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CASE3 甘い言葉にはご用心

CASE3-16 「……ここまで――なの、かしら……?」

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 マイスが、従業員達の不安に満ちた顔に見送られて、ショットマイール侯爵の屋敷へ向かってから、時間は過ぎ――。
 『ダイサリィ・アームズ&アーマー』の店舗の前に一台の辻馬車が停まったのは、もう日が変わった真夜中過ぎだった。
 客車の扉が開き、ひとりの影が静かに降りてきた。
 客が降りたのを確認した辻馬車の御者は、馬に鞭を入れ、蹄と車輪の音を鳴らしながら走り去る。
 暫しの間、道端で立ち尽くしていた人影は、やがてゆっくりと、俯き加減で店に向かって歩き出す。

「……お帰りなさい。マイスさん――」

 不意にかけられた声に、人影はハッとして顔を上げた。

「イクサくん……」

 虚ろだったマイスの目に一瞬だけ感情の影が差したが、きゅっと奥歯を噛み締めると、その顔にいつもの優しい微笑みを浮かべる。

「……どうしたの? まだ――店に残っていたの、イクサくん……」
「すみません……他の皆には、もう帰ってもらいましたが……俺は、マイスさんが心配で……」
「……残業代は出ないわよ」

 力無い声で、それでも軽口を叩いておどけてみせるマイスを、心配そうな目で見つめるイクサ。
 普段から彼女の側で働いて、色んな表情を知っているイクサだったが――こんなに憔悴して儚げな様子の彼女を見るのは初めてだった。
 と、彼は身にむ外気の冷たさを感じて、身を震わせた。慌てて店の扉を開け、マイスを促す。

「……取り敢えず、身体が冷えない内に、部屋の中へ入りましょう、マイスさん……」
「……うん……」

 マイスは、イクサの言葉に小さく頷いた。



 イクサは、取締役室の暖炉の火を熾して部屋を暖め、同時にヤカンをかけてお湯を沸かした。沸騰したお湯をポットに注いで、マイスの好きな紅茶を淹れる。

「――マイスさん、どうぞ。……シーリカちゃんが淹れたお茶ほど美味しくはないかもしれませんが……」

 と、デスクに頬杖をついてぼんやりしているマイスの前に、紅茶をなみなみと注いだティーカップを置く。

「……ありがと、イクサくん……」

 マイスは、目線を上げて、彼にうっすらと微笑むと、ティーカップを手に取り、一口啜る。

「あちち……」

 フーフーと息を吹きかけ、冷ましながら紅茶を喉に流し込むマイス。真っ白だった彼女の肌に、ほんのりと紅みが差す――。
 と、イクサは、彼女の左頬の異変に気が付いた。

「ま、マイスさん――! それは……?」
「え……あ、これね……」

 彼女は、仄かに赤く腫れる左頬を左掌で押さえると、苦笑いを浮かべながら答える。

「大した事じゃ無いのよ。……侯爵家むこうで、侯爵様のお母様に一発……ね」
「た――大した事じゃないですかッ! ……いくら何でも、頬を張るなんて……!」
「……逆よ。よくビンタ一発で済んだなぁ……って」

 マイスは、そう言いながら、ソロソロと頬を撫でた。

「正直、紛失の不手際を責められて、その場で拘束されるくらいは覚悟したんだけど……」
「……こ、拘束……」

 イクサは思わず絶句したが、心の何処かでは、それも充分にあり得ることだったと理解していた。――何せ、"ガルムの爪"は、価値的にも歴史的にも貴重な聖遺物なのだ。そんな貴重なお宝をむざむざと失くした責は、果てしなく重い……。
 ――が、マイスが今、この場に居る、という事は……。

「……ひょ、ひょっとして、ショットマイール侯は、今回の事を赦して――」
「そんな訳、ないでしょ」

 イクサの、期待に満ちた憶測は、マイスによって即座に否定された。
 彼女は、表情を曇らせると、紅茶を一啜りし、大きく溜息を吐いてから言葉を継いだ。

「……取り敢えず、十日間の猶予を頂いたわ。十日以内に、無事に"ガルムの爪"を納品すれば、今回の紛失の件は不問に付して頂ける……って」
「……十日間……」

 猶予としては多いと言うべきか、この状況ではとても足りないと言うべきか……どちらとも判断がつかず、イクサは唸る。

「……侯爵家としても、王家に対する面目もあるから、“ガルムの爪”が無くなった事は大っぴらにしたくない事情もあるのよね。――だから、希望を込めて、十日間の時間を我々に与えてくれた……。何はともあれ、ウチとしては、首の皮一枚繋がった感じね」
「……で、でも、もし十日間を過ぎても“ガルムの爪”が見付からなかったら……?」
「……」

 イクサの問いにマイスは答えず、力無く微笑むだけだったが――その表情が、彼の問いに対する答えを、これ以上無くハッキリと示していた。
 イクサは肩を落とすと、応接用のソファにどっかりと腰を落とした。そのまま俯き、青灰色の髪の毛を掻き乱しながら、良い方策が浮かばないか、脳内をフル回転させる。
 ――と、

「…………え?」

 不意に、彼は、自分の右側に暖かくて柔らかい何かの気配を感じ、顔を上げた。そして、温もりの方に顔を向けたイクサは――目を真ん丸にして固まった。

「――ッ! ま……ま……マイスさんッ?」

 驚愕のあまり、声がひっくり返る。
 ――彼の右肩に、金糸のような繊細な髪に覆われた頭が乗っかっていた。
 イクサの心臓が、早鐘のように忙しなく鼓動を刻み始める。
 と、彼に凭れかかったマイスは、前を向いたまま、ポツリと言った。

「……ごめん、イクサくん。ちょっとだけ、肩を貸して……。私……少し――疲れちゃった……」
「マ……マイス……さん? あ――あの……!」

 ドギマギして、言葉をどもらせるイクサ。反射的に、マイスから身を離そうとするが――、彼女の身体が小刻みに震えている事に気付いて、ハッとした。

「マイスさん……」
「……この店はさ……元々、傭兵をしてたお父様が、傷を受けて引退してから開いた店なの……」
「……」

 唐突に始まった、マイスの昔語りに、イクサは身体を硬直させたまま、黙って聴き入る。

「最初は、今よりもずっと小さな店から始まったけど、お父様の傭兵時代の仲間……ハアトネスツさんとか……が、集まってくれて……だんだんとお店の評判を上げていって……」
「……はい」
「……でも、これからって時に、お父様が流行り病で……」

 そこで、彼女の声が微かに震えた。

「それから……私が跡を継いで、今日まで……一生懸命やってきたけど――」

 そして、溜息とも嗚咽ともつかない息を吐く。

「……ここまで――なの、かしら……?」
「そ――そんな、……そんな事、ありません!」

 気が付いたら、イクサは叫んでいた。彼も、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、湧き上がる思いのままに口を動かす。

「まだ、終わったと決まってなんかいません! 俺が――そして、皆がこの店を終わらせなんかしませんよッ! 大丈夫、上手くいきます。根拠? そんなモンありませんよ! ――でも、『己を信じる者にのみ、奇蹟は起こる』……諺でも、そう言うじゃないですか! ……いえ!」

 イクサは、目を輝かせながら、熱に浮かされたように、更に言葉を重ねる。

「……これから、何が起こっても……どんな未来が待っていようとも――俺が、守りますから! 貴女をッ!」

 ――と、ここまで叫んで、イクサは唐突に我に返った。

(……あれ? これじゃ、まるで……!)

 途端に、先程までの情熱が吹き飛び、顔面を赤くしたり青くしたりしながら、オロオロと狼狽える。

「あ、その……す、すみません! あの! 今のは……そういうイミでは……その――」

 ――第一、今自分が口走った言葉は、何の具体性も無い、気休めにもならない戯言以下の何かではないか……! だから――、

(……マイスさんも呆れて、黙ったま――ま……?)

 イクサは、ふと違和感を覚えて、自分の右肩に凭れかかるマイスの顔を、恐る恐る覗き込んでみる。

「…………寝てる」

 と、彼は、拍子抜けして呟いた。マイスは、イクサに身体を預けたまま、静かな寝息を立てていた。――その寝顔は、いつもの、部下にバリバリ指示を出す、経営者としての彼女からは想像もできないような、幼く、可愛らしい寝顔だった。
 イクサは、おっかなびっくりといった手つきで、彼女の肩を揺すって起こそうとしたが、

「……」

 ――彼女の閉じた瞼の端に、透明な雫が光っている。
 それに気づいた彼は、微かに唇を戦慄わななかせると、肩に置いた手を離して、彼女の目尻をそっと指で拭った。

「……おやすみなさい、マイスさん」

 彼は、静かにそう囁くと、優しく微笑み、そっと彼女の金色の髪を撫でる。

「…………むにゃ……」

 それに応えるかのように寝言を零したマイスの顔は、心なしか、先程までよりも安らかに見えた。
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