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憧れの2月
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「うー、寒い」
ふいに聞こえてきた声に振り返ると、鼻と耳を赤くした彼がやって来たところだった。どうやら、日直仕事が終わったようだ。
マフラーで口元を覆い、手はコートのポケットの中に突っ込んでいる。
「さくらさん、お待たせ。早く行こう」
私が枝の上にいるために、上目遣いで懇願された。
ああ、もう……可愛いなあ。
「さくらさんは、寒くないの?」
「そういうのは、わからないの」
「いいなあ……うー、さっむー」
二人並んで、図書室へと歩く。教室が暖かかったのだろう。あとは、寒さが苦手なのかもしれない。時折、体を震わせては足早に、それでも私の姿を確認しながら、暖かい室内へと足を踏み入れた。
良かった。私、ちゃんと笑えているみたい。彼と、いつも通りでいられている。
いつ言おう……タイミングは、きちんと見計らって伝えないとだよね……。
「本当に寒い……今日、降るって言ってたっけ?」
振られた話題にきょとんとして、目を瞬かせた。
誰が言っていたって? それは独り言だよね? と思いながら、私が知る由もないことを口にする彼を胡乱に見た。
「さくらさんって、天気とかそういうのは毎日チェックしてそう」
何だか笑いながら言われたけれど……うん、まあ、そうね。していましたよ。
窓から、外の様子を見る。積もる気配もないが、止むようにも見えない。早く、暖かい家に帰った方が賢いのではないだろうか。
「風邪ひいてもあれだし、今日はもう帰ったら?」
自転車で来ているのだ。夜にかけて、もっと寒くなるだろうに。漕いでいても、風が冷たいだろう。耳なんて冷たすぎて、寒いより痛いという感覚になる時期だ。
だというのに、彼の表情は案の定、ムスッとしていた。
「大丈夫」
意地を張るほど、一緒にいたいものだろうか。私は、もちろん嬉しい。けれど、そのせいで風邪をひいたりされるのは、嬉しくない。
そうは思いつつも、本人がこう言っているので、これ以上は何も言わないのだけれど。
「宿題するの?」
「そ。今日は量が多くて」
古典のプリントと戦い始めた彼を、隣で黙って見つめる。
テスト勉強の時もそうだが、彼は宿題もすべて学校で取り組む。家だと漫画やらゲームやらの誘惑に負けて、集中できないからだそうだ。
「……」
黙々とペンが進んでいく。聞こえるのは、ページを捲る紙の擦れる音と、カリカリという記入の音。そして、コチコチと時を刻む音。
「……」
静かだと、どうも思考の波が走ってやってくる。それは気付かないうちに私を呑み込んで、渦に押し込むのだ。そうしていつの間にか、囚われている。
内容は、専ら現状と未来のこと。
リアルによって願望は打ち砕かれ、選択肢は二つ。
そうあるべきと思うことと、そうしたいと思うことが相反していて、ズルズルとこうして今日まで来てしまった。
リュウにあんなことを言っておきながら、彼を前にすると怖くなる。私は、何も言えなくなってしまっていた。
このままがいい……いつまでもこのままでいられたら、どれだけ幸せだろうか。
だけど、それは望んではならないこと。
それでも、今だけはと、縋ってしまう。
弱い私が、現状に縋りついていた。
「ねえ、バレンタインどうする?」
突然聞こえて来たのは、今しがた図書室へ入ってきた女子たちの会話。そうか、もうすぐバレンタインか。
「私は毎年、板チョコ配ってる」
「え、何それ。面白いんだけど」
「私は、トリュフ作ろうかな」
小声ながらも、キャッキャと楽しそうな子たち。彼女たちが手にしているのは、お菓子作りの本だった。レオくんなら、紙袋の用意が必要なのでは……。
たくさん貰うのだろうなということは、容易に想像できた。別にそれを羨ましいとか、嫉妬とか、そういう感情はどうしてだか生まれることはなく、強がりでも何でもなく平気だった。
ただ、何もしてあげられないことに心の中で「ごめんね」と呟いたのだった。
そうして、数日が経ったある日のこと。私は誰に教えてもらうこともなく、今日が何の日かを察した。
朝からそわそわしている男子たちを尻目に、友チョコを配り歩く女子たち。残念ながら、本命イベントは本当に極小らしい。それどころか、女子のお祭りと化している。私の時も、周りは友達にあげたりしていたけれど。というか、私は誰にも渡すことはなかったのだけれど。このイベントって、こんな感じだったかな……。心なしか、教師までそわそわしているってどうなの。この学校、平和だなあ。
そんなことを思いながら、いつものように桜の枝に乗って正面を見る。いつも何故だか、気付くことも考えることもなく、この方向を向いていた。それが、一番しっくりきたからだ。
そして、これからも見続けていくのだろう。もしくは……。
「……」
三文字が浮かんで、瞼の裏に色濃く残る。
どうして、リアルはこんなにも迷路なのだろうか。
私は、シンデレラのように耐えて努力してきた人間ではないから、逃げてばかりいたから、だから私には魔女が現れないのだろうか。
それとも、もうこれ以上の奇跡は望んではならないという、私の強欲を戒められているのだろうか。
この現状がシアワセなのだと、そう思えたなら――
「さくらさん!」
ガヤガヤと騒めき始めた校舎から一人出てきたのは、彼だった。カバンが重そうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「いっぱい貰ったみたいね」
「ああ、これ? そうなんだ。にしても、本当に女子ってすごいよね。クラス全員に配ってたみたい」
きっと、そういう口実で君に渡している子もいるんじゃないの? ――なんて過ったことは流して、私は枝から下りて彼の元へと行った。
「もしかして、断った方が良かった? 彼女がいるから、貰えないって」
「何で?」
「……嫉妬させちゃったかなーって、思って」
「いや、別に」
あっけらかんと即答すると、彼が苦笑した。おかしなことでも言っただろうか。
「やっぱり、さくらさんだね。ドライっていうか、何ていうか……」
「嫌だった?」
「ううん。そういうところも好き。それに、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。俺の愛がしっかり伝わってるから、嫉妬する必要がないってことでしょ? だから、嬉しい」
「あ、そう……」
マフラーで隠れた口元が、嬉しそうにいつもの笑みを浮かべている……そんな表情が、見えるようだった。
「今日も寒いね。図書室行く?」
「えっと、ごめん。一回、家に帰ってくるよ」
「え?」
「ここで待っててくれる?」
「あ、うん……」
別に、帰ろうが構いやしないのだけれど、また来るとはいったい。私からは何もないので、期待されていたりすると困るのだが……。
私は、初めてのことにただただ戸惑うことしかできないでいた。
「さくらさん」
「あ、おかえり」
学校に戻ってきた彼は、もちろん制服姿で。手には、紙袋を持っていた。
「さくらさん、さくらさん」
手招きされて、近くへ行く。
彼の顔を見れば、はにかんだような照れた笑顔の中に、緊張があった。
緊張? 何故――突然の表情に戸惑いを重ねていると、目の前に一輪のバラが差し出された。
「赤い、バラ……?」
意外な物の登場に、ただただ驚く。まさか、こんなところで見ることに……それも、差し出されることになろうとは。
そして、だからこその意図があるのだろう。確かバラは、色や本数で意味が変わるものだったはず。
一輪は、そう――
「一目惚れ。貴方だけ……これ……」
「うん。これが、俺の気持ち」
「っ……」
花言葉を口にした途端、じわり。そして急速に、言い表すことのできない想いが広がっていく。それは、どんどんと溢れて。そうして、胸が苦しくなった。
なんて子なのだろう。いつも、私の予想の斜め上をいく。
まさか、バレンタインに高校一年生の男の子が一輪のバラを贈るなんてこと、彼以外の誰がするというのだろうか。
これじゃあ、まるで――
「さくらさん、受け取って。俺の気持ち」
「……」
「大好き。一生、一緒にいたい。さくらさん、俺と――」
「――だめ……」
まるで、夢の中であるかのようなシチュエーション――しかし遮ったのは、弱々しい声だった。
「さくらさん?」
期待に満ちた瞳が、翳る。
ああ、私は何をしているのだろうか。本当はどうしたいかなんて、わかっていたのに。
それでも、私が選ぶのは――
「ごめん……受け取れないよ……」
それは、物理的な問題などではなく。私が、彼を拒否したのだ。
「どうして?」
「ごめん……」
彼から目を逸らす。決意が鈍らないうちに、終わらせなくては。
「それじゃ、わからない。わからないよ」
「ごめん……」
「さくらさん」
理由なんて、明快だ。私が弱いからだ。
強くなりたいと、少しは強くなれたかと、そう思っていたのに。
「君の想いは、受け取れない。だって、私はやっぱり、ここから出られないの。どうしたって、出ることはできないの。だから、もうこれ以上は――」
貴方を殺せない私は、泡となって消えるの。
魔女すら現れない私は、どんな対価を捧げても足を手に入れることはできないの。
あるべき輪から外れた異端は、大地に、海に、空に、還っていくの。
そういうものなんだ。
そうあるべきものなんだ。
だから、さよならを選ぶの――
「わかった……」
俯きながら言った彼は、そのまま校舎内へと歩いていく。
これで良かったんだ。これ以上、彼に依存するものではない。こうするべきだったんだ、初めから。
少しの間だけでも、一緒に過ごせたことが奇跡だったのだから。だから、今日までの想い出をしっかりと抱いていこう。そして彼の卒業までをこっそり見守って、そうして、消えるんだ。
これで、いい。
こうあるべきだ。
最初に、そう決めたじゃないか。
それなのに。
なのに――
「どうして……」
苦しい。これ以上ないほどに。苦しすぎて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。目の前がぼやけて、何も見えない。
これは、彼の想いを踏み躙って逃げた、私への罰だ。だから、本当は私が泣くべきではない。きっと、泣きたいのは彼の方だ。
そう思うのに。
「うっ、あ……ごめん、なさい……」
嗚咽が漏れる。溢れて零れて、涙は止まりそうにない。
本当は、嬉しかった。
受け取りたかった。
まっすぐな想いを抱き締めて、同じだけ、いや、それ以上を返したかった。
「好き……私も……」
それができたなら、どんなに――
「ねえ、どうして泣いてまで、嘘吐いたの?」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。それくらいびっくりして、しばらく枯れそうになかった涙さえ止まってしまった。
顔が、上げられない。――どうして? 私、あんなひどいことをしたのに。
もう聞くこともないと思っていた声。
もう向けられることもないと思っていた視線。
もう見ることもないと思っていた表情。
それらがまた、私の前にある――
「最初と一緒だ……幽霊だから、出られないから、ダメだなんて――そんなの、もう通じないから」
まっすぐだ――向けられる視線も、想いも。
いつだって、そうだった。
「難しいことは、一人で考えて決めたりしないで……さくらさんの思う幸せが、俺の幸せだと決めないで!」
「あ……」
――ストン、と何かが落ちる音がした。
「ねえ、どうして泣いてるの? 教えて」
「っ……私……」
「うん」
「ごめん、なさい……」
逃げて、ごめんなさい。
踏み躙って、ごめんなさい。
泣いて、ごめんなさい。
嘘を吐かせて、ごめんなさい。
「私、本当は離れたくない。本当は、嬉しかった」
「もう……本当に、不器用だなあ」
俯く私に屈みこんで、彼は一輪のバラを差し出した。
「さくらさん、俺は貴方だけを愛しています」
花言葉になぞらえた告白。
やっぱり私、彼には敵わない。
「ありがとう」
花を受け取るように、ギュッと想いを抱き締める。
ああ、触れられたなら。そうしたら、今すぐ彼へと飛び込んでいくのに――
「いい? 俺は、さくらさんを手放す気なんてないから。覚悟しててもらわないと」
「う……」
にっこりと微笑まれて、タジタジになる。
「じゃあ、怖がりなさくらさんがまた逃げちゃう前に、ちゃんと話し合おうか」
「……はい」
今の私に、反論など許されてはいなかった。
ふいに聞こえてきた声に振り返ると、鼻と耳を赤くした彼がやって来たところだった。どうやら、日直仕事が終わったようだ。
マフラーで口元を覆い、手はコートのポケットの中に突っ込んでいる。
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私が枝の上にいるために、上目遣いで懇願された。
ああ、もう……可愛いなあ。
「さくらさんは、寒くないの?」
「そういうのは、わからないの」
「いいなあ……うー、さっむー」
二人並んで、図書室へと歩く。教室が暖かかったのだろう。あとは、寒さが苦手なのかもしれない。時折、体を震わせては足早に、それでも私の姿を確認しながら、暖かい室内へと足を踏み入れた。
良かった。私、ちゃんと笑えているみたい。彼と、いつも通りでいられている。
いつ言おう……タイミングは、きちんと見計らって伝えないとだよね……。
「本当に寒い……今日、降るって言ってたっけ?」
振られた話題にきょとんとして、目を瞬かせた。
誰が言っていたって? それは独り言だよね? と思いながら、私が知る由もないことを口にする彼を胡乱に見た。
「さくらさんって、天気とかそういうのは毎日チェックしてそう」
何だか笑いながら言われたけれど……うん、まあ、そうね。していましたよ。
窓から、外の様子を見る。積もる気配もないが、止むようにも見えない。早く、暖かい家に帰った方が賢いのではないだろうか。
「風邪ひいてもあれだし、今日はもう帰ったら?」
自転車で来ているのだ。夜にかけて、もっと寒くなるだろうに。漕いでいても、風が冷たいだろう。耳なんて冷たすぎて、寒いより痛いという感覚になる時期だ。
だというのに、彼の表情は案の定、ムスッとしていた。
「大丈夫」
意地を張るほど、一緒にいたいものだろうか。私は、もちろん嬉しい。けれど、そのせいで風邪をひいたりされるのは、嬉しくない。
そうは思いつつも、本人がこう言っているので、これ以上は何も言わないのだけれど。
「宿題するの?」
「そ。今日は量が多くて」
古典のプリントと戦い始めた彼を、隣で黙って見つめる。
テスト勉強の時もそうだが、彼は宿題もすべて学校で取り組む。家だと漫画やらゲームやらの誘惑に負けて、集中できないからだそうだ。
「……」
黙々とペンが進んでいく。聞こえるのは、ページを捲る紙の擦れる音と、カリカリという記入の音。そして、コチコチと時を刻む音。
「……」
静かだと、どうも思考の波が走ってやってくる。それは気付かないうちに私を呑み込んで、渦に押し込むのだ。そうしていつの間にか、囚われている。
内容は、専ら現状と未来のこと。
リアルによって願望は打ち砕かれ、選択肢は二つ。
そうあるべきと思うことと、そうしたいと思うことが相反していて、ズルズルとこうして今日まで来てしまった。
リュウにあんなことを言っておきながら、彼を前にすると怖くなる。私は、何も言えなくなってしまっていた。
このままがいい……いつまでもこのままでいられたら、どれだけ幸せだろうか。
だけど、それは望んではならないこと。
それでも、今だけはと、縋ってしまう。
弱い私が、現状に縋りついていた。
「ねえ、バレンタインどうする?」
突然聞こえて来たのは、今しがた図書室へ入ってきた女子たちの会話。そうか、もうすぐバレンタインか。
「私は毎年、板チョコ配ってる」
「え、何それ。面白いんだけど」
「私は、トリュフ作ろうかな」
小声ながらも、キャッキャと楽しそうな子たち。彼女たちが手にしているのは、お菓子作りの本だった。レオくんなら、紙袋の用意が必要なのでは……。
たくさん貰うのだろうなということは、容易に想像できた。別にそれを羨ましいとか、嫉妬とか、そういう感情はどうしてだか生まれることはなく、強がりでも何でもなく平気だった。
ただ、何もしてあげられないことに心の中で「ごめんね」と呟いたのだった。
そうして、数日が経ったある日のこと。私は誰に教えてもらうこともなく、今日が何の日かを察した。
朝からそわそわしている男子たちを尻目に、友チョコを配り歩く女子たち。残念ながら、本命イベントは本当に極小らしい。それどころか、女子のお祭りと化している。私の時も、周りは友達にあげたりしていたけれど。というか、私は誰にも渡すことはなかったのだけれど。このイベントって、こんな感じだったかな……。心なしか、教師までそわそわしているってどうなの。この学校、平和だなあ。
そんなことを思いながら、いつものように桜の枝に乗って正面を見る。いつも何故だか、気付くことも考えることもなく、この方向を向いていた。それが、一番しっくりきたからだ。
そして、これからも見続けていくのだろう。もしくは……。
「……」
三文字が浮かんで、瞼の裏に色濃く残る。
どうして、リアルはこんなにも迷路なのだろうか。
私は、シンデレラのように耐えて努力してきた人間ではないから、逃げてばかりいたから、だから私には魔女が現れないのだろうか。
それとも、もうこれ以上の奇跡は望んではならないという、私の強欲を戒められているのだろうか。
この現状がシアワセなのだと、そう思えたなら――
「さくらさん!」
ガヤガヤと騒めき始めた校舎から一人出てきたのは、彼だった。カバンが重そうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「いっぱい貰ったみたいね」
「ああ、これ? そうなんだ。にしても、本当に女子ってすごいよね。クラス全員に配ってたみたい」
きっと、そういう口実で君に渡している子もいるんじゃないの? ――なんて過ったことは流して、私は枝から下りて彼の元へと行った。
「もしかして、断った方が良かった? 彼女がいるから、貰えないって」
「何で?」
「……嫉妬させちゃったかなーって、思って」
「いや、別に」
あっけらかんと即答すると、彼が苦笑した。おかしなことでも言っただろうか。
「やっぱり、さくらさんだね。ドライっていうか、何ていうか……」
「嫌だった?」
「ううん。そういうところも好き。それに、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。俺の愛がしっかり伝わってるから、嫉妬する必要がないってことでしょ? だから、嬉しい」
「あ、そう……」
マフラーで隠れた口元が、嬉しそうにいつもの笑みを浮かべている……そんな表情が、見えるようだった。
「今日も寒いね。図書室行く?」
「えっと、ごめん。一回、家に帰ってくるよ」
「え?」
「ここで待っててくれる?」
「あ、うん……」
別に、帰ろうが構いやしないのだけれど、また来るとはいったい。私からは何もないので、期待されていたりすると困るのだが……。
私は、初めてのことにただただ戸惑うことしかできないでいた。
「さくらさん」
「あ、おかえり」
学校に戻ってきた彼は、もちろん制服姿で。手には、紙袋を持っていた。
「さくらさん、さくらさん」
手招きされて、近くへ行く。
彼の顔を見れば、はにかんだような照れた笑顔の中に、緊張があった。
緊張? 何故――突然の表情に戸惑いを重ねていると、目の前に一輪のバラが差し出された。
「赤い、バラ……?」
意外な物の登場に、ただただ驚く。まさか、こんなところで見ることに……それも、差し出されることになろうとは。
そして、だからこその意図があるのだろう。確かバラは、色や本数で意味が変わるものだったはず。
一輪は、そう――
「一目惚れ。貴方だけ……これ……」
「うん。これが、俺の気持ち」
「っ……」
花言葉を口にした途端、じわり。そして急速に、言い表すことのできない想いが広がっていく。それは、どんどんと溢れて。そうして、胸が苦しくなった。
なんて子なのだろう。いつも、私の予想の斜め上をいく。
まさか、バレンタインに高校一年生の男の子が一輪のバラを贈るなんてこと、彼以外の誰がするというのだろうか。
これじゃあ、まるで――
「さくらさん、受け取って。俺の気持ち」
「……」
「大好き。一生、一緒にいたい。さくらさん、俺と――」
「――だめ……」
まるで、夢の中であるかのようなシチュエーション――しかし遮ったのは、弱々しい声だった。
「さくらさん?」
期待に満ちた瞳が、翳る。
ああ、私は何をしているのだろうか。本当はどうしたいかなんて、わかっていたのに。
それでも、私が選ぶのは――
「ごめん……受け取れないよ……」
それは、物理的な問題などではなく。私が、彼を拒否したのだ。
「どうして?」
「ごめん……」
彼から目を逸らす。決意が鈍らないうちに、終わらせなくては。
「それじゃ、わからない。わからないよ」
「ごめん……」
「さくらさん」
理由なんて、明快だ。私が弱いからだ。
強くなりたいと、少しは強くなれたかと、そう思っていたのに。
「君の想いは、受け取れない。だって、私はやっぱり、ここから出られないの。どうしたって、出ることはできないの。だから、もうこれ以上は――」
貴方を殺せない私は、泡となって消えるの。
魔女すら現れない私は、どんな対価を捧げても足を手に入れることはできないの。
あるべき輪から外れた異端は、大地に、海に、空に、還っていくの。
そういうものなんだ。
そうあるべきものなんだ。
だから、さよならを選ぶの――
「わかった……」
俯きながら言った彼は、そのまま校舎内へと歩いていく。
これで良かったんだ。これ以上、彼に依存するものではない。こうするべきだったんだ、初めから。
少しの間だけでも、一緒に過ごせたことが奇跡だったのだから。だから、今日までの想い出をしっかりと抱いていこう。そして彼の卒業までをこっそり見守って、そうして、消えるんだ。
これで、いい。
こうあるべきだ。
最初に、そう決めたじゃないか。
それなのに。
なのに――
「どうして……」
苦しい。これ以上ないほどに。苦しすぎて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。目の前がぼやけて、何も見えない。
これは、彼の想いを踏み躙って逃げた、私への罰だ。だから、本当は私が泣くべきではない。きっと、泣きたいのは彼の方だ。
そう思うのに。
「うっ、あ……ごめん、なさい……」
嗚咽が漏れる。溢れて零れて、涙は止まりそうにない。
本当は、嬉しかった。
受け取りたかった。
まっすぐな想いを抱き締めて、同じだけ、いや、それ以上を返したかった。
「好き……私も……」
それができたなら、どんなに――
「ねえ、どうして泣いてまで、嘘吐いたの?」
「――っ!」
心臓が止まるかと思った。それくらいびっくりして、しばらく枯れそうになかった涙さえ止まってしまった。
顔が、上げられない。――どうして? 私、あんなひどいことをしたのに。
もう聞くこともないと思っていた声。
もう向けられることもないと思っていた視線。
もう見ることもないと思っていた表情。
それらがまた、私の前にある――
「最初と一緒だ……幽霊だから、出られないから、ダメだなんて――そんなの、もう通じないから」
まっすぐだ――向けられる視線も、想いも。
いつだって、そうだった。
「難しいことは、一人で考えて決めたりしないで……さくらさんの思う幸せが、俺の幸せだと決めないで!」
「あ……」
――ストン、と何かが落ちる音がした。
「ねえ、どうして泣いてるの? 教えて」
「っ……私……」
「うん」
「ごめん、なさい……」
逃げて、ごめんなさい。
踏み躙って、ごめんなさい。
泣いて、ごめんなさい。
嘘を吐かせて、ごめんなさい。
「私、本当は離れたくない。本当は、嬉しかった」
「もう……本当に、不器用だなあ」
俯く私に屈みこんで、彼は一輪のバラを差し出した。
「さくらさん、俺は貴方だけを愛しています」
花言葉になぞらえた告白。
やっぱり私、彼には敵わない。
「ありがとう」
花を受け取るように、ギュッと想いを抱き締める。
ああ、触れられたなら。そうしたら、今すぐ彼へと飛び込んでいくのに――
「いい? 俺は、さくらさんを手放す気なんてないから。覚悟しててもらわないと」
「う……」
にっこりと微笑まれて、タジタジになる。
「じゃあ、怖がりなさくらさんがまた逃げちゃう前に、ちゃんと話し合おうか」
「……はい」
今の私に、反論など許されてはいなかった。
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