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初恋編

30話 王妃の誹謗1

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 ランスロットはすぐに馬車を用意させて、自分の腕の中で泣き崩れるリゼルと共に公爵邸に戻った。
 馬車の中で妹を見ると涙も枯れ果てたのか、押し黙り、惚けたようにただ移りゆく窓の外の景色を見つめているだけだった。

 くそっ、一体どうしてこんな風に運命の糸が絡まってしまったのか。
 カイルとリゼルは、愛し合っていながら結ばれることは叶わない。
 だが、側妃となってもリゼルが苦しむのは目に見えている。
 好きな男を他の女性と分け合うなんてリゼルにはできるはずがない。
 
 これでよかったんだ…
 ランスロットはかける言葉もなく、ただ妹を見つめていた。
 
 公爵邸に到着すると、朝はルーファス王子の迎えで出かけたはずなのに、思いがけずランスロットと戻り、ドレスも雨でびしょ濡れになっていたリゼルを侍女のアイラを始め使用人は、何かあったのだと一様に思っていた。
 ランスロットの重苦しい気配を察し、使用人達もその日のルーファス王子との遠出のことには触れなかった。


 そのまま数日を家で何をするでもなく、リゼルは、ぼうっとして抜け殻のように過ごしていた。

 なんだか、何をする気にもなれない。
 心が全て空洞からっぽになってしまったような気がする。
 ただ朝起きて、機械的に食事を食べ、夜になると寝る、操り人形のようになった気がした。

 父公爵と母には、兄からあの日あったことを伝えたのかもしれないが、二人ともリゼルには何も言わず、いつもと変わりなく接していた。
 ルーファス王子もあの日以降、音沙汰がなくリゼルを尋ねては来ていない。
 自国に帰ったという噂は聞かないので、まだエルミナールに滞在しているらしいとリゼルは兄から聞いた。

 新聞では、連日のようにカイル皇子とフィオナ王女の結婚に向けたニュースで沸き、宮殿では盛大な結婚式の準備に取り掛かっていることが報じられていた。

 公爵夫人は、侍女のアイラに娘の様子を聞くと、夜中は泣いているようでほとんど寝られていないようだと聞き、失恋の傷からなかなか立ち直れない娘を見かねて、リゼルの部屋に向かった。

「リゼル…話があるのだけれど」

 扉をそっと開けると、リゼルはちらりと母をただけで、空しか写っていない窓の外をうつろに眺めていた。
 目に光のないその様子をみて思わず眉をひそめる。

「リゼル…、ルーファス王子と出かけた日のことは、ランスロットから聞いたわ。カイル様があなたを側妃に欲していたことも…。でもそれでは、あなたは幸せになれないわ。一人の男性の愛を他の女性と分かち合うなど、一途なあなたには無理よ。カイル王子を諦めるのは、どんなにか辛いでしょう」

 そう言いながら、リゼルの隣に腰をかけた。

「でもね、どんなに辛く悲しいことも、きっと時が癒してくれるわ。今はとても辛いと思うけれど…」

 リゼルは、ようやく母をみるとその眼差しにはとても不安げな色が浮かんでいた。
 自分のことで、こんなに家族を心配させてしまっていることに罪悪感が湧いた。
 
 …母の言う通り、時が私のこの気持ちもいつか色褪せてくれればいいのに…
 リゼルはこれ以上母を心配させまいと、弱々しい笑顔でコクリと頷いた。

「それと、マリエンヌ王妃とフィオナ王女が、結婚式の準備のために一旦、国へ戻るらしいの。その前にマリエンヌ王妃が、レディの皆さんに滞在中の返礼のお茶会を王宮で催すことになったの。もちろん、私もあなたも公爵家のレディとして招待されているのだけれど、貴女は欠席でお返事して良いかしら…?」

「…いいえ、お母様。フィオナ様には私からきちんと祝福を伝えます。お茶会には出席します…」

 母が気遣ってくれたが、リゼルは自分の気持ちに決別するため、お茶会できちんとフィオナ王女に祝福を述べようと思った。
 何かきっかけがないと、自分も新たな一歩を踏み出すことができない。
 このお茶会でなんとか自分の心を整理できれば、この心の痛みを引き出しの奥にしまいこむことが出来れば……、そう思いながらも自分はこの先ずっとカイル様以外の人を愛せないだろうという想いに囚われていた。

 数日後の王宮のお茶会は、それは華やかなものだった。
 宮殿の広いサロンには、花が飾られたテーブルと椅子がそれぞれ快適な位置に配置されていた。
 各テーブルには、王宮のパティシエが総動員で作った色とりどりの可愛い小菓子やケーキが乗せられた三段式の銀のスタンドがあり、美しい銀器や陶器でできたティーセットが準備されている。

 公爵夫人とリゼルが到着した時には、すでに着飾ったレディ達で溢れていた。
 まだ王妃と王女はお出ましになっていないが、リゼルの母は、招待客の中で一番身分が高いため、主賓のマリエンヌ王妃とフィオナ王女のすぐそばの席に案内された。リゼル達のほか、未婚の若い令嬢達は、貴婦人方とは少し離れたテーブルに案内された。

「リゼル様、ご一緒してよろしいかしら」

 カンタベリー侯爵のバーバラ嬢が声をかけてきた。マカリスタ伯爵令嬢のイライザ様も一緒だ。
 リゼルは、二人に強引に腕を組まれ、同じテーブルに連れて行かれてしまった。

 令嬢達は、皆、フィオナ王女へしばしのお餞別として珍しいお菓子や美しい刺繍のハンカチなどのプレゼントを持ってきている。リゼルは、自分が育てた外国産の香りの良いバラの花びらで作った紅茶を用意していた。

 優美な燕尾服に身を包んだ楽団によって、ヴァイオリンやヴィオラ、チェロなどの弦楽四重奏が奏でられると、マリエンヌ王妃が姿を現し、各テーブルに挨拶をして回り始めた。そのすぐ後に、カイル皇子にエスコートされながらフィオナ王女も姿を現した。

 カイル様……!
 フィオナをエスコートするカイルを見て、思わずリゼルの心臓が跳ね上がる。
 すらりと背の高いカイル皇子は、今日は鮮やかなブルーのフロックコートを着ており、金髪が日に焼けた肌に浮かび上がり、精悍さが際立つ。
 カイル皇子と衣装を合わせたのだろうか、淡いブルーのモスリンのドレスをまとったフィオナ王女と色合いが揃っていて、二人はとてもお似合いだった。

「まぁ、あのお二人、本当に素敵ね」

「先日、王宮の庭をお二人だけで散歩されていたそうよ。その時、噂ではカイル様がフィオナ様にそっと口づけをしていたとか」

「まぁ、ほんとうに? ああ、愛し合う恋人同士って素敵ね」

 バーバラ嬢とイライザ嬢は、年頃の令嬢らしく二人できゃぁきゃぁと盛り上がっている。

 カイル皇子とフィオナ王女が貴婦人達のテーブルへの挨拶を終えると今度は、令嬢達のテーブルに足を進めた。

 もちろん令嬢の中で一番爵位の高いリゼル達のテーブルに、まず最初にフィオナをエスコートしてやってきた。
 リゼルのフィオナへのプレゼントを握る手が震える。
 二人が歩いてくるのを見ることができず、俯いたところにカイル皇子の影が落とされ、低い掠れたような声が耳に響いた。

「フィオナ…。こちらはダークフォール公爵令嬢のリゼル嬢…、そしてカンタベリー侯爵令嬢のバーバラ嬢とマカリスタ伯爵令嬢のイライザ嬢だ」

 カイルがフィオナ王女に一人一人紹介する。

 リゼルが顔を上げるとカイルの碧く澄んだ瞳にぶつかった。
 平静を保ったようなその瞳には、今までのように燃えるような熱い炎のゆらめきはどこにもない。

 「フィオナ王女様、この度は、ご婚約おめでとうございます…。臣下一同、一日も早く…皇太子妃になられる日を心待ちにしております」

 リゼルは、ところどころ声を震わせながら、カイルをなるべく見ないようにしてフィオナ王女にプレゼントの薔薇の紅茶を渡す。

「この紅茶は、私が育てた薔薇の花びらで作りましたの。よろしければぜひどうぞ」
 
 薄いブルーのシルクのリボンで可愛くラッピングされた紅茶をそっと手渡した。

「まぁ、ありがとうございます。やっとお話ができましたわ。カイル様からリゼル様のことをいつもよく伺っておりましたの。ぜひ、仲良くしてくださいね。お紅茶は、カイル様と一緒に美味しくいただきますわ」

 フィオナ王女は、頬をバラ色に染めて、プレゼントの紅茶を受け取ると、嬉しそうにカイル皇子を見上げた。カイルもフィオナに優しい笑みを落とす。

 リゼルの胸にきゅうっと痛みが走り、つま先に力が入った。
 だめ、忘れるの…、忘れるのよ……!
 泣きたくなる気落ちを抑え、唇を噛み締めながらぎゅっとドレスを握りしめた。
 
 続いて、バーバラ嬢とイライザ嬢がお祝いの挨拶を述べたが、リゼルは心の痛みに頭まで痺れてきて、まるで自分が雑踏の中にいるような感覚になった。
 バーバラ達の声が耳を通り抜け、道端に打ち捨てられた石ころみたいに、そのまま自分だけ時が止まっているような気がした。

「・・ゼル様?リゼル様?」

 その呼び声にはっとなる。
 マリエンヌ王妃が優雅にリゼルの目の前に立っていた。
 すでにカイル皇子とフィオナ王女は違うテーブルに移っている。

「こちらのテーブルに少しよろしいかしら?」

「もちろんですわ。マリエンヌ王妃様」

 バーバラ嬢がリゼルの向かいの空いている席を進める。

「皆さん、今日はフィオナのためにどうもありがとう。フィオナは若い皆さんのお支えが必要ですわ。ぜひ、よろしくお願いますね」

 ひらひらと羽飾りのついた扇を口元で仰ぎ、にこやかに微笑んだ。

「もちろんですわ、王妃様。私達、微力ながらフィオナ様がエルミナールに早く馴染めるよう、力を尽くしますわ。父のカンタベリー侯爵にもそのように言われてますの」

 バーバラ嬢が熱を込めていうと、イライザ嬢もそれに従った。

「でも…カイル様は、あのとおり、美丈夫でいらっしゃるでしょう?フィオナが不在の間、どなたか美しい令嬢がカイル様の心を射止めてしまうのではないかと心配なのよ。ねぇ、リゼル様?」

「・・・!」

 リゼルは思わずマリエンヌ王妃の目を見ると、その目は侮蔑の色が浮かんでいるようだった。
 …この方は、私のカイル様への想いを知っているに違いない。

 リゼルは、王妃の優しい声音の裏に氷のような冷たさを感じ緊張が走った。

「まぁ、カイル皇子様に限って、そんなことはございませんわ。フィオナ様もあんなに美しくていらっしゃるのですから」バーバラ嬢とイライザ嬢が声をそろえて異を唱えた。

「ありがとう。でもね、泥棒猫ってどこにでもいるものよ。そういう猫に限って毛並みが良くて美しいから皆んな騙されるの。オス猫は特にね」

 マリエンヌ王妃があからさまに汚いものを見るような目でリゼルを睨みつける。

 バーバラ嬢とイライザ嬢も不穏な空気を察してリゼルを見た。

 マリエンヌ王妃は私のことを言っているのだわ…そう思うと、リゼルは顔が蒼白になり、息をするのも苦しくなった。

「そういえば…リゼル様、以前、カイル皇子とお噂になったことがあったのですってね。それに最近はモルドヴィンのルーファス王子ともお付き合いされているとか…?」
 
 ティーカップがかちゃかちゃとした音をたて、リゼルの手が小刻みに震える。

「ふふふ、発情期でもあるまいし、気に入ったオス猫に手当たり次第お尻を見せつけて愛想を振りまく猫って、飼い主もさぞや苦労するでしょうね。あなたのお父様もご苦労されているのではない?リゼル様…?」
 
 ただ聞いていれば、まるで着ているドレスを褒める様なおだやかな声音と変わりない様子で、リゼルに鋭い言葉を突きつけた。

 あまりのあからさまな物言いに、バーバラ嬢もイライザ嬢も思わず目を見開いて、互いに顔を見合わせる。

「ちがいます…わたし、私とカイル様は、もう…」

 リゼルの声が震え、涙が溢れそうになる。
 その時、母の公爵夫人が割って入ってきた。

「マリエンヌ王妃様、我が娘が何か粗相をしましたかしら?」

 リゼルの母が公爵夫人の尊大な顔で、王妃の目を鋭く見据える。

「泥棒猫がどうのとか聞こえましたけれど?」

 リゼルの母は、この国で最高位の公爵夫人だ。
 フィオナ王女とて、公爵夫人の機嫌を損ねては、この国でうまくやっていけるとは言えない。
 王妃はべつに何事もないというふうに肩をすくめた。

「いいえ、単なる一般論ですわ。他愛ない話ですから、どうぞ皆さん、お気になさらないで楽しんでくださいな。では、私は他のご令嬢方にも挨拶をして参りますわ」

 王妃は公爵夫人に、にこやかに微笑みを向けて会釈をすると扇を仰ぎながらテーブルを後にした。

「リゼル、お化粧直しに付き合ってちょうだい」

 リゼルの母は、化粧直しという名目で、リゼルをレディ達の休憩室に誘った。

「リゼル、今は泣いてはダメ。皆に気付かれるわ。毅然としてなさい。にこやかに笑って」

 歩きながら今にも涙がこぼれ落ちそうなリゼルに母が言った。
 この国を代表するレディ達の見ている前で、泣き崩れるなどという失態をおかすことはできない。

 公爵夫人はは休憩室に行くまでの間、何事もなかったように、にこやかに各テーブルに会釈をしている。
 リゼルもそれに習って小さな笑みを貼り付けて、ようやく誰もいない化粧室に入ると、公爵夫人がリゼルとぎゅっと抱きしめた。

「よく頑張ったわね。えらいわ」

「お母様……」

 リゼルは母の胸の腕にくるまれた途端、緊張が解けて涙が頬を伝った。

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