨宮の渡しで、武田信繁が率いる武田軍は、野営の陣を張っていた。
 そこかしこに張られた陣幕の中で、ある者は、携帯食であるほしいいを頬張り、ある者は、仲間と酒を酌み交わし――ある者は、木の根を枕にして高鼾をかいている。

 ――その中央に位置する、ひときわ大きな帷幕が、本陣。
 パチパチと音を立てて爆ぜる篝火の放つ赤い光が、広い帷幕の中を仄かに照らし出していた。

「……これが」

 目の前に据え置かれた一人の男の首級を前に、床几に腰かけた信繁は、思わず声を詰まらせる。

「はっ……、如何にも」

 彼の前に跪き、首桶の蓋をそっと脇に置きながら、真田幸綱は静かに言った。

「本日、六郎次郎殿が討ち取りなさった――村上左近衛少将義清が首級みしるしに御座る」

 彼には珍しく、その顔には微笑の欠片も浮かんでいない。

「……」

 信繁は、息を呑んだまま、目の前の義清の首を凝視し続けていた。首級は、薄い死化粧を施され、口を一文字に結び、安らかに目を閉じている。
 と、

「……こうして面と向かうのは、久方ぶりで御座るな、村上殿」

 と、信繁は、目の前の物言わぬ首に、静かに語りかける。

「……三年前、一歩間違えれば、立場が逆だったやもしれぬ。これも、時の運というものか……」

 そう言いながら、彼は義清の首に向かって、静かに手を合わせた。

「――ご立派な最期であったと聞いておる。……安らかに眠られよ」

 そして、目を開け、幸綱に向かって頷きかけた。幸綱も頷き返し、そっと首桶の蓋を被せる。

「……太郎――若殿の首実検は、もう済んでおるのか?」

 首桶が丁重に下げられるのを見届けると、信繁は幸綱に尋ねた。
 幸綱は膝を崩して、地面の上で胡座をかくと、大きく頷いて答えた。

「はっ、夕刻の内に海津城にて――。その際に、若殿から、典厩殿にもお見せするよう、お言葉を頂戴いたしましてな。ここまで罷り越した次第に御座りまする」
「左様か。三年前の因縁がある故、若殿に要らぬお気を遣わせてしまったようだな」

 幸綱の答えに、信繁は苦笑を浮かべる。

「――無用でしたかな?」
「いや……。有り難きお心遣い、感謝致すとお伝えしてくれ」
「畏まって御座る。首級を海津城に戻した際に、必ずやお伝え致しましょう」

 そう言うと、幸綱は大儀そうに立ち上がり、尻を叩いた。

「では、ワシはそろそろお暇致しますぞ。村上の首を海津城に返してから、急ぎ広瀬の陣まで戻らねばなりませぬ故な。サッサと出立せねば、日を跨ぎかねぬ。――夜更かしは、この年齢トシになると、些か身に堪えます、カッカッカッ!」

 そう言いながら大笑する幸綱に、信繁も微笑みを浮かべたが――つと、その表情が曇る。

「弾正……六郎次郎の事だが――」
「ああ、ご安心なされよ。六郎次郎殿は、村上との一騎討ちで、あちこちに擦り傷はこしらえましたが、命に関わるような怪我はしておりませぬ――」
「……いや、そうではなく」

 信繁は、幸綱の言葉にかぶりを振った。

「彼奴は……一軍を率いる大将の身にもかかわらず――」
「ああ、その事ならばお気になさらず」
「む――?」

 自身の言葉を、軽く手を振って遮った幸綱に、信繁は訝しげな目を向ける。
 そんな彼に対し、ポンポンと自分の頭を軽く叩きながら、幸綱は笑いかけた。

「一騎討ちなぞ、大将が行うべき事ではない。どんなに優勢に戦を進めようと、大将が討たれてしまったら、その時点で味方の負けとなる。それまでの将兵の奮戦を、無に帰しかねぬ蛮行である――と、僭越ながら、ワシから六郎次郎殿に、懇々と説教させて頂きました」
「……説教って――親父殿……」

 幸綱のしれっとした物言いに、冷や汗をかきながら口を挟んだのは、信繁の後ろに控えた、信繁の与力であり、幸綱の三男でもある武藤昌幸だった。

「広瀬の守備衆の大将で、典厩様の御嫡男で、お屋形様の甥御殿でもある六郎次郎様に説教とは……。もう少々、お立場を弁えられた方が――」
「立場ぁ? そんなモン、知るか」

 昌幸の言葉をバッサリと斬り捨てる幸綱。

「ワシャ、何にも間違った事は言うておらぬぞ。第一、総大将の気紛れに、苦労して尻を拭くハメになるのは、ワシらじゃ。無駄な迷惑をかけられん様に釘を刺すのも、ワシらの大切な務めじゃろう。違うか、源五郎!」
「ま……まあ、確かに、それも一理はございますが――」
「幸綱の申す通りだ、昌幸」

 幸綱の言い分の肩を持ったのは信繁だった。

「上の者の間違いを糺し正すのは、寧ろ、下につく者が避けてはならぬ事だ。無用なおもねりで、言わねばならぬ事を言わぬ部下や、逆に、部下の諫言を容れぬようになった主が居るようでは、その組織の先は無い。――六郎次郎に対する弾正の説教は、欠かしてはならぬものだ」

 そう言い切ると、信繁は、幸綱に頭を下げた。

「――不肖の倅が、迷惑をかけたな、弾正。儂に代わって、六郎次郎をしっかりと諭してくれた事、礼を言うぞ」
「いやいや! ワシは、配下として当然の事をしたまで。わざわざ頭を下げるには及びませぬぞ、典厩殿!」

 幸綱は、信繁の真摯な態度に、寧ろ調子を崩されたようで、彼らしくも無い慌てた様子で言った。

「ま、ワシが言いたかった事は、説教はワシがキッチリさせて頂いた故、此度の戦が終わった後には、典厩殿は、六郎次郎殿の大手柄をただただ褒めてやって下され――という事でござる」
「……相分かった。彼奴あやつに対する小言は、なるべく控えるとしよう。――何せ……他でもない、儂や幸実の仇を討ってくれたのだから――な」

 信繁は苦笑混じりでそう答えると、空を仰ぎ見た。夏の夜空には、数多の星々が、キラリキラリと輝き瞬いている。
 いつか、誰かが言っていた――『空に光る星のひとつひとつは、死んだ者たちの魂の残滓である』――という言葉が、突然信繁の脳裏に浮かんできた。

(……あの星の中に、村上義清や――幸実の魂があるのか……)

 彼は、そう思いを馳せると、静かに目を瞑った。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 同刻――善光寺。

「――村上が討たれた、か」

 宇佐美駿河守定満の報告に、上杉家当主・上杉弾正少弼輝虎は、抑揚の無い声で呟いた。

「……御意」

 定満は、表情を曇らせたまま、小さく頷き、言葉を継いだ。

「――村上殿は、渡しの真ん中で立ち往生した自隊が脱出する時間を稼ぐ為、単騎で敵陣に討ち入り、正に阿修羅の如き奮闘ぶりで、暴れ回っておられたとの事です。……最期は、敵の隊将・武田信豊と組み討ちし、首を打たれたとの由」
「……そうか――」

 輝虎は、定満の言に頷くと、手首にかけた数珠を指に掛けつつ、そっと手を合わせた。
 そして、静かに目を閉じ、経を読む。
 ……彼の前で控えている定満には、輝虎の長い睫が、微かに震えている様に見えた。
 が、それも一瞬の間だけ。

「……で、兵達の損害は如何程だ?」

 そう言って、鋭い目を定満に向けた輝虎は、いつもの厳しい彼へと戻っていた。
 輝虎の、鷹のような鋭い視線に射通された定満は、思わず背筋を伸ばして答える。

「はっ。本日の会戦で、信濃衆の内、三百ほどが死傷したとの事で……」
「多いな」
「……は」

 輝虎の一言に、定満の背中は冷や汗で震えた。
 そんな老将を前に、輝虎は大盃の酒を一気に飲み干すと、毅然とした声で言った。

「――よし。村上が率いていた信濃衆は、以後直江の指揮下に置く事とする。明日一日の猶予をやる故、編入した信濃衆を手足の如く操れるよう徹底的に仕込めと、直江に伝えよ」
「ハッ!」
「出陣は、明後日だ。直江以外の諸隊に、陣を引き払う準備をせよと触れを出せ」
「! ――では」
「うむ」

 一変して、顔を輝かせる定満に、輝虎は大きく頷き、下腹の辺りに手を添えながら、ゾッとするほど美しく凄惨な薄笑みを浮かべた。

「ようやく、この忌々しい腹の痛みも治まってきた。――明後日は、余自らが海津城へと兵を押し出す事とする。良いな!」
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