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さまよう、からす
跨
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どうやってここまで来たのか分からない程、ゆづかは夢うつつで吉村屋の暖簾の前に立っている。
今度は暖簾の向こうへ足を踏み入れる事が、ゆづかには出来なかった。
花街にいた人間が大店の女将になる事だって、どこかの国のお殿様の側室になる事だってある事をゆづかは知っている。話で聞いたことも、自分の目で見た事だってあった。
しかし、ゆづかは自分が特殊である事を重々理解しているつもりだ。
今からもう男に戻れないし、男になれる自信すらない。
でも本当の女には絶対になれない。
そんな自分が大きな船宿の子供になっても良いのだろうか。ここの人達は嫌じゃないのだろうか。珍しくゆづかはそうした事がぐるぐると回る。
あの冠木門の向こうの、夜華やぐ世界ならこんな事を考えなかったし考える必要もゆづかにはなかった。
悪い事を想像する事も、良い事を想像したり、何かについて都合良く想像する事だって殆どしなかった──しないようにしていた、が正しい言葉かもしれないけれど──ゆづかにとって、この状況ではゆづかの頭の中で様々な想像が忙しなく駆け巡る。
その所為だろう、のめりの下駄がまるで地へ埋まったかの様に足が前に進まない。
ついに下駄の先を見たまま動かなくなったそんなゆづかを見て、勇蔵がさっと小さな体を抱き上げるとそのまま暖簾を潜ってしまった。
その時の気持ちを勇蔵は後にこう言っている。
──────あまりに愛らしくて、いじらしくて、早く奉公人達に紹介したくて我慢が出来なかった。
ゆづかは入った途端に奉公人全員の視線を浴びた。しかし勇蔵はゆづかを自分の前に奉公人の方へ向けて下ろしてしまっているし、固まったゆづかと言えば視線を外す事も出来ない。
だから気が付けた。
誰もが自分を普通の子供として見ている事も、誰もが自分に対して媚を売った笑顔を向けていない事も、そしてこんなにも大勢の人に囲まれて始めて温かいという温度を──────心を貫くほどの優しい温度を感じた事を。
「っ……く、ぅ」
唇を噛んだゆづかが俯く。
それにここの奉公人が自分が何かしただろうかと近くの人間と顔を合わせるが、ゆづかの震える肩を後ろから優しく握った勇蔵の視線を受け、勇蔵の隣のお香がゆづかを覗き込んで手ぬぐいを渡している様を見て、それぞれが「どうも自分達が粗相をした訳ではないようだ」と、その光景を穏やかな顔で見る。
それだけの光景でそう思えたのは唐突に『子供を迎えようと思う』と自分たちに言った二人──────しかも二人とも思慮深いのにも関わらず唐突に言い出し行動に移したこの二人が、この状況で自分たちに非難めいた視線も態度も取らなかったからだ。
唐突に衝動に突き動かされる様に動いた二人がどれほど、この泣き出した子供に向けて愛を注ごうとしているか。それを考えればこの二人の対応だけで「自分たちに非は無いみたいだ」と理解出来る物。
ここで働く彼らとこの二人の間にはそれ程に大きな絆がある。
「さて、昨日言った様にね、この子が私たちの子供だよ。いいかい、お前達には全てを話してある。それは私も香もお前達を信頼しているからだ。今更だけれど言わせてもらうよ、私はいつだってお前達を頼りにしているし、信頼もしている。今回もどうか私たちを支えて欲しい。その通りに、宜しく頼むね。どうか、頼むよ」
その言葉が終わると同時にゆづかが堰を切った様に大声で泣き始めた。何かに縋る様に伸ばした手はお香が受け止め、その小さな体を抱きしめる。
息も吸えない様な泣き方に勇蔵の顔が奉公人も見た事無い程に心配そうになるのを見て、奉公人はそれぞれまた顔を見合わせてから各自の持ち場へと戻って行く。中には“子を持つ親”だっているから、そんなゆづかの泣き方を見て我が子の様に心配する様な顔をする者もいた。
そんな各自思う事は多少違うとはいえ皆が皆、ゆづかを受け入れた表情であるからその奉公人の顔に
(やはり自分は間違っていない。おれの所の人間は江戸で一番だ)
と彼らの意気込みを勇蔵はみ、崩れ落ちたゆづかをそれは愛おしそうにお香ごと抱きとめて支える。
「ここでは膝が痛くなる。ほら、おれが連れて行こうな」
“親子三人”の空間になった店の表を離れ、店を開けようと裏手から出た番頭は表に立つと今日一番の客を見つけ彼を裏手へと案内して行く。表ではまだゆづかが泣いているだろうから、と判断しての事だ。
「番頭さん、表で泣き声が聞こえたけども、何かあったのかい?」
「ええ、旦那様と奥様が可愛らしいお嬢様を泣かせてしまいまして、その声でございますよ」
その声を嬉しそうに聞くお香はしゃくり泣くゆづかを抱き上げた勇蔵に続き奥へと上がる。その先、もう一人の番頭へ声をかけるのも忘れない。
「この子の事は──────」
「はい奥様、ゆづかお嬢様の事を訪ねられた時はお任せ下さい。見せろと言われてもあまりに愛らしいのでお見せ出来ない、と私は勝手ながら、必ず付け加える事に致しますけれどね」
「ふふふ、全くその通りにしておきたいわね」
奥へ続く道を歩くお香はなぜか店が明るくなった気がすると感じる。
それはお香から「下がるから、表を開けてちょうだいね」と言われた先の番頭も同じなのかもしれない。それほど、ゆづかは歓迎を受けているのだ。
それは全て、ゆづかが勇蔵とお香に子供にしたいと思わせた魅力と、夫婦二人の人徳なのだろう。
「ほらほらゆづか、目が赤くなるから擦っては」
「ふっう、うわああぁっん、ンっ」
「もう聞こえてませんね、これでは気が落ちてしまいますよ、ふふふ」
「うぁああんっふぁあん」
「お香、笑ってる場合じゃないだろう。そうなったらお前、どうするんだ。医者か………!どの医者を呼べばいいんだ!?いや、ここは川向こうの」
「まあ、そんな顔を青ざめさせて、ゆづかより先に医者が必要になりますよ。その時はそれこそ川向こうの先生を呼ばなきゃいけませんね。あらまあ、ゆづか、髪をこんなに乱してまあまあ」
茶を持って来た女中頭の耳には障子越しに聞こえる三者三様の声に、障子にかけようとした手を下ろす。
中からは大きな泣き声と、完全に焦り混じりで混乱している様にも聞こえる勇蔵の声、そしていつもと同じどこか抜けているのにやはり焦っている節があるお香の声が漏れてくる。
その会話に盆に乗せたそれを残しそっと立ち上がった女中頭は、傍に来た他の女中に桶に水と手ぬぐいをと言いつけ、「持ってきたらここへ、中に声をかけずに置いておく様に」と言えば声で判断出来たのだろう、その女中も笑って頷き奥へと消えた。
桶に入れる水は冷たい。しかしそれを入れている女中の心は何故かとてもほわりとした物を持っていた。
──────勇蔵もお香も頼り甲斐があるとても良い主である。
そう思っているのはこの女中だけではないだろう。
劣悪な環境だってある中で、ここは離れ難い職場であった。
雇い主である夫婦に信頼されているとは感じていたし、だからこそ心地よく仕事が出来ていて、自分たちもそうやって奉公人を心底大切にしてくれる主らを信頼して、ますます心地良くなる。その環境を作る主が自分たち奉公人をどう見ているか、それは言われずとも感じていた。
しかしその思いと言う事をはっきりと明確に、あそこまで言われた事はあまりなかった。
なのにゆづかを迎えるとなって、ああして言われる事が続けて二回だ。
正直誰もが驚いた。
夫婦が誰を養子にしても奉公人に相談まがいな事や、仮に見た目と事実の性別が違おうが、主なのだからし締めても良いと思うのに、彼らは夫婦二人で奉公人に話し伝えそして支えて欲しいと頭を下げる。
(そんな風に自然と行動したくなる、何かを持った子供なのだろうか)
そう思った奉公人達の答えは、ゆづかとそしてそれを支えて店の奥へと上がった勇蔵とお香が教えてくれた。
この家族を、私たちも守っていこう。
どうしてそう思えたのか。彼ら奉公人は同じ思いだ。
夫婦の人柄でもあり、自分たちへ向けてくれる信頼と愛情でもあり、そして不思議と魅力的な子供だから、自然と受け入れる事が出来たのだと。
桶に貯めた水にこの女中もそう思う。
そして早くこれを届けて、夕餉の支度に力を入れようと話す仲間の会話に加わりたいと急ぎ足で廊下を渡るのだ。
そんな気持ちのこもった手ぬぐいが縁にかかった桶が到着し、部屋の前に置いた女中が部屋の前から消えた後、泣き声まじりで自分を抱きしめる二人に
「わたし、わたし、がんばるからっわたし、ここにいたい、いたいよぉおっ」
と、ゆづかが言ったのはこの部屋にいた三人だけが知っている。
その言葉がどれだけこの家に大きな愛をもたらせたか、それを夫婦二人、気がつくのは直ぐの事だろう。
今度は暖簾の向こうへ足を踏み入れる事が、ゆづかには出来なかった。
花街にいた人間が大店の女将になる事だって、どこかの国のお殿様の側室になる事だってある事をゆづかは知っている。話で聞いたことも、自分の目で見た事だってあった。
しかし、ゆづかは自分が特殊である事を重々理解しているつもりだ。
今からもう男に戻れないし、男になれる自信すらない。
でも本当の女には絶対になれない。
そんな自分が大きな船宿の子供になっても良いのだろうか。ここの人達は嫌じゃないのだろうか。珍しくゆづかはそうした事がぐるぐると回る。
あの冠木門の向こうの、夜華やぐ世界ならこんな事を考えなかったし考える必要もゆづかにはなかった。
悪い事を想像する事も、良い事を想像したり、何かについて都合良く想像する事だって殆どしなかった──しないようにしていた、が正しい言葉かもしれないけれど──ゆづかにとって、この状況ではゆづかの頭の中で様々な想像が忙しなく駆け巡る。
その所為だろう、のめりの下駄がまるで地へ埋まったかの様に足が前に進まない。
ついに下駄の先を見たまま動かなくなったそんなゆづかを見て、勇蔵がさっと小さな体を抱き上げるとそのまま暖簾を潜ってしまった。
その時の気持ちを勇蔵は後にこう言っている。
──────あまりに愛らしくて、いじらしくて、早く奉公人達に紹介したくて我慢が出来なかった。
ゆづかは入った途端に奉公人全員の視線を浴びた。しかし勇蔵はゆづかを自分の前に奉公人の方へ向けて下ろしてしまっているし、固まったゆづかと言えば視線を外す事も出来ない。
だから気が付けた。
誰もが自分を普通の子供として見ている事も、誰もが自分に対して媚を売った笑顔を向けていない事も、そしてこんなにも大勢の人に囲まれて始めて温かいという温度を──────心を貫くほどの優しい温度を感じた事を。
「っ……く、ぅ」
唇を噛んだゆづかが俯く。
それにここの奉公人が自分が何かしただろうかと近くの人間と顔を合わせるが、ゆづかの震える肩を後ろから優しく握った勇蔵の視線を受け、勇蔵の隣のお香がゆづかを覗き込んで手ぬぐいを渡している様を見て、それぞれが「どうも自分達が粗相をした訳ではないようだ」と、その光景を穏やかな顔で見る。
それだけの光景でそう思えたのは唐突に『子供を迎えようと思う』と自分たちに言った二人──────しかも二人とも思慮深いのにも関わらず唐突に言い出し行動に移したこの二人が、この状況で自分たちに非難めいた視線も態度も取らなかったからだ。
唐突に衝動に突き動かされる様に動いた二人がどれほど、この泣き出した子供に向けて愛を注ごうとしているか。それを考えればこの二人の対応だけで「自分たちに非は無いみたいだ」と理解出来る物。
ここで働く彼らとこの二人の間にはそれ程に大きな絆がある。
「さて、昨日言った様にね、この子が私たちの子供だよ。いいかい、お前達には全てを話してある。それは私も香もお前達を信頼しているからだ。今更だけれど言わせてもらうよ、私はいつだってお前達を頼りにしているし、信頼もしている。今回もどうか私たちを支えて欲しい。その通りに、宜しく頼むね。どうか、頼むよ」
その言葉が終わると同時にゆづかが堰を切った様に大声で泣き始めた。何かに縋る様に伸ばした手はお香が受け止め、その小さな体を抱きしめる。
息も吸えない様な泣き方に勇蔵の顔が奉公人も見た事無い程に心配そうになるのを見て、奉公人はそれぞれまた顔を見合わせてから各自の持ち場へと戻って行く。中には“子を持つ親”だっているから、そんなゆづかの泣き方を見て我が子の様に心配する様な顔をする者もいた。
そんな各自思う事は多少違うとはいえ皆が皆、ゆづかを受け入れた表情であるからその奉公人の顔に
(やはり自分は間違っていない。おれの所の人間は江戸で一番だ)
と彼らの意気込みを勇蔵はみ、崩れ落ちたゆづかをそれは愛おしそうにお香ごと抱きとめて支える。
「ここでは膝が痛くなる。ほら、おれが連れて行こうな」
“親子三人”の空間になった店の表を離れ、店を開けようと裏手から出た番頭は表に立つと今日一番の客を見つけ彼を裏手へと案内して行く。表ではまだゆづかが泣いているだろうから、と判断しての事だ。
「番頭さん、表で泣き声が聞こえたけども、何かあったのかい?」
「ええ、旦那様と奥様が可愛らしいお嬢様を泣かせてしまいまして、その声でございますよ」
その声を嬉しそうに聞くお香はしゃくり泣くゆづかを抱き上げた勇蔵に続き奥へと上がる。その先、もう一人の番頭へ声をかけるのも忘れない。
「この子の事は──────」
「はい奥様、ゆづかお嬢様の事を訪ねられた時はお任せ下さい。見せろと言われてもあまりに愛らしいのでお見せ出来ない、と私は勝手ながら、必ず付け加える事に致しますけれどね」
「ふふふ、全くその通りにしておきたいわね」
奥へ続く道を歩くお香はなぜか店が明るくなった気がすると感じる。
それはお香から「下がるから、表を開けてちょうだいね」と言われた先の番頭も同じなのかもしれない。それほど、ゆづかは歓迎を受けているのだ。
それは全て、ゆづかが勇蔵とお香に子供にしたいと思わせた魅力と、夫婦二人の人徳なのだろう。
「ほらほらゆづか、目が赤くなるから擦っては」
「ふっう、うわああぁっん、ンっ」
「もう聞こえてませんね、これでは気が落ちてしまいますよ、ふふふ」
「うぁああんっふぁあん」
「お香、笑ってる場合じゃないだろう。そうなったらお前、どうするんだ。医者か………!どの医者を呼べばいいんだ!?いや、ここは川向こうの」
「まあ、そんな顔を青ざめさせて、ゆづかより先に医者が必要になりますよ。その時はそれこそ川向こうの先生を呼ばなきゃいけませんね。あらまあ、ゆづか、髪をこんなに乱してまあまあ」
茶を持って来た女中頭の耳には障子越しに聞こえる三者三様の声に、障子にかけようとした手を下ろす。
中からは大きな泣き声と、完全に焦り混じりで混乱している様にも聞こえる勇蔵の声、そしていつもと同じどこか抜けているのにやはり焦っている節があるお香の声が漏れてくる。
その会話に盆に乗せたそれを残しそっと立ち上がった女中頭は、傍に来た他の女中に桶に水と手ぬぐいをと言いつけ、「持ってきたらここへ、中に声をかけずに置いておく様に」と言えば声で判断出来たのだろう、その女中も笑って頷き奥へと消えた。
桶に入れる水は冷たい。しかしそれを入れている女中の心は何故かとてもほわりとした物を持っていた。
──────勇蔵もお香も頼り甲斐があるとても良い主である。
そう思っているのはこの女中だけではないだろう。
劣悪な環境だってある中で、ここは離れ難い職場であった。
雇い主である夫婦に信頼されているとは感じていたし、だからこそ心地よく仕事が出来ていて、自分たちもそうやって奉公人を心底大切にしてくれる主らを信頼して、ますます心地良くなる。その環境を作る主が自分たち奉公人をどう見ているか、それは言われずとも感じていた。
しかしその思いと言う事をはっきりと明確に、あそこまで言われた事はあまりなかった。
なのにゆづかを迎えるとなって、ああして言われる事が続けて二回だ。
正直誰もが驚いた。
夫婦が誰を養子にしても奉公人に相談まがいな事や、仮に見た目と事実の性別が違おうが、主なのだからし締めても良いと思うのに、彼らは夫婦二人で奉公人に話し伝えそして支えて欲しいと頭を下げる。
(そんな風に自然と行動したくなる、何かを持った子供なのだろうか)
そう思った奉公人達の答えは、ゆづかとそしてそれを支えて店の奥へと上がった勇蔵とお香が教えてくれた。
この家族を、私たちも守っていこう。
どうしてそう思えたのか。彼ら奉公人は同じ思いだ。
夫婦の人柄でもあり、自分たちへ向けてくれる信頼と愛情でもあり、そして不思議と魅力的な子供だから、自然と受け入れる事が出来たのだと。
桶に貯めた水にこの女中もそう思う。
そして早くこれを届けて、夕餉の支度に力を入れようと話す仲間の会話に加わりたいと急ぎ足で廊下を渡るのだ。
そんな気持ちのこもった手ぬぐいが縁にかかった桶が到着し、部屋の前に置いた女中が部屋の前から消えた後、泣き声まじりで自分を抱きしめる二人に
「わたし、わたし、がんばるからっわたし、ここにいたい、いたいよぉおっ」
と、ゆづかが言ったのはこの部屋にいた三人だけが知っている。
その言葉がどれだけこの家に大きな愛をもたらせたか、それを夫婦二人、気がつくのは直ぐの事だろう。
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