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三. セトの章
49. そして世界は白となる
しおりを挟むひゅう。
冷たい風が肌を刺し、あまりの肌寒さに目が覚めた。
瞼の向こう側が酷く眩しくて、気怠い右手で顔を覆う。
反対の手でシーツを手繰り寄せるも、その指は空を切った。
ベッドの下に蹴落としてしまったかな。
メイドの不甲斐無さに溜息が漏れる。ここのメイドはいつもそうだ。十中八九、閨を共にした女と鉢合わせするからって、朝は僕が呼ばない限り絶対に来やしない。
時々様子見に来て、僕に心地良い睡眠を提供するのも仕事のうちだと割り切ればいいのにといつも思う。
着るものを持ってきてもらいたくて、ベッド脇のサイドテーブルに手を伸ばし、呼び鈴を探す。
しかし手はいつまでもスカスカと空を掴んで、目的の物に触れないのだ。
寒い、寒すぎる。
ぶるぶると身体が震える。
身体を折り曲げて、暖を取ろうと両手で腕を擦る。
なのに一向に暖かくならない。擦って赤くなっている腕の上を、冷たい風が通り過ぎるばかりだ。
そうこうしているうちに、風が全身を凪いた。
ポタリ
その時、生暖かい水滴が、僕の顔に落ちてきた。
「な、なに…?」
ポタリ、ポタリ
瞼の上に、額に、頬に。水は落ちてくる。
雨漏りでもしているのかと思ったら、今度は閉じた唇に落ちてきた。
真一文字に結んだ唇の線に沿って水は浸透し、反射的に僕はそれを舐めてしまう。
「!!」
めちゃくちゃ変な味がした。
驚いて一気に眠気が吹っ飛んだ。
しかし明るすぎる外の光を瞼は拒否していて、なかなか開ける事が出来ない。
「ハッハッハっ!」
ほんの間近で、息を切らす声がした。
途端に獣臭が鼻を衝く。
臭いどころではない。吐き気が込み上げる臭さだ。
濡れた雑巾に牛乳を浸し、そのまま2日ほど日陰に放置したような、おぞましい臭いである。
や、野犬か!?どうして野良犬が僕の部屋にいるんだ!!
動物嫌いな父だった。足代わりの馬は何頭も所持していたが、愛玩用の動物は不必要だとこの家にペットはいない。
調度品を汚すからと家に入れるのも禁止で、野良の犬や猫も入り口で徹底的に排除していたのを思い出す。
いつの間にか屋敷に入り込んだ犬がベロリと僕の顔を舐めた。生臭さが鼻を刺激し、顔を顰めている間にもぬめぬめとした舌はどんどん下に下がっていく。
こそばゆいやら気持ち悪いやら。これがベッドを共にする女の愛撫であれば喜んで受け入れるものの、生肌を直接汚らしい獣に舐め回されるってどんな拷問なのと思った途端、違和感に気付いた。
「えええ!!!裸なの!!??」
ガバリとベッドから飛び起きた。
突然動いた僕にびっくりして、身体に跨っていた野良犬が凄いスピードで逃げていく。
尻尾を折り曲げて一目散にとんずらする後姿を見送る僕は、愕然とするばかりだ。
「は?は?」
意味が分からない。
置かれた状況も分からない。
今の日付も時刻も失念している。
なにがどうしてこうなっているのか。とにかく誰でもいいから今すぐ説明してくれと思った。
真っ白な世界が、とても眩しかった。
直射日光はさんさんと僕に降り注ぎ、遮る物など一切ない。茫然としすぎて一日ぶりの太陽に感動する気力さえ生まれない。
炎天下、雲一つない晴天の空の下。
僕は素っ裸で、外にいたのである。
「え、なんで裸?ええ、なんで外にいるの!えええ???ここはどこなの!!!!」
辺り一面が白く染められていた。
崩れた瓦礫がそこら中にあった。むしろ瓦礫しかなかった。
塗装が剥げ、屋根も落ち、壁も床も何もかも壊れて、材料の石が剥き出しになっていた。
その色は全て白。
―――白が町を覆い尽くしている。
空の青と、町の白。その真ん中にポツンとベッドのマットレスだけがあって、僕はその上で目を覚ました。
身に何も纏わず、その辺に脱ぎ捨てたはずの自分の衣服やベッドのシーツすらもない。
「え、ちょっとまって…」
頭も身体もスッキリ冴えている。多少の気怠さは残っているが、動く分には支障はない。
周りに誰も見当たらず、さっきの犬ももういない。それでも公衆の面前で股間を曝け出すのは憚れて、僕は両手で股間を隠しながら立ち上がった。
ベッドを降りて、キョロキョロと辺りを見回す。
昨夜の記憶が曖昧だった。
確実に覚えているのは父の死である。
ああ、そうだった。父は蟲に襲われて死んでしまったんだっけ。
僕は父の間際の一部始終をこの目で見て、何処か他人事だった自分の死を間近に感じて恐怖したんだった。
昨夜襲ってきた、夥しい数の蟲はいなかった。
何千万と膨れ上がった蟲の総攻撃により、この町の建物は破壊し尽くされ瓦礫の山と成り果てた。
あれだけの数がいて、あれだけ抵抗したのに、死骸の一つも地面に落ちていない。
全てが夢幻かと思うくらいに、迎えた今日は平穏そのものだった。
それが夢でないことは、この瓦礫が証明しているのだけど。
あれから僕はどうしたんだっけ。
蟲に怯えて、それからベッドで呑気に眠った?
いや、一人じゃなかった。僕は結末を知る事なく、途中で抜け出したんだった。
その時僕の隣には、もう一人いたのだ。
「そうだ、占い師サンだ…」
あの晩、彼女に誘われるまま僕らはセックスしたんだった。
だけど部屋に入り、ベール越しに彼女とキスを交わしてからの記憶が薄れている。
めくるめく悦楽の時間だったような気もするが、漠然として覚えていない。
でも忘れようにも忘れられない事もあった。
それは占い師の厚き衣の下の、甘美な闇の存在である。
彼女の、あの占い師の想像を絶する美しさだけは、この目に焼き付きて離れない。あれほどまでに美しく、完璧な容姿を持つ人間を、僕は初めて見て歓喜したのだから。
そういえば、その占い師の姿が見えない。
汚れたベッドのマットレスに、彼女と交わした情事の痕跡は見当たらなかった。残り香も、愛液も何もなかった。
占い師だけではない。
彼女が供として連れてきた、騒がしいだけが取り柄のあのギルドの三人の姿もなかったのだ。
あれから何時間経ったのだろう。
それにここは何処なのか。
僕以外の人はどうして見当たらない。
彼らは?蟲は?ギルドの連中は?父は?従者らは?
僕はなにをどうすればいい。
全裸で街中を彷徨うのもどうかと思い、まずは着るものを探そうと慎重に瓦礫を掻き分けて進む。
裸足の足の裏が大小様々な石を踏んで痛かった。
せめて場所が解ればと思うが、瓦礫の白に埋め尽くされた町はどこも同じ表情をしていて、方向感覚さえ狂わすのだ。
「あ…あれは」
背の高い壁の下がぽっかり開いていたから、崩れないようにと祈って石を潜った。
すると目の前にどでかい鋼鉄の四角い物体が落ちていた。
「これってもしかして…父さんの部屋なんじゃあ…。え?ここ、僕の屋敷ってこと?」
僕と父の自室は、隔離された居住区の二階にあったのだ。
今、僕の足は地面を踏んでいる。
パズルのように崩れた大きな壁を組み立てていけば、見覚えのある間取りが見えてくるのに気付く。
つまり、一階の天井が崩れ、二階の床の底が抜けたのだろう。
父の部屋は丸ごと、そして僕は器用にベッドだけ落ちてきた。
だとするなら、一階の応接間や厨房はこの真下だ。
「はは…ペッチャンコじゃないか」
よくもまあ、無事だったものだと思う。
こんな素っ裸で、かすり傷ひとつ負ってないのは奇跡だ。
コンクリートの壁が剥がれ鉄が剥き出しとなり、そのままの状態で地面に落ちた父の部屋は、落下の時に瓦礫を下敷きにしてしまって斜めに立っていた。
扉は開いていない。
占い師の助言の通りであれば、あの中にいた者は全員無事なはずである。
落下時の衝撃で多少怪我ぐらいはしているかもしれないが。
「あ、鍵…」
父はこの部屋に避難民を誘導した時、万が一を考えて外鍵を掛けたのだ。
財産や宝の持ち逃げを懸念しての行動だった。
父は自分が死ぬなんて露にも思っていなくて、事が終われば全員の身体検査をせねばならんなと笑っていたのだ。
その鍵は、父の頭の中にあった。
騒動で失くしてしまうと元も子もないと、鍵の要らない錠前をわざわざ掛けたのだ。
4桁の数字が合えば錠前は開く仕組みで、その番号は父しか知らない。
僕は天を仰いだ。
カチャカチャと、とりあえず思いつく限りの数字を合わせた。
父の誕生日も違うし、僕のとも違う。母のかと思ってみたが、僕は母の誕生日なんて知らない。他の数多くいた父の妻たちの記念日は、もはや論外である。
キリのいい数字でも、語呂合わせでも、素数でもない。
四桁の違う数字の組み合わせは、10の4乗なので一万通り試せばいつか必ず鍵は開く。
「やるしかないか…」
父の財産は、父が死んでしまえば全部僕の物だ。
この中の民達をずっと閉じ込めているわけにはいかないだろう。飢えて死なれる方が、面倒なのだ。
ドオオオオオオン!!!
覚悟を決めて座り込み、「0001」からひたすら数字を合わせていたら、急に鉄の扉が大きな音を立てた。
ドオオオオオオン!!
「な、なに!?」
驚いて一旦尻を浮かせて思いきり座ってしまった。
ペタリと尻が細かな瓦礫を踏んで痛い。裸で僕は何を遊んでいるんだと情けなくなる。
鉄の部屋は強固で耐久力だけは立派だが、防音設備は整っていない。土の壁より多少は音を防ぐが、耳を澄ませば声は聴こえる。
僕は中腰となって、扉に耳を近付けた。
ドオオオオオオン!!!
「ひぃいいいい!!!」
「ぐがああああ!!」
また、凄い音がした。
さっきとは違う。その後に人の怒号と悲鳴が同時に聴こえたのだ。
「だ、誰か外にいるの!!??」
「その声は…!!君はメイドの…えっと、誰だっけ、アレグロだったかな」
「ブリッサです!その声は坊ちゃまですね!生きていらっしゃったんですね!!」
ドォン!ドォン!ドォン!
「え、何?聞こえないよ!その音を止めてくれ!」
メイドの声は逼迫している。
扉の音が立て続けに鳴りだした。鉄が音を反響してうるさくて敵わない。
「お願いです!扉を開けて下さい!!坊ちゃま、聴こえますか!」
「聴こえている!この音はなんなんだ、中はどうなっているの!」
ドォン!ドォン!ドォン!
「坊ちゃま、早く!!中で…大変な事が…っ」
「鍵は錠前なんだ!その数字が分からないんだよ!ああもう、うるさいな!!」
ドォン!ドォン!ドゴォ!ドゴォ!
「お願い、出して!!!怖い、殺されるっ!!!」
殺されるとは穏やかじゃない台詞だ。一体この中で、何が起こっているというのだ。
ひっきりなしに鉄の壁を内側から殴るようなけたたましい音だけが響くだけで分からない。
それに、ブリッサ以外の避難民は何をしている。さっきの悲鳴は、雄叫びは誰が発したのだ?
ドゴォ!!!
「きゃあ!!!」
「ど、どうしたの!?」
一際大きな音がして、次いでブリッサの悲鳴。
それから一瞬だけ静まる。
僕は外からガンガン扉を叩いて、ブリッサを大声で呼んだ。
「……坊ちゃま…」
「ああ、良かった。ブリッサ、鍵を開けたいけど数字が分からない。君は父のお付きのメイドだったろう?番号を知らないかい?」
「…旦那様はどうなさったんです」
「父は死んだよ。蟲に食べられてね」
「ああ…、そ、そんなぁ…」
「それよりも、早く出たいのなら数字を。それに他のみんなは無事なの?」
ドゴオオオォォ!!!
「ぎゃああああああ!!!!!」
「っな!」
ブリッサではない別の誰かの断末魔の叫びが聴こえて、また壁を殴る音が始まった。
出口も窓も無い。閉鎖された空間に閉じ込められて数時間。二階から部屋ごと斜めに落ちて、外の様子も窺えない。
渡した水は僅かだし、朝には終わるだろうからと食料も無い。恐らく灯りもないだろう。
その状態で不安な一夜を過ごし、見知らぬ同士10人が狭い部屋に押し込められて誰も助けに来ないとなれば、精神的におかしくなるのは当たり前である。
誰かが限界を迎え、ここから出せと壁を殴っているんだと思った。
皆は消耗しているか怯えているかのどちらかで、気持ちが不安定だから音に敏感に反応して悲鳴を上げているのだ。
そんな状況でたまたま扉の近くにいたブリッサが、錠前を開くカチャカチャとした音に気付いて僕と会話するに至った。
そうに違いないと思ったんだ。
だから民を解放してしまえばそれで終わりと思うのは、ちっともおかしな事ではない。
民は安堵するし、感謝もするだろう。
僕は父の部屋で何か着るものを探して、それから砂漠に行って黒の行商人と出会い、何もかもチャラにしてもらう。
その手筈で済むはずだったんだ。
だけどこの時、閉ざされた箱の中では想像を絶する惨事が繰り広げられていたのだ。
外にいた僕は当然何も知る由もなく、とにかく扉を開ける事に必死になっていて、ブリッサの声の調子がどんどん変わっていっている事に、ちっと気付いていなかったのである。
「坊ちゃま、はやく!」
「何か心当たりはないの?一万通りも試すなんて、ちょっと現実的じゃないんだけど」
「ふふ、そういえば旦那様は数字があまり得意ではなかったみたいで」
ブリッサの声が近くなったり遠くなったりと聞き取り難くなる。
あれだけ切羽詰まった声で助けを求めていたのに、意外と余裕がある口振りだった。
ドゴォ!
また轟音だ。鉄の壁が振動して、誰かの呻き声もした。
「はやく開けて!ここは恐ろしい!あはは、怖いったらありゃしない」
「ブリッサ…?」
「すみません。実は閉所恐怖症で、暗くて狭い場所が苦手なんです。そうそう、その錠前は卸したてなんですよ。どういう仕組みか分かりませんが、カラクリ細工になっていて最初に暗証番号を登録するんだそうです。旦那様は、設定などしていたかしら!」
「まさかデフォルトのままって事はないよね…。父さんだったら有り得そうなのが怖いよ」
機械に疎い父の事だ。物珍しさから屋敷には糸とゼンマイだけで動くカラクリ細工が何個もあるけど、価値だけを見てその仕組みを理解しようとはしなかった。
父らしいといえばそうで、文句の一つも言ってやりたいのにその相手はもういない。
父が血眼になって収集していた高価な品々も、屋敷と一緒に藻屑と消えた。本当に馬鹿馬鹿しい。
「…最後までやっかいな父さんだよ」
何も設定されていない数字、「0000」と合わせた。
カチリといい音がして、錠前が開く。
「開いた!やったよ、ブリッサ!君のお陰だ!!」
ネジが飛び出した錠前を捨て、長く閉じられていた鉄の扉に手を掛ける。
瓦礫だらけで足場は悪く、部屋は斜めに建っているから力が入り辛い。何といっても僕は裸足なのだ。
しかも二階から落ちた拍子に自重でちょっと枠が歪んでしまったみたいで、扉は中々開かなかった。
力任せに引っ張ると、身体の半分ほどまで開いてそこから全く動かなくなった。
何かに引っ掛かっているか、扉が壊れてしまっているか。
僕は真っ暗な室内を覗き込み、ブリッサを呼ぶ。
「う…な、に、この臭い…!」
扉を開けたと同時に漂う、なんとも云えない酷い生臭さに一気に吐き気が込み上げた。
さっきの野良犬の、雑巾のような臭いとは種類が違う。こっちはもっと本能的な嫌悪感を抱かせる不安な臭いだ。
扉の前ではやくはやくと急かしていたブリッサがいない。声もしない。
むわりと立ち込める熱気が外に逃げていく。
太陽の角度が悪くてここは日陰になっているから、中の様子も窺えない。
「ブリッサ…?みんな、無事、なの?」
恐る恐る扉の枠に手を掛けた時、ねちゃりと粘着質な何かを触った。
と同時に、ゴロゴロと足元にボールのような丸い物体が転がってきて、僕の素足の脛に当たって止まる。
「――――!!!」
脛の硬い部分に当たって痛かったから、ついつい下を見たのがいけなかった。
反射的に見下ろした僕の目が捉えたものは、決して見てはいけないものだった。
声が、出なかった。
咄嗟に上げようとした悲鳴は喉で塞き止められ、頭が沸騰して呼吸を忘れ、心臓がはち切れんばかりにドクドクと血液を全身に送る。
ぶるぶると武者震いをして、耳はキンと張り詰める。
両の眼は、一点のみを捉えて放さない。
次の瞬間、嘔吐した。
「うぶっ!おぇええええぇ!!!」
止められなかった。涙を流しながら、胃の中の物を全部吐いた。
昨日は居住区に隔離されていて碌な物を食べていなかったから、殆ど胃液だったのがまた辛かった。
僕が見たものは――――人間の首だった。
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