きみにふれたい

広茂実理

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偽りの4月

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 広がる景色に、目を細める。
 暖かな風が悪戯に吹き、芽吹いた花びらをそこかしこへ散らした。晴れたり雨が降ったりと、最近の雲は忙しない。行き交う人の服装も、随分と身軽になったようだ。
「春だねえ」
 そんなことを呟き、私は見慣れた景色から目を逸らす。
 ぱさりと揺れる長い黒髪が、視界を塞いだ。それを耳にかけながら、溜息を一つ。それは、いつもの退屈によって生まれたものではなかった。
 どうやら、今日は始業式のようだ。
 春休みの静けさを打ち消すように、生徒たちの賑やかな声があちこちから聞こえてくる。私は、いつものように学校の桜の木の枝へ腰掛けながら、久々に登校してきた学生たちを見下ろしていた。
 ……あの子は、この中のどこかにいるのだろうか――無意識に目が探していることに気付いた瞬間、私はぶんぶんと首を横に振っていた。
 どうして思い浮かべてしまうのだろうか――ふとした瞬間に考えているのは、入学式に会った彼のこと。
 後悔などしていない。私は幽霊なのだから、人と恋愛などできるわけがない。
 そう――私は、もう生きてはいないのだから。
 蘇った数日前の記憶を払うように、私は目を閉じた。

 ――あれは、十年前のことだった。気が付いたら、私はここにいた。すぐさま自分に肉体のないことを察した私は、その理由が知りたくて記憶を辿った。
 しかし、自分が病気だったということと、この学校の三年の生徒だったこと。そして、名前……。それ以外に、覚えていることはなかった。何一つ、思い出せなかったのだ。
 そうして、そこかしこを彷徨って、この高校の敷地内から出られないということを知った。どうしてこの場に囚われているのか、それは私にもわからない。失ってしまった記憶の中にヒントがあるような気がして、当時は想起に繋がる何かがないか、学校中をくまなく探したものだ。
 しかし、それもいつしか止めてしまった。諦めた。何一つ、欠片さえ見つけることができなかったからだ。
 得たことといえば、ただ一つ――何にも触れられず、誰の目にも映らない、そんな虚しいリアル。
 一人だけ長い永い夢を、覚めることのない悪夢を見続けているかのよう――いや、そもそも夢だったならば、どんなに良かったか。
 これが現実――ならば、こんな空虚な思いを抱いて、これからどうすればいいのか。何のために、自分はここにいるのだろうか……。考える時間は、たくさんある。それが幸か不幸かは、思考し続けた先に決めればいい。どうせ、誰にも干渉されることのない、籠の中の自由なのだから。
 それから私は、ずっとこの枝にいる。こうして、大きな優しさに甘えている。この木が許可してくれたから。ここは唯一、私が体を預けることを許せる場所だ。
 何もせずにただここで、流れる時を見てきた。毎日、時を刻み数えるという、途方もなく無意味なこと。それだけをこの十年間、止め時を失った私はずっと続けている。
 それが、ただ空虚感を煽るだけと知りながらも――
「もう、あれから十年か……」
 誰に言うわけでもなく呟いた声は、届かず消える――そのはずだった。
「十年間、ここにいるの?」
 突然聞こえてきた声に、動くわけもない心臓が跳ねた。
「良かった。また会えた」
 木の下には、眩しい笑顔。間違えるはずがない。入学式の時の、あの子だ。
「どうして……」
 どうして、ここに?
 どうして、笑っているの?
 どうして、そんなに嬉しそうにしているの?
 どうして……あの日、傷ついた顔で愕然としていたくせに――
「あの時どこかに消えちゃったから、もう会えないかと思った」
 心底嬉しいとでも言うかのように、彼は満面の笑みで私を見上げた。向けられる眼差しに、いっぱいの想いが詰め込まれている。
 その視線に、ぎゅうっと胸の辺りが苦しくなった。していない息が、しづらい。
 目を逸らすこともできず、たくさんの「どうして」をぐっと呑み込んで。私は、彼の目の前まで下りて行った。呑んだものよりも、言わないといけないことがあると思ったからだ。
 そんな呆れなど微塵も勘付いていない様子で、彼は私が近付いたことに更に笑みを深くした。
 イケメンの無邪気な笑顔って、可愛い。破壊力がある……じゃなくて!
「君は、私が幽霊だってことを、ちゃんとわかっているの?」
「もちろん」
「そ、そう……」
 笑顔であっさりと肯定されたことに、出鼻を挫かれる。
 この子は、私が呆れていることに気付いていないのだろうか。人の気持ちを汲めない子なのだろうか。鈍感なのだろうか。もしもわかっていてやっているのなら、質が悪い。
 そんな考えが、顔に出ていたのだろう。彼は、少し慌てた様子で言葉を継いだ。
「怒らないで。確かに時々、生きている人か幽霊なのかがわからないこともあるけど、今回はちゃんとわかってるよ」
「……わかっていて、あんなことを?」
「あんなことって、もしかして告白のこと? そんな言い方、しないでほしいな。めちゃくちゃ緊張したし、真剣だったのに」
 ムッとした顔で、拗ねたように言う新入生。どうも、外見がこれなので忘れそうになってしまうが、改めて彼が私より年下なのだという事実を認識させられた。
「それは、ごめんなさい……だけど、尚更理解ができない。私が幽霊だとわかっていて、付き合ってほしいだなんて……」
 彼の方が私よりも背が高いので、自然と見上げる形になる。すると、もう機嫌が直ったのか、無邪気な瞳と視線がぶつかった。
「理解できないなんて言われても。好きな人に好きって言うのに、説明や理由が必要なの?」
「――え……」
 言葉を失うとは、こういうことかと思った。ダメだ。このままだと、呑まれる。
「そ、それは……生きている人の話でしょ。もう死んでいる人間を口説いて、どうするのよ」
「そんなこと言われたって……。だって、好きになっちゃったんだから、仕方ないでしょ?」
 眩しくて、自信たっぷりの笑顔。偽りのない気持ちをぶつけてくる言葉。
 いったい、どうすれば諦めてくれるというの? こんな意味のないことの終着点は、どこ?
 そう私が戸惑っていると、彼は頭の後ろを掻きながら、構わず話し続けた。それはどこか照れくさそうで、口はまったく挟めそうにない。
「俺、中二の時に進路とか、まあ、いろいろ悩んでいた頃に、この学校の前まで来たことがあるんだ。気分転換に散歩をしたかったのと、学校の雰囲気を見ておきたいなと思ったのが理由なんだけどね。その時だよ。この木の枝に座っていた貴方を、見つけたんだ」
 知らなかった。この木は割と正門から近いのに、まったく気付かなかった。
「その姿に、一目惚れした。だから、この学校を志望したんだ。でも、当時の学力じゃギリギリだったから、それからめちゃくちゃ勉強した。貴方のそばにいたくて、努力して、それでこの学校に入学したんだ」
 ああ、もう……どうして、そんなに真剣な目で私を見るのだろうか。困る。困るのだ。やっと、今の環境に慣れたのに。掻き乱されそうで、呑まれそうで、翻弄されそうで、私は……。
「入学式の日にやっと貴方を目の前にして、そばに立つことができて、すごく嬉しくて。ようやく、ここまで来れたって思って、真剣に告白したのにさ……なのに、貴方の返事は幽霊だからダメ、だもんな」
 数分前の自分に、彼に呆れていた私に教えてあげたい。侮っていた年下の彼は、人の気持ちを汲めない子でも、鈍感でもない。むしろ、私に怒ってさえいる。年齢にそぐわない、妙に賢い思考で言葉を放つ。それが違和感で、なんだか気になった。
「しかも、それだけ言って消えちゃうなんて、ひどいと思うんだけど。俺、かなりショック受けたし、落ち込んだし。フラれたって思ってさ、ご飯の味もわからなかったんだからね」
 ……ご飯は食べたのね。って、そうじゃないか。
「でも、その後考えたんだけどさ。俺、まだフラれてないよね。幽霊ってことを気にしているのなら、俺は構わないよ。貴方といられるなら、手も繋げなくていい」
 ――え?
「いや、あの……理由は何であれ、私は断ったよ、ね?」
 だから、まだフラれていないとか、よくわからないポジティブなことを言われても困るんですけど……。
 そう私が戸惑っていると、目の前の彼はきょとんとしていた。
 どうして、びっくりされるの? 驚いているのは、こちらなのだけれど。
「え? 何で? もしかして、俺のこと嫌い?」
「え、いや、そんなことは……」
 嫌いかと聞くのって、ズルい人がすることだと思う。わかっていてやっているのだろうか。
「幽霊ってことを抜きにしても、俺じゃダメ?」
「……」
 しゅんとする彼に、思わず手を差し伸べたくなってしまった。
 困った。返す言葉が出てこない。ただ一言「そうだ」と、突き放してしまえばいいだけなのに。
 早く、早く言わなきゃ……。そう思うのに、どうして声が出ないのだろう。
「……そうだよね。いきなり現れて、こんなのおかしいよね。ごめんなさい、困らせて……つい浮かれちゃって、はしゃぎすぎた」
 今度は、先程までとは打って変わった、弱々しい声。どうやら、彼なりに反省したらしい。傷付いた顔を見ていられなくて、私は目を逸らしてしまった。なんと声を掛ければいいのか、わからない。
「じゃあさ、恋人じゃなくていい。三年だけだと思って、友達としてそばにいることを許してよ」
「え――」
 なんてことを言うのだろう。そして、私は彼になんてことを言わせてしまったのだろう。私は、衝撃に言葉を失ってしまった。俯いていた彼の顔が、見開いた私の瞳を捉える。
「ごめんなさい。俺、ひどいことを言ってるって、わかってるつもりだよ。これから三年間ずっとそばにいて、そして貴方を残して一人だけ卒業していなくなるんだから。こんなの、自己中なワガママだ。だけど、どうしても諦められなくて……だから、お願い……」
 ああ、そんな風に泣きそうな声で言うなんて、本当にズルい。
 この子はやっぱり、妙に大人びていると思う。そして時々、幼い子どもになる。
 ワガママな、年下の男の子。
 表情がころころと変わって、見ていて飽きないのだから不思議だ。
「そうね……」
 三年で終わる関係――いや、そんなに続くかどうか。だって彼の周りには、綺麗な子も可愛い子もたくさんいるだろうし。いつかもっと素敵な人と出会って、真っ当に生きるのだろう。その時が来たら、私は寂しいと思うかもしれないだろうけれど、そうあるべきなんだ。こうして私に気持ちが向いているのなんて、一時のことだろうし。
 それでも、こんなに想ってもらえることは正直嬉しい。好意を向けられるのなんて、いつぶりだろうか。
 人と話したのだって、十年ぶりだった。だからだろう。入学式の日から、彼のことを忘れられなかったのは。
 私だって、彼との時間をどこかで楽しんでいる――だから、いいかもしれない。どうせ一人で過ぎ行くだけの、惰性の日々だ。退屈に流れた十年間に、ちょっとした彩りが添えられるだけ。そうして、また元に戻るだけ。
 終わるとわかっている関係――孤独感に今更傷付いたところで、そう……構いやしない。
 生前の私が何をしたか知らないけれど、これも何かの罰なのかもしれない。
 それに、ここで断ったとしても、どうせ構わず今日みたいに現れるだろうということが、容易に想像できてしまった。
「わかった。好きにすればいい。どうせ、私はこの学校から出られないのだから」
 そう言うと、彼は満開の花のように、嬉しそうな顔で笑った。
「本当に? ありがとう! あ、そういや、まだ名前も言ってなかったね。俺はレオ。黒崎礼央くろさきれおだよ」
「……さくら」
「さくら……綺麗な名前だ」
 さあっと風が吹いた。春の風は、どうしてこう悪戯なのだろうか。花びらを乗せて、彼の笑顔を更に煌かせる。
 すとんと、落ちる音がした。
 恋って、するものじゃないんだね。死んでから知るとは、思わなかったよ。
 学校のチャイムが鳴り響く。シンデレラにかけられた魔法が解ける時間を、告げるみたいに。
「もう行かないと。また来るから。またね、さくらさん」
 そう言って、彼は足早に校舎へと駆けていく。時折振り返りながら、ブンブンと大きく手を振って。
「騒がしい子……」
 思わず、くすりと笑みが零れる。もう姿も見えないというのに、私は彼が消えていった校舎の入り口を、ずっと見ていた。
 しかし、ふっと去来した想いに、今度は嘲笑する。
「滑稽ね……」
 この日私たちは、互いと自らを偽った。エイプリルフールでもないというのに。
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