あの夏の歌を、もう一度

浅羽ふゆ

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 ――――僕は灰坂と話す時、もし僕がイジメられていたらと考えながら言葉を探した。
 そこで辿り着いた答えは言葉よりも、まず善人ぶらないという事。
 友情をひけらかさない。
 相手のペースを崩さない。
 そして、深い傷をつけない程度に物事をはっきり言って、嘘をつかない事を示す。
 大雑把にこの四つ。他にも頭をフル回転させて色々と考えていたけれど、何より一番大事にしたのは「音痴」と言わない事。
 これは自分がそうだったからこそ分かる事だった。この言葉って意外にけっこう傷つく。
 地味に鋭さがあるんだ。
 だから僕は「音程が悪い」って言いい方にしている。
 意味は同じなのに鋭さは違う、まるで違うんだ。
 なんてカッコつけて言っているけれど、実はただの受け売りだ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 クラスの雰囲気は一向に戻らないまま、僕らは夏休みを迎えてしまう。
 当初の勢いだったら、今ごろきっと合唱に向けてさらに熱を上げていた所だったんだろうけれど、今の僕らにそんな情熱は無く、練習と言える練習は八月から週二回の合唱練習のみで、パート練習は自主練習という形で行う事になった。
 つまりは別にやらなくてもいいと言うわけだ。
 そうなると女子は惰性で週一回くらいは集まりそうだけれど、男子は恐らく誰一人として集まらないだろう。
 完全にみんな投げやりだった。
 先生もこんな状態で強制したくなかったんだろう。
 きっとかなり譲歩した上での週二回の合唱練習だ。
 でも、これは僕にとって逆に好都合だった。
 自主練習となったパート練習に顔を出さなくて良くなったので、僕は遠慮なく灰坂との特訓に打ち込める。あの衝突が起きる直前の合唱を考えれば、恐らく本番一週間前に実行に移せば、きっとなんとかなるはずだ。奇跡を起こせる。
 こういう計算もほとんど憶測でしかないのに、僕には何故だか変に自信があった。


 僕は終業式が終わった瞬間に、走って家に帰った。
 カズは依然として特訓に追われていたので、帰りが一人になっていたのも好都合。
 この特訓はサプライズの要素も必要になってくる。誰にもバレるわけにはいかなかった。
 家についてさっさと着替えを済ませると、僕は机に置きっぱなしにしていた携帯を手に取った。
『無事到着。家はこの前に説明した通り。わかるよね? とにかく誰にも見つからないように。何かあったらまた連絡して』
 メールの送り先は灰坂の携帯だ。
 この村では全く必要なかった携帯が、意外な所で役に立った。
 契約成立したあの日、連絡手段をどうしようかと話していたら、灰坂も携帯を持っている事を知った僕は直ぐに連絡先を交換した。どうやら灰坂はたった一人で祖父母の家に引っ越して来ているらしく、離れた両親との連絡用に持たされたらしい。
『了解。すぐ行きます。何かあったら連絡する』
 灰坂からの返信を確認して携帯を机に置き、僕は特訓の準備をする。
 机の一番下の引き出しから取り出した秘密の練習本とソルフェージュ。そして練習グッズ。
 それらを机の上に出し、埃を軽く払った。
 ずっとしまっていたままだったから久しぶりにパラパラと捲ると、一ページ一ページに詰まっていた思い出が飛び出して来る。懐かしくも悲しい記憶。
 ホントにどうしちゃったんだろう僕は。
 自分でも全然分からない心境の変化にとまどいながらも、何だか悪い気はしなかった。


「――――ごめんくださーい」
 準備を終えて一息ついた頃、玄関の方から灰坂の声が届いた。
 僕は戸を開けて灰坂を家の中へと招く。何だかおかしな感じだった。心がムズムズした。
「やっぱり灰坂は都会の人だね」
「ん? どういう事?」
 玄関で靴を脱ぎながら、灰坂は僕を見上げた。
「勝手に家の中に入らないから。普通そうだよね。こっちの人は玄関の中に入ってから『ごめんくださーい』って言うからさ。最初はビックリしたよ」
「あー、うん。わかる。私もいまだに慣れないそれ」
 灰坂は家に上がり「おじゃまします」と頭を下げた。
 あの日から僕と灰坂の距離は少し縮まった気がする。メールの返事はしっかり返ってくるし、何度か神社で作戦会議をした時も僕の言葉に黙っているだけと言うのはなくなった。結構、普通に話せるようになった。
 まぁまだ一度も笑っていないけど。少なくとも、変な警戒心は無くなったみたいだ。
「どうぞ。そこ座って」
 僕はピアノの椅子に座り、勉強机の椅子に灰坂を座らせた。
「では、今日からボイストレーニングを始めます」
「……秘密特訓じゃなかったの?」
「ボイストレーニングって言った方がカッコよくない? 略してボイトレ」
「別に……何でも良いけど」
 僕も無理に明るく振る舞う事はなくなって、灰坂とも割と自然に話せるようになった。でも不思議な事に、そうなると少しだけカズとユキみたいな会話になる時があった。
「はい。これ渡しておくね」
「あ、はい。ん? ……ソルフェージュ?」
「うん。それがこれから先、一番やるやつだから貸しておく。これはね、音符に慣れる為の訓練に使うんだ。だから色んなパターンの楽譜が沢山載ってる。リズムと音程の訓練にピッタリなんだよ。最初は僕がそれの音符通りにピアノを弾くから灰坂はそれに合わせて歌って。いずれはピアノで一回聞いたらアカペラでやってもらうから。そして一番大事なのが、家でも復習する事。そして出来るなら音譜を見ただけでその音を出せるくらいまでいきたい。いい?」
 灰坂はソルフェージュの本をペラペラと捲りながら何度も頷く。
「よし、じゃあ始めよう」
 灰坂を立たせて、背筋を伸ばし、足を肩幅に広げさせる。
 顔は真っ直ぐ前を見て顎は少し引く。
 始めは声のチューニング。出しやすいキーでドレミファソラシドを上下に行ったり来たりをゆっくり何度も繰り返す。ドの音を聞いてドの音を出すだけでも最初は難しいもんだ。自信も無いし、恥ずかしさもある。でも何度も繰り返す事によって体も頭も記憶していくし、段々この状況にも慣れてきて恥ずかしさも薄れていく。
 僕の実体験と受け売りを総動員して作ったボイトレリストに不備は無い。


「――――どう? やってみて」
 一通り音階を行き来して、僕はピアノを止める。灰坂は難しい顔で首を傾げた。
「……よくわからない」
「だろうね。じゃあこれ聞いて」
 僕はボイスレコーダーをポケットから取り出して、密かに録音していた今の練習を流した。
「え? 録音してたの?」
「これが大事なんだ。よく聞いて」
 灰坂は差し出した僕のボイスレコーダーに顔を近づける。
「うわぁ……」
「歌ってる時は良く分からないけど。これならわかるでしょ?」
「……うん」
「これが第一歩。まず自分のダメな所を知る。ただやるだけじゃなくて、やっては聞いてを繰り返すだけで随分効率は上がるんだ。これも貸してあげるから自主練で使って。よし、そしたらもう一度やろうか。焦らないでいいから丁寧に、聞いている音と出している音をしっかり確認して、次の音を頭で鳴らしてから声を出す。次からはテンポをもっと落としてやってみよう」
「わ、わかりました」
 灰坂と僕の秘密のボイストレーニングはこうして幕を開けた――――。


「……ありがとうございました」
 日も暮れかけてきて今日のボイトレも終わり、灰坂は玄関で僕に頭を下げた。
「別に先生になったつもりもないから、敬語はやめてよ。同い年なんだし」
 僕が笑うと、灰坂はコクンと頷いてもう一度口を開いた。
「今日はありがとう」
「いえいえ。明日は午前中から来れるよね? まだまだこれからだからガッツリやるよ」
「もちろん。望む所。じゃあお邪魔しました」
 灰坂は力強く頷いて、玄関を出ていった。
「気をつけて帰ってね!」
 振り返った灰坂は手を振って答えると、夕日の中に消えていった。
 送ろうかと聞いたのだけれど、頑に拒否するので結局一人で帰らせる事にした。何事も無理強いはよくない。色々デリケートな問題を抱えているのだから、灰坂には特に注意しないと。
 僕は部屋に戻って開けっ放しにしていた鍵盤蓋を閉じる。
 そういえば、これからほぼ毎日、灰坂が来るから父さんに説明しとかないとな。
 ユキの時の事があるから、変な誤解をされない様にしないと。
「ただいまー」
 どうやって説明しようかと考えていると、程なくして父さんが帰ってきた。
 僕は深い溜め息をついて、玄関に向かう。
 心境の変化はいいけれど、僕の体力は果たしてもつのだろうか。
 僕は、いつだって行動的なカズを少し尊敬した。あいつはこんなに頭を使っていないと思うけれど、でもいつだって自分から行動する。それがこんなに大変だとは思わなかった。
 カズも今ごろ指揮者の特訓を頑張っているんだろう。クラスがこんな事になっても続けてるんだ。あいつは絶対やる気を失ってなんか無い。
 今の僕には、それが凄く心強かった。


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