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第一部二章 再動

疑惑と確信

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 虎昌は、心なしか声を潜めて、ポツポツと語り出した。

「実は……先頃、みね様の元に、駿府から書状が参りました」

 ――嶺とは、義信の妻にして、駿河の大大名・故今川義元の娘。つまり、現在の駿河国主・今川氏真の妹である。
 武田と今川は、武田信虎の時代から強固な同盟関係を築いていた。
 信玄と信繁の姉が、今川義元に嫁いで氏真と嶺を産み、今度は嶺が義信の元に嫁ぐという、二重の血縁を以て、両家の同盟関係をより強固なものとした。
 更に、それに加えて、今川家と元々血縁関係のあった小田原北条氏康の娘が今川氏真へ、武田信玄の娘が氏康の嫡男氏政の元へとそれぞれ嫁ぐ事で、武田・北条・今川の三家は、固い三国同盟を成立させた。
 この甲相駿三国同盟の締結により、武田氏は信濃へ、北条氏は関東へ、そして今川氏は三河尾張へと、それぞれ後顧の憂い無く侵攻する事が可能となり、各々の勢力伸長の大きな要因となったのだ。
 ――だから、
 
「嶺殿の元に、駿府から書状が届いた……その事が何か――?」

 言うなれば――実家が、他家へ嫁いだ娘に便りを寄越しただけの事であろう。特におかしな事は無い。
 重々しい声色で紡がれた虎昌の言葉を聞いた信繁が首を捻るのも、けだし当然の事と言えた。
 だが、虎昌の憂いに満ちた顔は晴れないまま、彼は言葉を続ける。

「問題は、その内容でござる」

 彼はそう言うと、懐から一通の書状を取り出した。

「――無理を言って、嶺様よりお預かりしました。これが、その書状で御座います」
「……ほう」

 信繁は、片眉を上げて、虎昌が差し出した書状を受け取ると、『みねへ』と、流麗な仮名文字で宛名が書かれた封紙を外し、中の書状を取り出した。
 信繁は、燭台の近くに身を寄せ、広げた書状に目を通す。
 ――と、仄かな灯りに照らされた彼の顔が険しくなった。

「……これは、まことの事か?」
「……典厩様、一体何が――?」

 彼の表情に不穏なものを感じた昌幸が声を上げると、信繁は手招きする。そして、無言のまま、手にした書状を昌幸に向けて手渡した。

「……?」

 昌幸は首を傾げながら書状を受け取り、先程の信繁と同じ様に、灯りの傍で書状を読む。

「……これは――!」

 書状を一読した昌幸も、目を丸くした。

「……お屋形様が、密かに駿州往還の拡張を進めている――という事ですか?」

 “駿州往還 (別名『甲州往還』)”とは、甲斐の河内地方から駿河国にかけて敷かれた街道の名称である。
 甲斐から駿河へ向かう主たる道筋の一つだが、急峻な富士川に沿って敷かれた道の為、ところどころで道幅が狭くなっていたり、険しい崖沿いを通ったりと、決して便の良い道とは言えなかった。
 そんな街道を、武田家親族衆のひとつにして河内地方の領主である穴山信君が、今川方へ申し伝えもせずに拡幅し始めた事実を掴んだ今川氏真が、自分の妹であり、武田家嫡男の夫人でもある嶺に対し、秘密裏に事の真相と武田方の真意を確認しようとしたのが――この書状の主意であった。

「――この書状を受け取り、読まれた嶺様は大層驚き、すぐに若殿へ問い質されました。嶺様から、その内容を聞いた若殿も、正に寝耳に水の内容に、言葉を失ったそうです」
「……そうだろうな」

 飯富の話に、信繁も、顔を微かに青ざめさせながら小さく頷いた。

「ただの街道の整備であれば、分からぬでも無いが……今川方には一切の通告も無しに、拡幅を始めたというのは、先方に要らぬ誤解を与えるのも無理はない……」
「……果たして、『要らぬ誤解』でしょうか……?」
「――ん?」

 信繁は、ぼそりと呟いた昌幸の方に顔を向ける。

「昌幸、それはどういう意味だ――?」
「どういうも何も、そのままの意味で御座います」

 と、彼は眉一つ動かさず、あっさりと言ってのけた。

「……」
「お屋形様は、戦を行う上で、まず『道』を整えられます」

 昌幸は、難しい顔で黙り込む信繁を前に、淡々と言葉を継ぐ。

「信濃攻めの時も然り。お屋形様は、多くの手勢を素早く移動させる為の“棒道”を幾筋も作り、その上で軍を動かしました。正に、四如の旗の一節――『疾き事、風の如く』の言葉に従うように……」
「……疾き事、風の……如く――か」
「はい。――その事を踏まえれば、お屋形様が駿河を攻め落として、我が物としようと考えている……という、今川方の“疑念”も、あながち外れてはおらぬのかもしれませぬ」
「む……だが、しかし……」

 昌幸の言葉には、頭から否定するには躊躇われる、妙な説得力があった。が、信繁は力無く頭を振った。

「……今川氏真殿は、お屋形様の娘婿であるし、亡き義元公は、お屋形様――それに儂の義兄だ。そのように、二代にわたって強い契りを結んだ今川殿に攻めかかるというのは――」
「――
「……!」

 半ば、己に言い聞かせるかのように呟いた信繁の心に冷や水を浴びせかけたのは、それまでずっと黙っていた飯富虎昌の一言だった。
 虎昌は伏せていた顔を上げると、目をぎらつかせながら捲し立てる。

「――典厩様が、血を分けた兄上であるお屋形様の良心を信じたい……。そのお気持ちは、この虎昌、痛い程分かり申す。……しかし、信虎公を逐い、武田の家督を継いだお屋形様が先ず手をつけたのはでしたか?」
「それは……」
「――そう、諏訪じゃ! 姉君――禰々様が、当主・諏訪頼重殿の元に嫁がれていた――諏訪でござる!」
「むう……」
「お屋形様は、義理の兄である諏訪殿に攻めかかり、降伏せしめました。その後頼重殿は、お屋形様の命により、東光寺にて腹を切らされ、その仕打ちに強い衝撃を受けた禰々様は、憔悴し切った末、若くしてお隠れに……!」
「……」

 その時の事を思い出したのであろう。虎昌は、その老いた目を潤ませる。

「……無論、今は、血で血を洗う乱世のただ中でございます。子が親を逐い、親が子を手にかけ、兄弟で殺し合う――そんな、人倫の道に反した行いが、いたる地で行われている事は拙者も――否、長年当家に仕えて参った拙者良く存じております!」
「……」
「拙者――そして若殿は――」

 そう言うと、虎昌は身体を戦慄わななかせ、掠れた声で続けた。

「……お屋形様が諏訪殿に対して為された事を、今川殿に対しても行おうとしている――そう、確信しておられるのです!」
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