彼者誰時に溺れる

あこ

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★ 彼者誰時のあかぼし

前編

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「澤村奏って、あんた?」
偉そう、いや、な声で呼びかけられ、奏は足を止めた。
大体が、悲しい事に、こうして呼び止められると良い事なんてないのだが、奏はに呼び止められるなんて全く考えていなかったから不思議そうに振り返る。
「そうだけど、誰?」
奏を呼び止めたのは、今までのようなではなく、生意気そうな顔をしたであった。


奏を呼び止めた少年は、実に不快そうな顔で奏を睨み付けている。
奏はその顔にがあり、ああ、と声を上げた。
「あー、だ!そっくりだねー」
緊張感のかけらもない奏の声が路地裏に響く。
この少し先に龍二の事務所があり、呑気な声の奏はそこから出てきたところ。この奏の雰囲気とは反対に本日の護衛南智也みなみともやは凍りついていた。
「俺は母さんだけの子供じゃない!父さんの子供だ!」
睨み付けて言われても奏はキョトンとするだけで、相手は眉間にシワを寄せる。
「んー、だって、龍二さんに似てないもん。奥さんには似てるよ」
この言葉は彼──────龍二の息子にはだったのか、苛立ちを隠さず表情にも出す。
対して奏としては、どうしてこの発言でここまで怒るのかと心底考えている。なぜかと言えばそれは
「だって、龍二さんはして怒らないからなあ」
なのだ。彼は実に、のような様相だった。流石の奏もここを突きはしないようだが。
「それで、が俺になんのよう?」
護衛の智也が心で泣きながら現実逃避をしたいと思っている事を知らず、奏は路地裏の、薄暗くあまり綺麗ではないそこで呆れたように聞いた。
「黙ってられても、俺は察するつもりはないからね。何の用?用事がないなら俺ね、帰りたいんだけど」
一枚のオブラートにも包まない言い方に、息子──何せ奏は彼の名前を知らないし、彼も名前を告げていない──は眦をあげる。
「父さんを、返せ!」
「返せって、俺の家に毎日きてると思ってる?な訳ないでしょ?それ以外の日にどこにいるかなんて、俺は知らないよ。俺の家に来ない日は、奥さんに会いに帰ってるんじゃない?」
「そんなわけない!お前が父さんを家に帰さないんだろう!!!」
「そう言われてもなあ。ねえ、トモは知ってる?」
突然振られた智也は「いや、何も知らないっす!」と早口で否定した。
「じゃあどこにいるんだよ!なんで家に帰ってこないんだよ!んだって、俺は知ってるんだからな!」
怒鳴り声を上げる彼に奏は瞬いて、直ぐに意味を理解して笑い出す。
「は、あっはははは!なにそれ!それ、信じたの?うそでしょ?ほんと、龍二さんに何も似てないね!」
一頻り笑った奏は睨み付ける彼に
「今、いくつ?高校生?中学生?いいや、答えなさそうだから。トモ知ってる?」
またしても振られた智也は奏に「中学二年か三年っす」と小声で耳打ちをした。
「俺、行ってたら高校三年生なんだけどね?そうするとさ、俺ね、4くらいから龍二さんの愛人になってないと君のいう『俺が生まれる前から母さんから父さんを奪った』が成立しないんだけど」
「そんなわけあるか!母さんが言ってたんだ。父さんが帰ってこないのは、俺が生まれる前から」
「なら、あんたは誰の子なのさ。龍二さんが帰ってこなかったら、いつセックスしたの。なんでもいいけど、俺は龍二さんに中学生の時に買われたの。嘘だと思うなら、中町さんに聞いてよ。中町さんが信じられないなら、藤春家の誰かに聞けばいい」
藤春家まで出されるとは思っていなかったのか、彼が口を継ぐんだのを見て奏は大きく溜息をつく。
今の奏は呆れ返った様子を隠すつもりもないらしい。
「あのさ、君のね、俺前に別の人だったけどさ、見た事があるんだよね。君さ、学校で威張ってるでしょ。俺は椿田の息子だぞ的な。俺はヤクザの親分の息子だぞ、みたいなさ。俺もその感じで詰め寄ったら、君にすると思った?するわけないでしょ。だって、君、何も出来ないもん。そもそもただのヤクザの親分の息子なだけで、君が何か喚いて変わった?龍二さんの部下は君のお願い叶えてくれてるわけ?ないよね?龍二さんは部下にそんな事させないから。どうせ奥さんの実家の人が君のお願いを叶えまくってるんでしょ。それなら、言えば?『澤村奏を殺してよ』って」
矢継ぎ早に言われ、その上挑発まがいの発言までされて彼は
「なら言ってやる!後悔しろ!今更泣いても遅いからな!殺してやる!」
「やってみれば?その代わり、今度こそ君もお母さんも君のお母さんの実家も終わりになると思うよ?俺は別にいいけどね。すっきりしてとってもいいと思う!」
なにを!と怒鳴ろうとした彼は目の前に奏が移動してきていた事に目を丸くし、奏はそんな彼の胸をドンと叩いた。
もちろん、大層優しくだけれど。
「奥さんのわがままと言うか、なんと言うかで話は有名だよ。龍二さんは面倒事を避けたいっていう椿田の両親──────ああ、龍二さんは椿田さんの養子なんだけどね?その両親に負ける形で結婚したの。でもさ、君のお母さんとセックスしようとしたけど殺しそうだからって精子を提供しただけなんだよ。これも有名な話ね。で、君が出来た時に龍二さんは言ったらしいよ」

──────俺の手元で育てる。が流れてる俺の息子だ。

「ってさ。お母さんが龍二さんの血が流れる君を、自分の実家に近いところで育てようとしてたのは分かってたし、君のお母さんの事も実家の事も気に食わないところがあったから、龍二さんは自分に近いところで育てたかったんだよ。ついでにこれも知らないだろうけど、俺は君の存在を知って龍二さんの思いを知った時、って思ったんだよね。殺せなくって残念!」
「は!!!?」
怪訝な声で聞き返したのは智也である。
息子の方は声も出せず唖然としていた。
「龍二さん、血を分けた君の事は大切にしたかったんだよ。俺さ、ある程度の事には嫉妬しないんだよね。龍二さんが巽さんに過保護で甘くて優しくてなんでもしようとしてても嫉妬しないもん。でもさ、君は別。で大切にしようとして、愛情を持ってる。俺は君より愛されたい。嘘ばっかり信じる君に龍二さんに愛される資格なんてないんだから。だから死んでくれたらいいのになって思うよ」
捲し立てる奏は、彼の心臓付近を指で叩く。
笑みを浮かべながら、今にもその指で穴を開けそうな雰囲気に彼はごくりと喉を鳴らした。
「何にも知らないっていいよね。だって妄言信じて恨めばいいだけだもんね。さっきも言ったけどさ、俺は親に売られて、龍二さんに買われて、死ぬか愛するかの瀬戸際まで追い込まれて、今に至ってるわけ。でもね、龍二さんのために死んでもいいかなって思うくらいは、本当に愛してるんだよね。君は?君のお母さんは?何を愛してるの?本当に椿田龍二って何もない男を愛してるの?それとも椿田龍二って名前についてくるものを愛してるの?」
グッと心臓を押された彼が震えながら口を戦慄かせる。
「俺は龍二さんがただのおっさんになっても愛してるよ。むしろそうなればいいのになって思う。だから早く中町さんの息子さんがおっきくなって龍二さんの跡を継いでほしいなって思ってる」
「椿田を継ぐのは俺だ!」
「うーん、それは無理だよ」
「俺は父さんの実子なんだ。俺に決まってる!誰もが俺が跡取りだって俺に言ってるんだ!!!」
怒りに身を任せ彼は奏を殴ろうと手を振り上げた。
しかしその手は智也に捕まれ止められる。
何を、と彼が智也を睨むも智也は「俺は奏さんを守るためにいるんです。奏さんに危害を加えるなら何者からも守れと、組長、あなたのお父さんに言われているんです」と落ち着いた声で説明した。
「今の綾田組って、藤春さんが組長なんだよ、知ってるよね?つまり、実の子より別の人が適任ならそうする。ヤクザだってそうだよ。それに君のように自分自身の行動で人の上に立つわけじゃなくてさ、都合よく組の名前で偉そうにしたり、何も確かめず一方的な嘘で踊らされて憎み続けたり、そんな人が組長になったら組が潰れるよ。ま、そうなったらなったで、龍二さんがただのおっさんになって、俺と一緒にずーっといてくれるだろうから、俺はそれでもいいけどね」
フン、と鼻で笑った奏は早く解放されないかなと、汚い路地裏のコンクリートへぼんやりと視線を落とした。

自分の目の前で自分へ怒りをぶつける彼から父親を取るとか、妻から旦那を取るとか、奏は一切考えた事が無い。
そんな事を考えて罪悪感を感じ、龍二に反抗している余裕なんてなかったのだ。
傷つけられ大切にされ、暴力的な行為にあい優しくされ、心も体も蹂躙されては愛される。
そんな時間を昼夜問わず過ごしているうちに、奏は緩やかに緩やかに変わっていった。
そもそも、親に売られた時点で心が壊れかけていたのに、そこへ冷水と熱湯を浴びせかけるような毎日が始まったのだ。
おかしくなるなと言う方が無理であろう。
そうして奏は純粋で子どもらしい奏のままに、龍二を愛する少年に変わったのだ。
最初はきっと自己防衛本能であったりしただろうその感情は、今では正しく間違いない龍二への愛へと変わっている。
そもそも、龍二への愛が自己防衛から来たものかどうかなんて言う“些細な事”を悩む時期なんて当に過ぎていた。
そもそも、に対して悩む時期があったのかさえ、奏自身も分からない。悩む時間なんてないほどの目まぐるしい時間を過ごし落ち着いた時にはもう、奏は龍二の愛妾にかわっていたのだから。

「──────よ、ほんと」

奏の呟きは誰の耳にも入らない。

龍二が息子をどう思っているか。
奏の発言を彼は嘘だと思っていそうだけれど、あれは事実だ。
ヤクザで、綾田の夜叉などと呼ばれているあの男は、妻に対して愛情なんてひとかけらもないくせに提供しただけの精子が働いた結果生まれた我が子は大切にしようと思っていた。
今だってきっと思っている。
あの男はでありながら、息子には息子自身が思う人生を歩ませてやれたらいいのだろうなんて、誰にも言わなかったが考えていたのだ。
それは龍二が今も、そしてきっとこの先も傾倒し続ける藤春巽の姿を見ていたからかもしれない。
龍二は龍二なりに、息子の幸せを願おうとしているのだ。
彼の言動のせいでそれが一部の、本当に僅かな人間にしか知られていないだろうけれど、龍二は奏が彼の息子を殺したいなんて思わせるほど、息子の人生を思っている。
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