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三. セトの章

67. 僕の帰還 ②

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「…ごほっ、ごほっ」

 もう咳き込んでも何も出てこない。
 ただただ、喉が渇いている。

「ごめんなさいね、セト。私たち、水は持っていないの。テルマが採ってきたリンゴの欠片があるけど、まだ固形物を摂取しない方がいいと思うわ」
「あとちょっとで、キューケーするとか言ってたよ」
「お、いいな。脚は動かねえけど、腕さえありゃあ軽食くらい作れるってもんよ。タダ飯はどうも性に合わなくってさ」
「アッシュの料理は騎士団でも人気ですもの!ついでにセトが目覚めた事も、マスターに伝えに行きましょうか」
「テルマ、あんまいケーキが食べたい!!」
「お前は食い過ぎだ!こんな設備もねえ草原で、ケーキなんぞ焼けるかガキンチョ!」

 蠱毒の話は早々にどっかに追いやられ、また和やかな雰囲気が漂う。
 むず痒くて心地良くもあるこの気持ちは、ヴァレリにいた頃では無かった感情だ。
 僕は常に人を見下して、女のことしか頭になかった。
 どうすればモテるのか、どうやれば悦ばせることができるのか、そんな邪な気持ちしか抱いていなかった。

 騎士団御用達の硬い盾に身体を預け、僕はあったかい三人をぼんやりと眺めている。

「な、ようやく分かったろ?旦那は変な奴だってことがよ」

「変」で一括りできるほど、あの人は単純じゃないと思うけど。
 話せないから曖昧に笑って答えてみせる。

「無口で無表情でぶっきらぼうで、何考えてんのか分かりにくいけどよ。めちゃくちゃ短気なんだわ、ああ見えて」

 人も容赦なく殺しちまう、と、アッシュは眉尻を下げて笑う。

 ああ、本当にその通りだったよ。

「甘く見ちゃダメだって忠告してあげたのにね~。お兄ちゃん、表情筋が乏しい割には、人の心情を読むことに長けてるんだから。なんていうか、ちょーのーりょくしゃ?みたいな感じよ」

 精霊の心だって暴くんだから、と、テルマ嬢は歯を見せて笑う。

 僕は阿呆だったね。愚かで浅はかな気持ちで接していた僕は、とっくに看破されていたんだから。

「それでも私達はマスターから離れられないんです。あの危うさに惹かれてしまうというか。あの人は身体は惜しげもなくくれるけど、決して心はくれない。明かしてもくれない。でも、本当の彼はとても優しい人だと思うの」

 あなたもそう感じたんじゃないの、と、ニーナは目を細めて微笑んだ。

 さて、それはどうかな。なんせ僕はみんなと違って拒否されているのだから。

「でもいいよな~、アンタ」
「……?」
「あの人さ、好きとか嫌いとかよ、そんな感情なんか持ってないかと思ってたぜ?」

 公然と嫌われている僕の、何が良いというのだ。
 望みの欠片もない僕と、好きでも嫌いでもない普通の君らとじゃ、同じスタート地点にすら立っていないのに不利に決まっている。勝敗の軍配がどちらに上がるか、言われるまでもなく明らかだ。
 なのにアッシュはしきりに羨ましいと羨望の眼差しを向けてくる。
 ニーナに視線を移しても、うんうんと納得するように頷いているものだから、正直驚いた。

「こう言っては何ですけど…マスターはんですよね…。要は誰とでも、必要があればしちゃんです。彼にとってのあの行為は、交渉事が上手くいく為のただのツールでしかない。私たちが思うように、特別な事ではないの」
「だからよ、旦那にとって何とも思わないアレをよ、アンタに限って拒絶したっつー事はさ、アンタにだけは感情を曝け出して見せたんだよ。俺らには向けられない感情の起伏をさ、旦那に体当たりされて羨ましいなと思うのは当然だろ?」

 そう、なのだろうか。
 よく分からないが、僕より長くリュシアと身近に接している彼らだからこその言葉かもしれない。

 でも僕は、嫌われるより好かれたかった。
 だけど彼らの言葉通りに受け取るならば、まだ恋の成就を諦めるのには早い。
 誰にも好悪の感情を抱いていないリュシアの心を、特別に僕だけが引き出したと思えば、形勢逆転のワンチャンスも不可能ではない。

 よく言うではないか。
 愛と憎しみは紙一重だと。
 それに、「好き」の反対は「嫌い」ではない事を知っているかな。人はね、本当に好きじゃなくなってしまったら、「無関心」になってしまうんだよ。
 人から忘れられた時こそ、完全に存在が消えるのだ。

 リュシアが僕に抱く感情は、無関心でない事だけは確かだ。
 彼らが羨む理由が少しだけ分かったような気がする。

「でもアンタとは《中央》でお別れだから、俺は気にしてねぇけどな!」
「はい。これ以上マスターと関わる事もないでしょうから、私も安心です!」

 恋の好敵手は少ない方がいい。
 アッシュとニーナは徒党を組んで、僕の排除に勤しむつもりらしい。
 リュシアを真ん中に据えて、僕らの三竦みが成ってしまうかと思ったけれど、二人が協力し合うなんて狡い。こんなの不公平である。

 それに―――。

「お兄ちゃん言ってたよ。これからセトくんは、ヘンタイ騎士団ちょーに取っ捕まって拷問されてきっつい尋問されて、ヘンタイ科学者のおっちゃんに解剖されて細切れにバラバラにさられて、あれこれ調べられる人生を送る事になるんだって!」
「…ぐ…」
「あはは!人間の癖に、人を陥れようとした罰なんだってさ」

 そんな人生、真っ平である。
 だったら開き直ってやろうではないか。

 浅はかでしたたかで、見透しも認識も甘くて駄目な男だけれど、僕は僕のままで在りたいと願う。
 反省せず、後悔すらもしていないからリュシアに嫌われちゃったのかもしれないけれど、これこそ僕が僕たる所以の僕で、そんな僕こそなのだ。

「……ふふ…」
「何笑ってんだよ、気味が悪いぜ」

 何が在ろうと、僕は僕でいたい。
 この僕のまま、何処であっても生き抜いてやるんだ。

「…ありがと、ね…」
「どうしたの、セト?……涙が…」

 これは哀しみでも怒りでも、嘆きの涙でもないよ。
 嬉し涙さ。
 君たちが僕に生きる勇気を与えてくれた。それを気付かせてくれた事が嬉しくて、真っ暗だった未来が開けた事への記念の涙。

 僕は生まれた時に母に捨てられ、貴族になりたい父の夢の為だけに育てられてきた。
 父からはそれなりの愛情を貰ったけれど、愛は希薄でいつも心は空虚だった。
 核の影響もあって、僕は女に不自由をしなかった。女好きの父に習うかのように、当たり前のように女を抱いた。
 毎日毎晩、日替わりで様々な女と情を交わしたのに、一人も特別な人は現れなかった。軽い気持ちで僕と寝て、ひと時の快楽を得られればそれでいい。あわよくば、領主のお零れに預かろうとばかり思っていて、誰も僕の深いところまで覗き込んでくる人はいなかったのだ。

 みんな当たり障りの無い口先だけの挨拶を交わし、僕と本音で語り合う友人もいない。
 気さくに声を掛けてくるのは商売女ばかりで、僕よりお金が大好きだった。

 真に僕を案じ、愛してくれた人はいない。
 僕は常に人に囲まれていたのに、僕自身はいつも孤独だった。
 僕こそ本音の部分で他人を信じていなかったし、今思えば人との本音のぶつかり合いが怖くて避けていた弱虫だったんだろう。

 そんな僕が、人を好きになった。

 自分の全てを捧げてもいいと思うくらい、その人に夢中になった。
 女好きを公言していたのに、好きになった人は男だったけど、それすらも許容してしまうほどに。
 きっかけは激しい性交だったし、邪な考えを抱いていない訳もではない。純朴な愛情じゃないかもしれないが、痴態から始まる恋愛があってもいいと思う。

 僕は、リュシアの特別になりたい。

 生涯のパートナーとして、僕を愉しませて欲しいと本気で願う。
 それこそ僕の生きる理由。僕の開けた未来の姿だ。

 その可能性はとても低いだろうね。
 でも0コンマの確率だったとしても、0じゃない限りは可能性は無限大である。

 僕は、僕らしく生きる。
 《中央》でも変わらずに、したたかに生きて生きて、リュシアの心に存在セトを残し続けよう。





 ピーーーーーー


 遠くで笛が鳴っている。
 馬車はガタンと大きな音を立てて、速度を徐々に落としていく。

「わぁい!キューケーだ!!」

 テルマ嬢が馬車から飛び出すのを、ニーナがやれやれと笑っている。


 ガタン、ガタン、ガタガタ


 馬車が止まる。
 馬の嘶きが、あちこちから聴こえてくる。

 アッシュが急場で作った杖を付いて、ニーナの手を借りながら外へ出て行く。
 僕にとっては久しぶりの陽射しが馬車の中に入ってくる。

 動けない僕は、ほろの隙間から太陽を満喫している。


 ザッザッザッザ


 ふと、誰かが近付いてくる音に気付く。草を踏む音だ。
 飲み物を取って来てくれたニーナかなと思って、光の向こう側から微かに見える人の陰を僕は眺めている。

 外が騒がしくなってくる。
 騎士達の談笑が、笑い声が、鎧の音が、鳴り響く。


 ザッザ―――ザ。


 足音が止まった。

「なんだ、死ななかったのか。ユリウスにどう言い訳しようか考えていたのが無駄になったな」

 ああ、僕はやっぱり運がいい。

 それにこの人の、どこが無感情だというのだ。
 こんなにも気を抜いて、僕に笑いかけてくれているのに。

「……僕はしつこいんだよ、リュシア」

 一生懸命声を出す。とても小さくて、耳を澄ませないと聞き取れない嗄れ声。
 でも、多分彼には届いている。

 涼しい風が吹く。
 砂を含まない、青々とした風が。
 腰までの、長かったはずのこの人の髪が靡かない。
 鬱陶しそうに掻き上げるプラチナブロンドは短い。

 本当の、リュシアの姿がここにある。

「男のくせに…本当に綺麗なんだから」

 乱暴に投げ入れられた水筒を顔面で受け止める。
 痛みよりも、嬉しさの方が勝る。
 この人が来てくれた事の嬉しさが募る。

「ねえ、リュシア。僕は君が好きだよ」
「またそれか。俺はお前のことな――」
「君に嫌われても構わない」
「……」

 リュシアの言葉を遮って、僕は僕の意を通す。

「僕はね、僕の好きに生きようと思う。そうしながら、君も僕のモノにするつもりだよ」
「……」
「男も性根も磨こう。君が絆されるくらい、誰にも負けない男になる。必ず君の役に立ってみせるよ」

 興味がなければ、こんなことを言い出す前から立ち去るはずだ。
 でもリュシアはここにいる。
 少し怪訝な顔をして、それでも僕の前にいる。

「だから傍にいるね。君の元で…僕は永遠に在り続けたいんだ」

 僕の誓いの言葉プロポーズにリュシアが何と答えたのかは、内緒にさせて欲しい。
 その言葉は、僕だけのものにしたいから。

 一つだけ云えるとしたら、それは僕が生きるに値する救いの言葉だったってことかな。

「ありがとう、リュシア」




 ねえ、女神様。

 くたばってしまった女神様よ。
 創造神あなたがいなくても、世界は在るよ。新しい神だって、僕にとっての神だっている。

 貴女はもう用無しだ。最初から無能だったけれどね。
 精々人間が足掻く姿を、糞食らえな現実に抗う姿を、無の世界で見ているといい。


 あのね、女神様。
 死んでくれて、ありがとう。

 貴女が死んでくれたから、この人に逢うことができた。
 貴女が世界を放置して去って行ったから、代わりにこの人がこの世に出てきた。


 世界に混沌をくれてありがとう。



 僕をこの人に出逢わせてくれて、感謝していますよ。
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