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一. アッシュの章

27. digestif

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 この後、何も無かった。

 俺は文字通り疲れ果て、地面に大の字に寝転がってひんやりとした土の冷たさに、心地よさを感じていた。

 そんな俺の真横に、旦那が立っている。

 もはやぐちゃぐちゃに汚れてしまっているローブを片手に、流石に着るのはやめたようだがこのままこの地に捨て置くつもりはないようで、しっかりと脇に抱えている。

「それがグレフの急所?」

 もう片方の掌には、煤けた木片。

 氷の針に貫かれたままのそれを、旦那の魔法で新たに何重もの氷の層で固まらせた。
 氷の中に閉じ込められた木片は、動くこともなければ何の反応もない。

「分からん」

 薄っぺらい、ただの板にも成り切れない木片だ。

 しかしこれを貫いてから、俺達を襲っていたケルベロスは姿を消している。

 白いモヤは暫くねっとりと血糊のように天井を穢していたが、それも時間が経てば消えていき、最期は霧となって無くなった。

 シンと静まり返る空洞内は、ついさっきまでグレフとの死闘を繰り広げていた事を忘れるぐらい、何もない。

 俺と旦那、そして地面に転がる三体の遺体以外は。

 旦那はその木片を、腰にぶら下げてある小さな布袋の中に入れた。
 持って帰って調べるのだと言う。
 それは危険なモノかもしれないが、旦那の手中にある以上、大丈夫な気がした。

「帰ろう」

 もう、ここに居ても意味は無い。

 グレフの親玉は倒した。しかしそれから何の変化もないので、これが「終わり」なのか拍子抜けしてしまう。


 謎はまだ解けていない。


 何故グレフが赤子を必要としていたのか。

 何故村がグレフに利用されたのか。

 マナに替わる新たなエネルギーの正体とか、それを摂取し続ける事でどう悪影響が出るのか。

 この親玉を倒したら、すべて解決するのか。


 疑問は尽きない。


 だが、此処にいる意味はもうないのだ。

 ガクガクする足を叱咤し、俺達は歩き出す。
 光の照らす、井戸の跡地へと向けて。



 途中で親父とすれ違った。

 親父はもう、魂の抜けたただの肉塊になっている。横目で見ただけで、俺は立ち止まらず進む。

 自業自得だとせせら笑うつもりはない。
 ただ、可哀相だと思う。

 親父は最期まで、親父だっただけだ。

 息子の俺を捨ててまで、村の将来の為に働いた。
 その結果が、このザマだ。


 哀しいが、不思議ともう諦めがついている。

 親父に裏切られ続けて感覚がマヒしてしまったのか、はたまた俺が俺自身の未来を見つめるようになったからか。


「旦那、綱が降りてる」

 旦那の風の魔法で瓦礫は吹っ飛び、足元をチョロチョロと水が流れているそこは、やはり俺が渇望する日の光が豊富に照らされている。

 その眩しさに、温かさに、懐かしさに、ぐっと胸が熱くなるのを感じる。

 日は僅かに赤味が差している。
 外はもう夕方なのかもしれない。

「アグネス達が用意してくれたのかな」

 ぐいぐいと引っ張る。思いのほかしっかりとした手ごたえ。

 外まではゆうに10メートル以上はある。
 途中、休憩する場所は無い。昇り始めたら、最後まで昇らないといけないだろう。

 力を使い果たした俺には重労働である。大きなため息をつくが、ここしか出口がないのだから、腹を括るしかない。

「俺からいくわ…」

 クソと毒づきながら、俺は綱に手を掛ける。

 そうして体中の括約筋が悲鳴を上げる中、数十分かけて綱を登ったのである。



 はっきり言って、一番辛かった。



 上に辿り着いた時、地上に出た喜びよりも、昇り切った達成感の方が強かったのだ。

 足はガクガク。
 手は感覚すらない。

 綱を股に挟んでたから擦れて痛いし、実際にミミズばれがすげえ。
 爪は剥がれ掛け、息も碌にできず、何度も何度も現実逃避しかけた。


 それぐらいしんどかった。


「ああああああ!!!クッソ、やったぞ俺は、くそったれ!!!」

 井戸の真横でぜえぜえと息をする。

 そういや旦那は大丈夫だろうかと、少し落ち着いてから下を覗く。

 すると旦那はまだかなり下の方で、綱にしがみ付いたままだった。

「おーい、だんなあー!!」

 プラプラと綱が揺れる。旦那は少しだけ上を見て、また下を向く。綱を持つ手に力が入ってない。

 そこから動けないのか?

 急に心配になって、指一本動かすのも辛いのに、俺は綱に手を掛ける。

「くそおおおおお!!!!!なんで、おれが、こんな、目にっ!!!!!」

 そしてまた数十分、旦那の体重を乗せた一人綱引きに精を出すのであった。



 ■■■



「あんたが魔法を使えば簡単だっただろ!!!」

 夕日に照らされる中、清々しい空気を一杯に肺に入れ、思い切り吐く。

 案の定旦那は、綱を登っている途中で限界になったらしい。
 魔法ならばともかく、力仕事は専門外なのだそうだ。

 手に血豆を幾つも作って引っ張り上げた時、この地下で飄々と涼しい顔で敵をいなしていた旦那の額には、大筋の汗がくっついていたのだ。

 その汗が頬を通って首筋に流れゆく様は、何とも言い難い生唾を飲み込む仕草であった。

 ドキリとする。

 この人は、いつも冷静で冷酷で、血潮すら通っていない冷徹な人に見えるけれど、こうやって俺と同じように汗を掻いて、俺と同じように肩で息をして、こんな井戸に苦労してへたり込んでいる姿は、どこからどう見てもただの人だ。

 彼の本当の姿はこれなのであって、いつも沈着冷静だったのは、それだけ修羅場を潜ってきた経験のなせる業で、そうせざるを得ない彼なりの事由があるのだろう。

 しかし、開口一番文句が出たのは許してほしい。

 なんと旦那は、俺が旦那の喋る間もなく井戸を自力で昇り始めたもんだから、言い出せなくなってしまったというのだ。

 声を掛けようにも、俺は無我夢中で綱を登っている。

 なんだか魔法を使うのが邪推に思えてしまって、ついでに自分も俺の真似をしたら、途中で筋肉がビッキビキにキて、動けなくなったらしい。

「あんた、気が利くのかアホなのか分かんねえな」

 明らかに、もう敵はいないのだろう。
 こんなに気の抜けた旦那を見るのは初めてである。

 あの地下で、俺を先導し続けてきた奴と同一人物とは思えない。

 しかしそれもまた、旦那なのだろう。

 俺は嬉しくなった。旦那からすれば、俺は敵ではないということだ。

 気の抜けた姿を見せるくれるまでに旦那が俺に気を許しているという事実に、俺は純粋に嬉しかった。


 俺の息が整うまで、夕日に照らされたまま、俺達はただそこにいた。

 あの日、目の痛くなるようなオレンジ色と同じ夕日が俺達を赤く染めていく。

 俺に冷たい眼差しを向け、疑問を投げかけた旦那はもういない。

 自分本位で日和見主義だった、何も知らない俺も、もういない。



 ただ空の色だけが変わらず、俺達の頭上にあった。




 ■■■




「あのロンってやつ、何?」

「ああ、あれか」

 俺と旦那は並んで村への道を歩いている。

 井戸は村の入り口にあるが、人里が現れるまでしばらく果樹園が続くのだ。
 その木々の中を俺達は進んでいる。

 黙っているのもアレなので、とりあえず一番気になっていた事を聞いてみた。

 旦那の張った結界の中に、突如として現れた謎の人物である。
 全身黒ずくめのピチピチした服を着た男だった。口数少なく旦那の事を「」と呼んでいたっけか。

「あれは俺の『影』だ」
「かげ?」
「そう」

 旦那がこくりと頷く。

 後ろに撫でつけた金髪が一緒に揺れる。

 ローブで顔を隠していない旦那は、ひどく幼く見える。言葉遣いから随分年上のイメージがあるが、こうして見ると俺よりも若く感じるのだ。
 その仕草一つ一つにあどけなさを感じるからなのかもしれないが。

「俺の護衛みたいなものだ。常に姿を隠して俺の傍に控えている」
「え?」
「今はアグネス達を連れて先に《中央》に行ってるからいないが」
「護衛ってあんた、護衛が付くほどなんかヤバイ人間なのか?」

 旦那ほどの手練れに、敢えて護衛を付けるのは、その命を誰かに狙われているからとか?

 それとも何か、実は旦那はめちゃくちゃ身分の高い奴で、その大事な身体に何かあったらいけないと護衛を付けているとか。

 ああ、その美貌はまさに貴族サマならではだ。
 もしかすると、王族だったりして。

「違う。あれは好きでそうしてるだけだ」
「はあ?」

 なんだそりゃ。
 じゃあ、勝手にそいつが護衛を買って出てるだけってのか。

 っつか、そいつは俺達が囚われた時も旦那の傍に控えてたって事だろう?

 グレフに襲われた夜も、グレフに追い掛けられた時も、村人達に囲まれた時も、そいつが護衛対象にしてる旦那が、村人達に好きなように殴られまくってた時も、そいつはただそこにいただけというのか。

 明らかにピンチの時に助けてないじゃないか。

「あれは、俺の呼び声にしか応えない。俺が呼んで初めて行動が許される。お前が感じたピンチとやらも、俺があれを呼ばない限りは、あれにとってはピンチでもなんでもない。あれの意思はすべて俺に一存してる。あれが自らの意思で動く事は、まず在り得ないな」
「変な関係だな。あんたら。ずっといるって事は、あんたのプライバシーってのもそいつに筒抜けってワケか」

 なんだかすごく悔しい気持ちになって、少しの嫌味を込めて言ってみる。

「別に構わんよ。俺自身の事よりも大事な事はたくさんあるから」

 そう返された時は、言葉を失った。


「俺はいつでも、俺をくれてやるよ。俺の心以外はな」

 目的を達する為には、些末な事なのだ。
 旦那の私生活や、旦那自身ですらも。

 だから旦那は我が身を顧みず、その身を敢えて曝け出す。

 敵の最前線に、自らが立つのだ。


「俺は旦那が分からない」

 彼については知らない事だらけだ。

「でも、あんたの事をもっと知りたいと思う」


 そう素直に言うと、彼は「そうか」とだけ呟いた。



 ■■■



 果樹園を通り過ぎ、視界が開けてきた。

 赤い夕陽を浴びた村は、空と同じ色に染まっている。

 俺の知る、のどかで豊かな村だ。

 入り口近くで爆発が起きたり、何人かの村人がグレフに食われて死んだというのに、村は相変わらずの風景だった。

 誰一人、何一つ、気にした様子はない。


「よ、アッシュ、元気かい」

 果樹園から帰宅するのだろう、村人の一人が俺に声を掛ける。

「あ、ああ…」

 そして鼻歌交じりにそいつは陽気に去っていく。

 周りを見回す。
 何も変わっていない。

「旦那、何にも変化無しなんすけど」

 あの親玉を倒せば、何らかの変化が起こると思っていた。

 生贄を喰って、村のマナを【浄化】していた奴だ。

 村の大半が、グレフの存在を知らない。

 村の客賓として持て成した旅人を攫って地下に閉じ込めて、非道な行為をやらせていた事を知らない。

 村の中にいる人達は、俺がしばらくいなかった事すらも気にしていないようだった。

 目に見える変化を期待していなかったわけではない。自分は死に物狂いで戦ったのだ。
 良い方向に進んでいるだろうと期待するのは至極当然だろうに。

「アッシュ、よく見ろ」

 骨折り損のくたびれ儲けと言わんばかりに空を仰ぐ俺の服を、旦那が掴んだ。
 逆の手で、何かを指し示している。

 旦那の指の先を追う。

「げ…」

 のどかとは言い難いモノが目に入った。

 俺達とは離れているが、明らかに公衆の面前、誰もが行き交う道の真ん中で、二つの影が動いている。

「なに、やってんだ…」

 目を凝らすまでもない。

 裸の男女が、従来のど真ん中で行為に励んでいるのだ。

 夜ならまだしも、まだお天道様は出てるのだ。
 って、夜であっても外でする事じゃない。

 不思議というより、妙なのは、こんな場所でこんな事をやっているというのに、村の誰も気にしていないのだ。

 普通ならばぎょっとする。こんなの、子どもに見せる行為でもない。恥ずかしくて見ちゃいられないし、気まず過ぎる!

「アッシュ」

 旦那が違う方向、村のど真ん中で子作りしてる奴らを通り越して、村の備蓄庫が置いてある方向。そこに多数の人影が群がっているのが分かる。

 備蓄庫は村長以外は触れない。

 震災を経験したこの村は、食料の保管や管理が徹底されているのだ。餓死する寸前まで陥ったのだから当然である。

 しかしその大事な備蓄庫が、壊されている。

 男も女も子どもも関係なく、備蓄庫から食べ物を引っ張り出して、思うがままに貪っている。

「なんだ、これ…」

 我先にと、食料にかぶりつく。

 火を通さずに、生のまま喰らっている。

 その食べ物を取り合っている。

 言葉にならない叫びをあげながら、殴りながら蹴りながら食っている。


 その横では、家畜のト殺が行われている。

 家畜は滅多な事では食料にしない。
 動物は労働力にもなり得るからだ。

 しかしそんなのはお構いなしに、全部殺している。

 驚くことに、彼らはその生暖かい臓物に顔を真っ赤に汚しながら食っている。

 半分生きたまま、貪り合っている。

「うそだろ…」

 村を見渡す。
 一見、のどかで普通の村。

 しかしどの家でも、悲鳴が聞こえている。

 窓から男女が交わっているのが見える。

 その行為を咎めるものは誰もなく、食うか、交わるか、飲むか、殴るかのどれかが行われている。

「何がどうなってやがんだ…」

 俺に声を掛けた青年。
 果樹園から戻ってきたばかりなのに、また果樹園に引き戻って木に登っている。両手一杯に果物を持って、頬に入りきれないのにどんどん口に入れている。

 村は、


「村はどうなっちまってるんだ」

 震える声で旦那に問う。

 旦那はその美しい顔を少し歪め、村人達を見つめている。

 すると、髪を振り乱した女が俺達の方まで駆けてきた。

「あ!」

 薬師のオルガさんだった。

 一心不乱に俺達に向かってくるオルガさんは、元々が痩せているのに更に痩せたように見えて、まるでガイコツが服を着て走っているかのようだった。

 俺は思わず構えてしまう。
 彼女は村の重鎮だ。生贄システムの中心にいた人物の一人だ。
 俺に、再起不能にさせる薬を盛ったのも彼女だ。

 しかし彼女は俺達を通り過ぎていく。

 オルガさんはうわ言のように同じ言葉を繰り返しながら、村の外まで駆けていく。

「カミサマカミサマカミサマカミサーー」

 その後ろを、雑貨屋のマリソンが追っている。

 彼女もまた、何かを叫んでいる。口から涎を垂らし、血走った目でオルガさんを追い掛けるその手には、刃渡りの長い包丁が握られている。

「殺してやる殺してやるお前は気に食わなかった殺すカミサマカミサマ―――」


 二人の姿が村から消えた時、俺は悟った。



 村はもう、のだと。
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