きみにふれたい

広茂実理

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ときめきの8月

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 青い空に白い雲。蝉の声と眩しいまでの日差しが、より暑さを助長するように五感を刺激する。校内では、汗を光らせて部活動に励む生徒の姿と声。どこからか、軽音楽部や吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。それらをBGMに、私たちは涼しい図書室で日々を過ごしていた。夏休み真っ只中。彼は、ほとんど毎日こうして学校に来ては、図書室で勉強するフリをして、私と一緒にいる。
 そう――フリである。
「そのプリント、一向に埋まる様子がないけれど?」
「え? 気のせいでしょ」
「そんな気のせいがあるか」
「あはは」
 笑って誤魔化す彼に、溜息が漏れる。半眼で見つめれば、軽く肩を竦めていた。
「わかった。やるから。だから、そんな目で見ないで」
 彼が、ちゃんと家で宿題をやっているのは知っている。だけど、宿題の量は多いし、休み明けにはまたテストがある。私と遊び呆けていたせいで、成績が落ちた――そんな結末だけは、見たくない。私たちは何も、堕落するために一緒にいるわけではないのだから。
 互いにこうしている時間が貴重とはいえ、今この瞬間は、生きている彼にとっては瞬きほどの刹那なもの。一秒だって、無駄にしてほしくない。
 だからといって、四六時中、勉強しろと言っているわけではない。せめて、やると決めた量はこなしてもらいたいだけなのだ。
「そんなに見つめなくても、ちゃんとやるよ。終わったら、またいちゃいちゃしようね」
「い……わ、わかった……」
 いちゃいちゃも何も、触れられるわけでもないし、ここは学校だし……。
 それに、またって何だ。まるで、いつもやっているかのように言わないでほしいものだ。断じて、喜んでなんていないんだからね。
「そうだ。この前は、ありがとう」
「この前?」
「誕生日の日。嬉しかった」
「そんな……特別なことなんて、何もしてないよ」
 そう……先日の彼の誕生日は、ただただ一緒にいた。それだけ。何もいらないよと言う彼の隣で、いつものように同じ時間を過ごしたのだ。
 どうせ彼のことだから、私が恥ずかしがるようなことを言わせようとしてくるのでは……? と思って少し身構えていたのだが、本当に何も要求してこない。そのため、勝手に意識しまくった果てに、私の方が焦れてしまったという有様だ。
 今思い出しても恥ずかしい。なんと私は彼の帰り際、最後のチャンスとばかりに裏返った声で彼の名を呼んで、自分からキスの真似事をしたのだった。
 あれは正直、恥ずかしくて思い出したくもないのだけれど、それでも彼が顔を赤くして本当に嬉しそうに笑ったものだから、後悔なんて一瞬で吹き飛んでしまった。
 あんな顔を見ることができるのかと、幸せってこういうことを言うのかと、頑張って良かったと思えた日だった。
「そんなことないでしょ。さくらさんにしては、大胆な行動だった。俺のために頑張ってくれたんだなって思ったら、めちゃくちゃ嬉しかったよ。友達や家族から祝ってもらえたことも嬉しかったけど、その中で、ダントツ一番のプレゼントだった」
 無邪気な破顔を向けられて、私まで嬉しくなる。喜んでもらえて、本当に良かった。
 それからは、本日分の課題を終えた彼と、こそこそ話をしたりして過ごした。面白そうな本を一緒に読んだり、ただただ何もせずぼーっとしたり。時折こちらをじっと見つめてくるものだから、私は恥ずかしくてそわそわしてしまった。
「次に会えるのは、一週間後だね」
 帰る時間が近づくと、彼は決まって翌日や翌週の話をした。カレンダーを見る彼の手元を覗き込む。今日は、金曜日らしい。
 来週はお盆。その週に、彼は両親の実家へ、いわゆる帰省についていくことになっている。今年は一人で家に残ると言い出していたが、毎年お墓参りをしたり、親戚や祖父母に顔を見せたりしているのだと聞き、行ってあげてと言ったのだ。
 正直会えないのは寂しいと思うけれど、ゴールデンウイークの時もそうだったし、十年間も一人だったのだ。今更一週間くらい、待てる。
「お土産買ってくるね」
「ありがとう。その気持ちだけで、十分だよ」
「どうして?」
「どうしてって……何を買ってくるつもりよ。私は物を持てないし、食べ物も食べられないのに。お供えでもするつもり?」
 冗談めかしてそう言えば、彼は「そっか……」と黙ってしまった。私は、努めて明るい声を出す。
「お土産話を待っているね。綺麗な景色とかあったら、写真を見せてほしいな」
「わかった。メモリーいっぱいに写真撮ってくる」
「いっぱいって……どれだけ撮るつもりよ」
「さくらさんも一緒に行った気になれるくらいだよ」
「もう……」
 こんな言葉で、嬉しくなってしまえるのか。それとも、私の表情筋がだらしなく戻ることもできずに、緩みきってしまったのか。私が自身に呆れていると、ぽつりと呟く声が聞こえてきた。
「……ここから、出られたらいいのにね」
「ここから……」
「そうしたら、ずっとずっと一緒にいられるのに」
「……そうだね」
 そのずっとは――引っ掛かった言葉は、どこか奥に押しやって、ただ頷く。
「気を付けて行ってきてね。いってらっしゃい。またね」
「うん。行ってきます」
 自転車を走らせる彼の背を見送り、私はいつまでも手を振っていた。見えなくなるまでそうして、ふいに顔から表情を消す。
「どうして、出られないんだろう……」
 思わず漏れた声は、十年前のそれとは違う色を含んでいた。
 試しに、開いたままの校門から外へと一歩踏み出す。しかし、見えない壁でもあるかのように、それ以上前へ出ることができない。
 どうやら私は俗に言う、ここから離れることのできない地縛霊という存在らしい。もう幽霊だという自覚はあるのだが、何らかの理由があるのだろう。その何かのせいで、私は出られないでいるようだ。その事由がわかれば、苦労はしない。だけど、思い出せない。わからない。
 既にいろいろと、十年前に試してみているのだ。そしてダメだった。諦めた。
 それなのに、彼と過ごすことでこの十年できなかった、記憶を取り戻すことが少しずつ意識なく行われている。彼がきっかけとなっている。何事も。
 いつか、すべて思い出すことができるのだろうか。そうなったら、どうなるのだろう。そこには、病気で苦しかった記憶もあるだろうか。死ぬ間際の瞬間も。
 それは、覚えている必要のなかったこと? それとも、覚えていたくなかったこと? このまま思い出していくことは果たして、良いことなのだろうか。
 それでも、私は知りたいだろうか。ここから出られるかもしれないならば。
「ここから、出る……」
 出て、どうするの?
 ずっと、気になっていた。私の家はどうなっているだろう。家族は。友達は――それは、知りたいようで、知りたくないようなこと。
 それでも浮かぶのは、やっぱり彼の顔。一緒に行ってみたいところがある。隣に立って、見たい景色がある。卒業しても、そばにいられたら。
 一人じゃないから……だから怖いけれど、彼となら私は前を向くことができる。そんな気がする。
 たとえ、そこに何が待っていようとも――
「困ったなあ……」
 つい先程まで一緒にいたのに、考えるのは君のことばかりだよ。もう会いたくなってしまったよ。一週間、我慢できるかな……。
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