きみにふれたい

広茂実理

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煌めきの6月

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「見て、さくらさん」
 ある日、珍しくいつもより早い時間に登校して来たと思ったら、彼は自転車を所定の位置に停めることもせずに、一直線に私の元へとやって来た。そして、両腕を広げて笑ってみせるのだ。
「衣替え……」
「そ。今日から、夏服なんだ」
 イケメンというのは、何だろう。こう、何を着ても似合ってしまうものなのだろうか。雨上がりの景色に映える、キラキラな笑顔が眩しい。
「さくらさんに、一番に見て欲しくて、早起きしちゃった」
「……そう」
 なんだか出会った時よりも、どんどん子どもっぽくなってやしないか? まあ、別に構いやしないのだけれど。――ドキドキなんて、していないんだからね……!
「へへっ」
 笑わないでよ。可愛いから。
「何を笑っているの?」
「ううん、なんでもない」
 なんでもないって……まあいいか。
「自転車、置いてきたら?」
「うん」
 うんと言いつつも、彼は動かなかった。そのまま、ただ隣にいて微笑んでいた。だから、私ももう一度は言わないでおいた。
 そうして時間が過ぎて、彼が校舎へ姿を消すと、また雨が降ってきた。それは、誰かの代わりに空が泣いているかのような、しとしとと降る雨だった。
 濡れることなどないからと、構わずいつものように木の枝に腰掛けて空を仰ぐ。この身へと向かって降ってくるくせに、私を避けるなんて――まるで、雨にまで嫌われているようだと、自嘲のような薄笑いが浮かんだ。
 腕を思いきり伸ばしても、空を覆う雲になど一向に届きはしない。
 どれだけ空へと浮き上がっても、ここからは出ることなどできない。

 どこへも、行けない――

 私以外の何もかもが留まらないこの場所で、すべてに置いていかれて。
「私は……」
「さくらさん?」
 ビクリと体が跳ねた。声のする方へと顔を向ければ、この雨の中だというのに傘も差さない状態で、彼が木の下に立っていた。いつの間にか、昼休みの時間になっていたようだ。伸ばしていた腕を下ろし、彼の元へと下りて行く。その瞬間、私は異変に気付いた。

 ――彼を濡らすのは、本当に雨?
 ――今朝と違うのは、どうして?

「……」
「……」
「…………、濡れるよ」
 言いたかったのは、そんなことではなかったのに。彼の体が、無遠慮な雨に打たれ続けている姿を見ていられなくて、私はそんなことを口にしていた。
「……今日、傘忘れちゃって」
「だったら、わざわざここまで来なくてもいいじゃな――」
「――嫌だ!」
 間髪を入れず向けられた、叫びにも似た否定。体が、ビクリと跳ねる。彼が声を荒げるところを、初めて見た。
「さくらさんと一緒じゃないなんて、嫌だ。ほら、行こう」
 ついて行かなければ、彼がいつまでもここに留まろうとすることを知っていた。渋々と、私はこちらを振り返るその背を追って、校舎内へ向かう。
 いつも、昼は私の隣で食べる彼。普段なら、桜の木が日を避け、風を運んできてくれるけれど、雨の日はもちろん濡れてしまう。そういう時は決まって、あまり人の来ない校舎の端の階段に居座っていた。今日もその階段へと、腰を落ち着ける。
「濡れちゃったね」
 ね――って。同意を求められても、私は濡れないので困るのだが……。
 いや、困るのは目のやり場の方だった。濡れて色気のある高一男子って、どうなの?
「拭くものないの? 風邪ひくよ」
「ない。でも、風邪はひかない」
 何それ。何だか、宣言された……。どういうこと?
「風邪なんかで学校休んだら、俺死んじゃうよ」
「――はい?」
「……さくらさんって、時々反応がドライっていうか、キツイよね。傷つくよ、俺」
 苦笑いしながら、そんなことを言われても……。
「だって、ただでさえ休みの日はさくらさんに会えなくて辛いのにさ。休んでる場合じゃないよ」
 どうやら風邪どころか、既に頭の方が重症のようだった。
「だったら、体を壊す要因になるような真似はしないことね」
「わかった。心配してくれて、ありがとう」
「別に、心配なんて……」
「うん」
 まったく、彼には何を言ってもダメなようだ。にっこりと笑われ、すべて包まれていく。
 話をしたいと言いながらも、彼とは会話にならないことがある。どうも、私の口を閉ざすのが上手いようなのだ。そして、その沈黙すら苦ではない――それは、彼も同じらしい。平気な顔をして、ただ隣にいる。寄り添うこともできないというのに。濡れた彼の体を滴るものを、拭ってあげることもできやしないのに。ただただ、隣――目の届くところに、声の聞こえる範囲にいるのだ。まるで、私の感覚を狂わすかのように、惑わすかのように、刷り込ませるかのように。私の大嫌いなものや、信じていないものへの価値観を根こそぎひっくり返してしまいそうなほどに、心を占めてくる。
 意味を求めてはいけないのだろうか、この関係は。
 先を想像してはいけないのだろうか、この二人に。
 真意を聞いてはいけないのだろうか、この人には。
「……」
 開いた口は、まるでエサを求める金魚のように、また閉じられた。
 どうも十八歳で時の止まった私は、元来大人びていたつもりだったのだが、それは自分をも騙す演技だったようだ。傷つくことを恐れて逃げてばかりいたツケが、こんなところで露わになるなんて。
 私は、小さな籠の中の世界しか知らない、飛んだこともないから翼を持たないことにも気付くことができない、ナニカ。
 素直さを、無邪気さをどこかに置いてきた、子どもでもない、大人にもなりきれないモノ。
 臆病な、何にもなれない幽霊。
 だから曝け出せない。だから言葉をあげられない。だから聞き出せない。だから言葉を掛けられない。だから――
「さくらさん。大丈夫だから、泣かないで」
「え……?」
 言われてから気付くなんてこと、本当にあるんだ……。たった一滴が、私の頬を滑っていた。
「触れられたら、拭ってあげられるのに……」
 それは、こちらのセリフだと思った。その言葉は、声は、ひどく切なかった。
「俺は、大丈夫だよ」
「だけど……」
「もう、こんなことないから」
「本当に?」
「うん。ごめんね」
 その言葉に、静まりかけた想いが溢れてしまった。
「何で……何で君が謝るの? 痛いのは、君でしょう?」
 私の声が、廊下に響く。視界の隅で、痛々しい白が大きく見えた。
 朝にはなかった、清潔感溢れる包帯が、彼の腕で存在を主張している。その一部が、赤く滲んでいた。
 それは、自分でしたの? そんなわけないよね。

 ――ねえ、誰にされたの?

「ごめんね」
「だから、謝らないで」
「でも、さくらさんを泣かせてしまったから……」
「君が謝る必要なんてない。どこにもない!」
「それでも、ごめん」
 涙が、想いが、溢れて止められなかった。
「ねえ、泣かないで」
 その声が優しくて、ひどく心に刺さる。
「私、私……ごめんなさい……」
 その言葉は、私の心そのままのものだった。留めておけなくて、口から溢れ出した想い。
「君が何も言わないから、気付かないフリをしていたけれど、できなくて……」
「さくらさん……」
「どうして、こんなに痛いんだろう。君が傷付いているのに、知らないフリなんてできないよ。苦しいの、助けてよ。なんで黙っているの? いつもみたいに、こんなことがあったよって、へらへら笑いながら、聞いてもいないことを教えてよ!」
 泣いている姿を見られたくなくて、両手で顔を覆った。だから、彼が今どんな表情をしているのかなんて、知らない。
 ああ、外の雨が強くなってきたみたい……すぐ隣からも、水音しか聞こえなかった。
 そうして、どれだけの時間が経っただろうか――心がだんだんと落ち着いてきた。私は、冷静になってきた頭で、先程のことを振り返ってしまう。どうして、そんな映像を再生してしまったのだろうか。有り得ない。恥ずかしい。しかも、何か余計なことを口走った気がする。
 隣も落ち着いたようで、横目で見れば楽しそうに私を見ていた。二人で、真っ赤な鼻と目をからかいあう。
「休み時間、終わるよ」
「こんな顔で戻れないよ……ねえ、ずっと、ここにいたい」
 その声はとても甘くて、頭が痺れるには十分なものだった。
 もし、ずっと一緒にいられたら――刹那の気の迷いに酔ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、私は首を横に振った。
「……それはダメ。顔、洗ってきなよ。そこまでひどくないし、少し引いてきているから大丈夫そうだよ。それに、どうしてもその腕に目がいってしまうし……こういう時こそ、堂々と戻ってきなさい」
「……わかった。じゃあ、あれだ。怪我が痛すぎて、泣いちゃったことにしよう」
 まったく、すぐに茶化そうとするんだから。
「……クラスの子は、知らないの?」
「知らないよ」
「……後で、ちゃんと説明してほしい。無理にとは、言わないけど……。とにかく、私はここで待っているから。ほら、チャイム鳴るよ」
「わかった。放課後、またここでね」
「うん」
 名残惜しそうな目をして手を振り歩いて行く彼の背を、本当は追いかけたかった。けれど、ぐっと我慢した。
 だってそうしないと、どこまでも落ちてしまいそうな気がしたから。
 墜ちて、堕ちて――そうなったら、もう這い上がれない。戻れない。
 それはダメだ。彼を引き込んではならない。
 これは、今だけ……彼が望んでいる間だけの、有限の時間なのだから。
 いつかは、終わること――永遠も、ずっとすら存在しない、今を生きる彼だから。
 そんな彼との時間だから、何も望んではならない。私に、そんな資格はないのだから。
「後で、か。待っているだって……私、いつからそんなことを平気で言うようになったんだろう?」
 呟いた声は、嘲りの色。聞こえてくる静かな空の涙に、私はただ窓の向こうを眺めていた。
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