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第一部四章 会戦

老将と麒麟児

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 「な――何じゃとぉ?」

 口に含んだ酒を吐き出しながら、幸綱は思わず叫んだ。

「ろ――六郎次郎殿が、村上と一騎討ちをしておる……じゃと?」

 にわかには信じられない報せに、口から滴る酒の滴を拭うのも忘れ、泡を食って本陣の帷幕からまろび出る。
 ――確かに、武田兵でびっしりと群がって形成された円の真ん中で、満身創痍の体で立つ村上義清に相対して十文字槍を構えているのは、隊の指揮を執っているはずの信豊だった。

「このたわけ! 何故、お止めしなかった?」

 幸綱は、固唾を呑んで事の成り行きを見守っているだけだった騎馬武者を怒鳴りつけた。
 突然、背後から怒声を浴びせられた騎馬武者は、首を竦めながら、オロオロと釈明する。

「も……もちろん、固くお止めし申した! ……ですが、六郎次郎様が止める我らを強引に振り切って――」
「……ちぃっ!」

 幸綱は、騎馬武者の言葉に舌打ちをし、円の中央で対峙するふたりの男へと視線を戻す。

「……村上の戦いぶりを見て気が逸ったか……。まだまだお若い――」

 そう呟くと、幸綱は苛立たしげに坊主頭をぼりぼりと掻きむしりながら、大きく溜息を吐く。
 そして、周囲に立つ兵達を呼び寄せると、声を顰めて命じた。

「――よいか。この後、六郎次郎殿が危うくなったら、すかさず間に入って、何が何でもお助けしろ。万々が一にも、六郎次郎殿を村上めに討ち取られる事は防ぐんじゃ!」
「――ハッ」

 幸綱の命に、顔に微かな動揺を浮かべつつ、小さく頷く将兵たちだったが、ひとりの武者が、恐る恐る言葉を返す。

「――で、ですが……あれは六郎次郎様と村上義清との一騎討ちで――」
「たわけ!」

 幸綱は、強い口調で、武者の言葉を遮った。

「一騎討ちが何じゃ! ここは喧嘩の場ではない。戦場じゃ! 自軍の大将を討ち取られでもしたら、どんなに大勢の敵兵を斃そうとも、戦は我らの完敗に終わる! ……良いか? 今ここで、我らが追求すべきなのは、一にも二にも武田方の勝利ぞ! つまらん武士もののふの面子などでは、断じて無いわい!」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「……武田六郎次郎――ほほう、ではお主が……」

 信豊の名乗りを受け、義清は目を丸くした。

「あの、武田左馬助信繁のせがれ殿か……」
「……如何にも」

 義清の呟きに、律儀に頷く信豊。義清は、思わずこみ上げる笑いを抑えきれなくなった。

「これは良い! 三年前、首を獲り損った男の息子が、今ここでワシの首を獲りに参ったか! かっはっはっ!」

 義清はひとしきり笑うと、手にした太刀を握り直しながら、改まった態度で信豊に言った。

「……大将御自らのわざわざのお出まし、この義清、深く感謝致す。だが、やすやすとこの首を渡す気はないぞ。覚悟の上で参られよ」
「……」

 信豊は、緊張で強張った表情ながらも、覇気に満ちた瞳で、義清を無言で睨みつける。
 その堂々とした佇まいは、麒麟児の如し。

「……その意気や良し」

 と、義清は、微かに口元を綻ばせながら呟くと、太刀を右に傾げ、やや半身になりながら、柄を握る両手を胸元に寄せる。

「――来ォいッ!」

 義清の叫びが端緒となった。

「オオオッ!」

 信豊は気合と共に大きく踏み込むと、十文字槍を義清目がけて突き出す。義清は、繰り出された十文字槍の穂先を、胸の前に立てた太刀で切り払う。
 甲高い金属音を立てながら、太刀と槍の刃が幾度も交錯する。

「ハアアアッ!」
「フンッ!」

 ふたりの裂帛の気合が、河川敷に響き渡る。周囲を取り巻く武田兵は、ふたりの激突をしわぶきひとつ立てずに、じっと見守っているだけだった。
 義清は、間断なく繰り出される信豊の槍を、太刀で捌き続けていたが、槍と刀の間合いの違いは如何ともし難く、自分から攻め込む事が出来ない。
 一方の信豊も、渾身の一撃が悉く義清によって弾かれ、彼の身体を槍の穂先で刺し貫く事は出来なかった。
 そのまま打ち合わせ続ける事十数合――、
 遂に膠着が破られる。

「ハアアアアアッ!」
「――ッ!」

 信豊の繰り出した槍を弾こうとした義清の太刀が、信豊の十文字槍の副刃そえばに絡んだ。
 すかさず、信豊は槍の柄を掌中で捻る。

ッ――!」

 副刃に絡め取られた太刀が、鈍い音と共に、鎬の辺りでへし折られた。義清は、太刀を失い、空手となる。
 それを見るや、信豊は素早く槍を手元に引き、

「ウオオオオオッ!」

 その隙を逃がさんと、一層の力と殺気を籠め、十文字槍を義清の胸目がけて突き出した。

「ッ! ――舐めるなァッ!」

 義清は、目をカッと見開くと、身体を半身にして、迫り来る槍の穂先を躱した。そして、手を伸ばして、槍の柄をむんずと掴む。

「ハアアアッ!」
「う――うおぉっ!」

 渾身の力で槍を思い切り前に引っ張られ、信豊は思わず蹌踉よろける。
 義清はその隙を逃さず、体勢を崩した信豊に向かって飛びかかった。

「――ッ!」
「ぬんッ……!」

 信豊は、義清によって地面に転がされる。ふたりは組み合ったまま、ゴロゴロと砂利だらけの河原を転がり回る。
 ――やがて、ふたりの身体が止まった。
 下に組み伏せられた者は、首を落とされる。どちらが上か――この場に居合わせた者は、目を皿のようにして、ふたりの一騎討ちの結末を見届けようと身を乗り出した。

「……ふふ、天晴れだ、武田信豊よ」

 ――組み伏せられたのは、村上義清。
 だが、彼は満足げに微笑わらっていた。
 一方の信豊は、彼に馬乗りになったまま、肩を上下させて激しく息を吐いていたが、その顔には勝利に伴う高揚も歓喜も浮かんでいなかった。ただただ茫然とした様子で、笑い続ける義清の顔を見下ろしていた。
 そんな彼の様子に気付き、微かに首を傾げる義清。

「……どうした? お主はワシに勝ったのだ。……疾く首を取られよ」
「……勝っては、おりませぬ」

 信豊は、表情を曇らせると、小さく頭を振った。

「村上殿は、それがしと戦う前に、既に満身創痍であったし、手槍も失い、太刀のみ。そんな貴殿に、万全の某が挑んで、組み敷いたところで――これで勝ったとは……」
「……何を言うかと思えば、青臭い事を」

 信豊の言葉を聞くと、義清は心底可笑しそうな表情を浮かべた。

「よいか、武田六郎次郎殿」
「……」
「これは、武芸者の立ち会いや仕合ではない。戦場での一騎討ちじゃ。一騎討ちでの勝敗は、斃したか斃されたか――それだけじゃ。その結果のみが全て。――そこに至るまでの経緯いきさつなど、関係は無い」

 義清は、そう言ってふうと息を吐くと、信豊の目を見つめながら、静かに言葉を続けた。

「――お主の指揮する武田衆が、ワシの隊を罠に嵌め、ここまで消耗させたのじゃ。それも全部ひっくるめた上での、お主の勝利。何を疑問に思い、ましてや恥じ入る事がある?」
「……」
「――胸を張れ、武田六郎次郎信豊。それが、お主に討たれるワシへの、何よりのはなむけじゃ」
「……はい」
「それで良い」

 義清は、満足そうに頷くと、顎を上げた。

「――では、お頼み申す」
「……畏まり申した」

 義清の催促に、信豊は小さく頷くと、腰に差した小刀の鯉口を切った。スラリと抜き放つと、白銀に光る刃を、義清の喉元に当てる。
 それを見ると、義清は覚悟を決めて目を瞑り、囁くように言った。

「――六郎次郎殿。最期の一騎討ち、実に愉しかったぞ。礼を申す」
「……はっ。某も、楽しゅう御座った……」
「――さらばじゃ」
「……はっ」

 次の瞬間、義清は己の喉が灼けるのを感じた――。



 武田の兵が静まり返る中、スックと立ち上がった信豊は、右手を大きく振り上げ、対岸の上杉軍まで届けと叫んだ。

「武田六郎次郎信豊! 上杉方の隊将、村上左近衛少将義清を討ち取ったり!」

 一瞬の静寂の後、武田兵達が上げた歓声は、千曲川の川面を大きく波立たせ、川中島の地に万雷の如く轟くのであった――。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 かつては、北信濃を統べ、“甲斐の虎”と怖れられた甲斐国主・武田晴信を、上田原と砥石城で二度にわたって敗走せしめ、その後、越後へと逐われてからも、上杉の将として大いに威名を轟かせた、村上左近衛少将義清。

 ――永禄七年六月、広瀬の渡しにて散る。享年六十五。
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