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第一章 異世界召喚
29. 可哀想な赤ん坊 ①
しおりを挟む夢の中を掻い潜って、機械音が追いかけてくる。
俺は必死にもがくも身体が鉛のように重くて重くて、滴る自分の汗に溺れてしまいそうになっている。
びしょびしょに援けを求め掲げた腕の真上を、その機械音は通る。
通り過ぎる事はない。いつまでも、絶え間なくずっと響くのだ。
俺は不快感から苛々しながらも、その音の出所を探しなんとか止めようともがき続ける。
真っ暗な闇の中、そうしながら俺は一生を終える。
「えええええぇっぇえ!」
「…!!」
ほんの直ぐ近く、それも耳元で夢をおんなじ音が俺の耳を支配するものだから、俺は悪夢の余韻を引き摺ったまま飛び起きた。
「えええええっ!、えええぇぇ!!」
頭が痛い。
それよりなにより寒かった。
覚醒と同時に、酷い寒さを味わう。
クッションが効き過ぎのソファに埋もれ身動きが取れない俺の胸元に、じっとりとした重さを感じた。
目線だけ下を向けると、そこには光が反射して透けた金の髪の毛がある。
(ああ、そうだった…あれからすぐに落ちてしまったんだっけ…)
それにしてもこの不快感はなんだ。
身体に纏わりつく、ジメジメとした感触。
と、そこまで考えて無理やり身体を起こした。
一気に起き上がったものだから、胸元にいたリアが俺から転がり落ちて、したたかに身体を床に打ち付けてしまう。
どうせこいつは不死身なんだ。多少乱暴に扱っても怪我一つ負わないのだから、まあいいか。
そう思ったのも一瞬だった。
ドン
床の、絨毯も何もない石張りの床が、鈍い音を立てた。
「え?」
リアは頭から落ちてくるりと反転。横からまともにぶち当たった。
泣いていたリアは床に落ちた衝撃で「ヒグっ」と小さな悲鳴を上げて沈黙する。
俺は何だかやけに胸騒ぎがして、慌てて床に這いつくばった。
昨日はこれでリアの無敵を知ったのだ。
高い場所からわざと落とされても、床の数センチ上でふわりと浮き、彼女自身にダメージは一切なかった。
その時、床に音はしなかった。
身体を思い切り打ち付ける、肌のぶつかるあんな鈍い音も。
「お、おいっ!!」
リアは浮いていなかった。
衝撃に驚いたのか目を見開き、口をパクパクさせて細かく息を吐いている。
それからようやく状況を理解したのか、それとも痛みを感じてしまったのか。
「ああああああ!あああああ…!」
リアは切羽詰まった泣き声を上げたのである。
その声に力は無く、感情すらもないただの不快音だった。
「うっそだろ!!」
リアを抱き上げる。
その時俺は改めて、自分の身体がビチョビチョに濡れている事に気付く。
(何が、どうなってやがるんだ…?)
昨日、俺は何の因果か、突然異世界に召喚された。
勇者がいて魔王がいて、魔法なんかもあるファンタジー世界。
地球とは違う次元にある平行世界の、素っ頓狂なこの世界の設定を俺は知った。
だが、何故俺がこんな世界に飛ばされたか。そもそも元の世界に戻る手段はあるのか。肝心な事は何一つ分からず、なんだか他人事のように無責任で、のほほんとした神殿の奴らに愛想を尽かして、俺は現実逃避をするかのように眠ったのだ。
頼むから、夢であってくれ。
そう祈って期待した朝だった。
最悪な目覚めは、俺にへばり付いていた赤ん坊で否応なく理解させられた。
これは夢でも俺の妄想でもない。
異世界召喚は、現実だったのである。
「まさか……」
じっとりと濡れた服が身体に引っ付いて気持ちが悪い。さっきまで寝ていたソファを探ると、そっちも水で濡れている。
俺は完全に忘れていた。
こいつが大人の手を借りなきゃ一人で生きていけない無力な赤ん坊である事を。
「これ、ションベンかよ!!」
俺は嘆いた。
オウ、ノウ!と大袈裟に天井を仰いでみたものの、状況は何一つ変わらないのではあるが。
外国人の真似をして遊んでいる場合ではない。
この水分の正体がリアの漏らした粗相であるのは分かったとして、ちょっと待てと、急にあれこれと様々な考えが頭の中を全部支配されてしまったのだ。
凄まじい思考の波に対処できなくて、俺は酷く狼狽してしまう。
簡単に云えば、頭がついていけなかったのである。
(何故だ、何故俺はここにいる)
寒い!寒いのは濡れているからだ。
何故濡れてる?これはリアのおしっこか?
(お漏らし?いや、そもそも俺、こいつのオムツを換えたっけか?)
いいや、ここに来てから一度も換えてない!
リアは適当に布を巻かれてて、随時そこはじっとりと湿っていたけれど、オムツを換えるだなんて概念がなく、考えもつかなかったのだ。
(え?こいつは元より、いつからそのまんまなんだ?)
一週間前に臍の緒が付いた状態で神殿前に現れてから、リアはこの神殿の奴らからまともに相手してもらってなかったし、ぞんざいに扱われていたではないか。
いやいやいや、まさか一週間も汚ねえ布切れを穿きっぱとか有り得ないだろ!
でも、ミルクの一件がある。
フアナ達は知らなかったんだ。歯が無いから硬いモンは食えんだろうと、まともに手足も動かせない赤ん坊に砕いたスープを与えていた。しかも飲ませてやる訳でもない。皿にスプーンを置いて放置していた。
これではオムツも期待できないだろう。
(って、風呂は?よくもまあこんな布切れ一枚で一週間も凌げたな!)
いや、大事な事を忘れてないか、俺…。
あああああ!そうだった、ミルク!!
しまった、リアにミルクをやるのを忘れていた!!!
(ええと、赤ん坊は3時間ごとにミルクだったっけ?)
インターバルがありそうで、3時間なんて実はあっという間に経つ。
カーテンの無い窓から見える景色はかなり明るい。燦々と照る太陽は既に高く、俺が眠ってから果たして何時間経ってしまったのか。
考えただけでもゾッとする。
3時間は間違いなく過ぎている。
眠る前、いつもの癖でスマホの時計を見た時は20時だった。
恐る恐るスマホを立ち上げて、一番最初に表示される数字を読む。
(1111……)
わぁい、1のゾロ目だぁ~!って冗談だろ!?
ほぼ半日も、寝てた、のか…?
濡れた身体をそのままに、部屋を行ったり来たりと俺は慌てている。
ひたすらウロウロし、リアを触ってみては、また思い立ったように立ち止まってみたりして。
ちょっと現実逃避しかけて、また考える。
だめだ、頭がこんがらがってきた。
(いや、そうじゃない。そんな問題じゃない)
こんな長い時間も俺はグースカ寝ていて、誰も俺を起こしに来なかった?
普通変だと思うだろ。半日も無反応で部屋から出てこなくて、ちょっとは様子見ぐらいあってもいいんじゃないのか。
っつか、あれか?
俺が昨夜はキレてたから、ちょっと一人にさせておきましょうとか、変に気を遣わせてしまったとか…、いや、あり得るな。
あいつら、ショボンとしてたんだ。
子供相手に本気になってしまって、なんて大人気ないんだと後悔したんだった。
だとするなら、リアも放置…。
最後にミルクをやってから12時間。
飲まず食わずでこの状態―――だと?
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