上 下
1 / 216
第一部一章 生還

朝霧と血霧

しおりを挟む
 朝霧に煙る八幡原の地に、時ならぬ喧騒が響き渡る。

 血気に逸る男たちの上げる夥しい怒号、騎馬が疾走する蹄の音、吹き鳴らされる法螺貝と打ち鳴らされる陣太鼓、飛び交う矢の風切り音、打ち交わされる剣戟の甲高い金属音――。
 そんな中、風に乗って鼻腔に届く、吐き気を催す様な血潮と臓物の生臭い香り――。

(……まずいな)

 そんな凄惨を極める戦場のただ中で、黒鹿毛の馬に跨がる黒い甲冑を纏った男は、群がり来る敵に向けて手槍を振るいながら、心中で密かに舌を打った。
 ――旗色は良くない。
 未明の遭遇から、ずっと味方は圧され続けている。

(……ええい! 馬場たちは、まだ戻らぬのか!)

 彼は、二手に分かれ、敵を追い落とす役割を担っていたはずの別働隊が、未だ影も形も見せていない事に苛立ち、歯噛みした。
 彼は、大将首じぶんを狙って殺到してくる敵に向けて、手槍を横一文字に薙ぎ払うと、面頬を付けた顔を振り仰ぎ、遙か彼方に聳えるはずの妻女山を見据えんとした。
 ――が、霧の残滓に紛れ、山の影も朧にしか見えない。
 ――と、

典厩てんきゅう様!」
「――!」

 大声で呼ばれ、ハッとした彼の顔スレスレに、銀色の閃きが過ぎった。

「むんッ――!」

 彼は大きく身体を捻るや、反射的に手槍を繰り出す。

「がぁっ――!」

 彼に向けて槍を突き出してきた足軽が、胸に鋭い一撃を受け、血潮を撒き散らしながら斃れた。

「――大事御座りませぬかっ、典厩様?」
「……ああ、大丈夫だ! 幸実ゆきざね、――助かったぞ!」

 と、典厩と呼ばれた男――武田典厩信繁たけだてんきゅうのぶしげは、騎馬を寄せてきた鎧武者に答える。
 幸実と呼ばれた鎧武者は、乱戦の極みにある周囲の様子を警戒しながら、信繁に叫びかけた。

「典厩様! ここは貴方様だけでも、お退き下され!」
「……退く――だと?」

 幸実の言葉に、信繁は思わず面頬の奥の目を吊り上げる。

「たわけた事を申すな! 儂は、武田の副将ぞ! お屋形様より、この前衛の指揮を任されておるのだ。そんな儂に、指揮を放り出して、尻を捲って逃げよと申すのか、貴様!」
「しかしながら! 敵の勢いは熾烈で御座います!」

 幸実は、主の怒号にも怯まず、必死の形相で叫び返す。
 そして、沈痛な表情を浮かべて言葉を続けた。

「――先程、伝令が参りました。……勘助殿が、討ち死なされた由に御座います!」
「――勘助が……?」

 幸実が告げた言葉に、信繁は思わず目を見開いた。
 彼の脳裏に、勘助――武田軍の軍師・山本勘助晴幸の、傷に塗れた隻眼の異相が浮かぶ。
 幸実は、小さく頷いた。

「――勘助殿だけでは御座いませぬ。諸角殿や、初鹿野殿も……」
「……では、尚更、儂が退く訳にはいかぬだろう。勘助も豊後も、源五郎さえも死んだ上に、儂までが抜けてしまったら、本陣が丸裸じゃ」
「……丸裸にはなりませぬ。典厩様の後は、某が指揮を執りまする故――」
「――そんな事、出来るはずが無かろう!」

 信繁は、幸実の申し出を一蹴した。不機嫌そうに首を回すと、

「ええい! 息苦しくてかなわぬ!」

 と叫ぶや、面頬を毟るように乱暴に外し、地面に投げ捨てた。

「儂は退かぬぞ! 馬場たちが戻るまで、何が何でも、この場で持ち堪え――」
「ウオオオオオオオオオオオオッ!」

 信繁の言葉は中途で遮られた。上杉軍の第二陣が、獣の様な咆哮を上げながら、信繁隊に襲いかかってきたのだ。
 未明より上杉の先手と激闘を繰り広げ続け、すっかり疲労困憊の体の信繁隊だったが、それでも気力を振り絞って、土煙を上げながら攻めかかってくる敵を迎え撃たんとする。
 しかし、第一陣の後ろで、ずっと待機していた上杉方の第二陣の気力は横溢だった。彼らに抗うには、信繁隊はあまりにも気力と戦力を削られすぎていた。
 密集して槍衾やりぶすまを張った足軽たちだが、騎馬の突撃によって、ただの一合で無情にも蹴散らされ、踏みつぶされる。
 文字通りの鎧袖一触――。
 足軽たちを存分に蹂躙した上杉方の騎馬武者たちは、次々と信繁隊の中枢に牙を突き立て始めた。
 信繁隊の武者たちも必死に抗う。――が、彼我の勢いの差はいかんともし難かった。
 互いの連携を絶たれた彼らは、複数の上杉兵に取り囲まれ、奮闘虚しく次々と斃されていく。ある者は身体を無数の刃で貫かれて倒れ臥し、ある者は組み伏せられ、兜を掴まれて露わにされた喉を小刀で掻き切られた。
 すぐに、信繁と幸実も、敵の奔流に呑み込まれる。

「典厩様! 早く、お退き下されッ! 某が、敵を食い止めます故――」
「……もう、遅かろう!」

 馬から下り、卓越した槍捌きで、群がり来る徒歩かち武者共を薙ぎ払う幸実の絶叫に、馬上から手槍を振るいながら皮肉気に薄笑みを浮かべた信繁。
 巧みに馬を操り、何本も繰り出される槍の穂先を躱しながら、手槍を突き出し、次々と返り討ちにしていく。

「幸実! お主こそ退け! ……いや。本陣に行き、お屋形様――兄上へ儂の言葉を伝えてくれ」
「典厩様ッ? ……それは――」

 ハッとした顔で、思わず槍を繰り出す手を止めた幸実の目を見据えて、信繁は言葉を継いだ。

「よいか、良く聞け! 儂は――」
「ッ――! 典厩様!」
「――ッ!」

 幸実の絶叫が信繁の耳に届いた刹那――。彼の右目が、銀色の光を捉える。
 次の瞬間、信繁の右目の視界が真っ赤に染まり、そして真っ黒な闇に包まれた。
 ――そして襲いかかる、まるで右目が灼けているような激しい痛み。

「ぐ――ッ!」

 信繁は雷に打たれた様に、馬上で身を仰け反らすと、顔を歪め、左手で右目を押さえた。ぬるりと、粘度の高い液体の感触に、信繁は驚く。
 顔から離した左掌には、紅い鮮血がベットリと付いていた。

「く……!」

 思わずたじろいだ信繁だったが、その数瞬の隙を、群がる上杉軍の雑兵たちは逃さなかった。
 信繁は、闇に包まれ、死角となった右半身にいくつもの衝撃を感じ、その衝撃に圧されて騎馬から転げ落ちた。受け身を取れずに、草の生い茂る地面に落ちた信繁は、全身を打った衝撃と痛みに顔を顰める。

「……ぐ……う――」

 彼は呻きながらも、すぐに立ち上がろうとするが、右半身が思うように動かない。その代わりに、落下の衝撃によるものとはまた異なる、寒気の走る激痛に、彼の神経は悲鳴を上げる。
 信繁は、ゆっくりと顔を廻らせて、自身の右腹を見る。右の目が使えない為、余計に首を回さねばならない。その事を信繁は疎ましく感じた。
 そして、彼は見た。――三本の長槍の穂先が、彼の具足を深々と刺し貫いているのを。

「む……――」

 信繁は、そう一言呻くと、呆然と座り込んだ。身体が一気に冷えていくのを感じる。

「――大将首じゃ! 討ち取って手柄にせよ!」

 上杉方の武将が、馬上から雑兵たちに叱咤する声が、微かに聴こえた。――武将の声だけでは無い。刀槍を振りかざしながら、彼へと殺到してくる足軽や徒歩武者が上げる雄叫びすら、ひどく遠く聴こえる。
 信繁は、急激に薄くなる意識の中、程なく訪れるであろう己の最期を悟り、ぎりっと奥歯を噛みしめた。

「……無念」
「――典厩様ァッ!」

 最後の瞬間、ひどくはっきりとした幸実の声が、信繁の鼓膜を震わせたが、その呼びかけに応える前に、彼の意識の糸は
 ――途絶えた。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

戦国三法師伝

kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。 異世界転生物を見る気分で読んでみてください。 本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。 信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

蒼雷の艦隊

和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。 よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。 一九四二年、三月二日。 スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。 雷艦長、その名は「工藤俊作」。 身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。 これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。 これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。

日は沈まず

ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。 また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

鬼嫁物語

楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。 自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、 フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして 未来はあるのか?

処理中です...