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ご主人様とにゃん
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山奥にぽかりと開けた場所がある。
人が到底簡単には──────人の案内があっても正しくたどり着けるかどうか分からないような山に、ぽかりと開けた場所がある。
その開けた場所には屋敷があった。
立派な屋敷の周りだけ屋敷に見合うように山の木々も設られ、この山には本来なかったのではないだろうかというような花々も咲き乱れていた。
屋敷の門をくぐると“途端に”人の声が聞こえてくる。
どうやらここの主人が“何やら施している”ようだ。
人の声だとしか認識出来なかったそれは敷地の中に入るに従って、明確な言葉として聞こえてくる。
「お猫様ー!」
「ねこさまー」
「どちらにお隠れですかー?」
どうやら、声の主たちは猫を探しているらしい。
お猫様と呼ばれ、使用人たちに探されている彼の姿は今、この立派な屋敷の屋根の上で見つける事が出来る。
彼は大きなあくびを一つし、眠そうな顔を手で擦っていた。
気持ちのいい日差しを浴び、再びうつらうつらと船を漕ぎ出した所に二羽のシジュウカラがやってきて
「はっけん!はっけん!」
「おねこさまをはっけん!」
二羽で代わる代わる、彼を探し庭に出てきている使用人に上空から彼の存在を知らせた。
その声に反応し屋根を見上げた使用人の一人が、屋根の上にいるお猫様に報告をする。
「お館様がお帰りになりますよ、お猫様。お館様がお帰りになりますよ!」
その言葉に反応した彼はピョンと飛び上がると一回転しそのまま庭に着地した。
庭はそれはきれいに整えられており、箒を持った下男と鋏を持った下男が突然上から降ってきた彼に驚き飛び上がる。
屋根から降りてきた彼は頭は白黒──────ハチワレと言われる模様の白黒猫、目は真っ青で美しく、首から下は少年の体躯だがきれいなしっぽが袴から飛び出していた。
そう、彼は使用人たちから『お猫様』と呼ばれていたように、確かに猫である。
「ご主人が?」
「ええ、そうでございますよ!」
猫の顔だが思いのほか表情が出て周りに伝わる彼に、使用人も笑顔で頷き応えた。
返事を聞いた途端、耳をピンと立てて何かに気がついた彼は慌てて裏門へ駆けていく。
使用人や下男たちが驚きその姿を見送ると、そこから離れた場所にある裏門付近で彼の歓声が上がった。
「ご主人!ご主人!おかえりなさい!!」
「ああ、遅くなってすまなかったね、ミケ」
「ご主人!」
裏門にいた下女の前で、お猫様改めミケのご主人ことお館様が飛びついてきたミケの体を抱きとめた。
おかえりの挨拶とこれはひとそろいでついている。
いつもみる光景だから下女の表情も柔らかく暖かい。
“普通”であれば表情に出さないように気をつけるべきかもしれない侍従や下男下女も、ここではミケの事もあってお館様直々に表情には出すようにと言われている。
特に、一部の使用人はそれを忠実に守っているので表情豊かにミケと向き合っていた。
「ミケ、変わりはなかったかな?」
「うんうん!ご主人がいなくてもやっぱりニボシはいつもの量だったし、ご飯に乗ってるかつぶしもいつもの量だったよ」
「なるほど。“それも”いつも通りだったんだね。ふふふ。他には何かあったかな?」
「シジュウカラたちとセキレイたちが『足の速さは鳥に必要か』を議論してた。それもご主人が出かけてからずっと」
「それはそれは。解決しないだろうね」
「お互い譲れないみたいだけど、ミケはどっちでもいいかなって思う。ミケが本気出せばシジュウさんたちもセキさんたちも、こうだから」
「それはこわい」
こう、と言ったミケは大きく口を開く。
とはいえ、ミケはこの屋敷に暮らしている小動物には一切手をかけないし、彼自身ここで暮らしてから苦労せずご飯にありつけるので屋敷の外でも小動物に手をかける事はないだろうけれど。
仮に本能に負けてちょっと遊んでしまっても、命は決して取らないだろう。
ご主人はミケを抱き上げたまま歩き出し、縁側から上がる。
すぐに下駄を下男が引き受け、ご主人の後ろには従者の一人が現れ後ろをついていく。
ミケが『ナナシさん』と名付けた彼にはそっくりな兄弟が幾人──ミケは兄弟が何人働いているかちゃんと数えた事がない──かここで働いていて、全員『ナナシでいい』というのでそっくり兄弟全員が『ナナシさん』である。
「ミケはお留守番を頑張ってくれたんだね、イイコイイコ」
やさしく頭を撫でてやるとミケの喉がゴロゴロと鳴り出す。
この辺りを含め、猫らしい面をもつミケをご主人は大層可愛がっていた。
そうでなければナナシさんたちに「ミケを守るように」なんてご主人は命じないだろうし、ミケのための使用人を“作ったり”もしなかっただろう。
ゴロゴログルグル、とミケが喉を鳴らしていく時間に比例してミケの首から上の部分がゆらめき始める。
「構わないよ、大丈夫。好きなようにおなり」
そのご主人の言葉を合図に、ミケの猫であった頭がポンッと音を立てて猫耳が生えた少年の顔に変化した。
髪は前髪が眉の上で真っ直ぐに整えられていて真ん中から白と黒で分かれており、他の部分は顎の辺りで切り揃えられていて白髪、今で言うインナーカラーは黒と見事に白黒猫の色を表現している。
顔には大きめの猫目、小さい鼻、口角が上がって見える少しだけ大きな口、上手に作られた人形のように愛らしい顔つきだ。
「恥ずかしいぃぃぃ」
ミケがご主人の肩に顔を押し付け、人になってしまった顔を隠す。
「ミケのその顔も愛らしくて私は好きだよ。隠さなくてもいいだろうに」
「ご主人にいがいに見せるのは恥ずかしくてむりむり。だってミケ、ミケがこの顔の時コロコロ表情変わるの知ってるんだよ。そんなコロコロ表情が変わる自分、みせられないよぉぉぉ。猫たるもの、表情は出さないかりうどなんだから」
「おやおや。私はそのミケが可愛くて好きだけどね」
「ご主人はいいの。ご主人だからね」
必死に顔を見せまいとするミケの言い分を聞いている、ご主人の後ろをついているナナシさんも、そして今到着したご主人の私室前で二人の到着を待っていた侍女も
──────猫のお顔の時も、お猫様は表情豊かでございますけれども……ええ、とっても豊かでございますけれども。
なんて思っていたのだけれど、これは彼の“猫の矜持”を慮って口にはせず心で留めた。
ここで働いている人間の何人もが『猫は表情豊かな生き物だった!』なんて発見をしたなんて、ミケは知りたくないだろうから。
侍女が開けた襖から私室へ入ったご主人は、いつものようにミケを膝の上に座らせる。
ミケを拾ってからずっとこれがミケの定位置だ。
ご主人に背を向けて座る格好になっているミケの前には菓子の代わりにニボシが二本と白湯、ご主人の横には饅頭と茶が置かれ、置いた侍女は静かに部屋を出ていく。
ナナシさんはご主人にちらりと文の束を見せてから、それを部屋の隅に置かれた文机の上の文箱にしまい入れてから二人に頭を下げ出ていった。
文箱の中に入った文の宛名が『隼』とされていたのをみると、ご主人の名は隼なのだろう。
しかし誰も彼をその名では呼ばない。ミケはあの通り『ご主人』で他は『お館様』だ。まれに『旦那様』とも呼ばれるが、彼を隼と呼ぶものは一人もいないのである。
けれどここではこれから先は“隼”としよう。
ミケは早速ニボシを一本指でつまみ、頭の部分を口に入れた。
その立派な大きさと香りから判断するに、きっといい値段の良いニボシなのだろう。
ミケはそれを少しの間しゃぶってから食べ始める。ゆっくり味わうにはこれがいいと彼なりに考えての食べ方だ。
何せ隼を含めここの人間は誰一人として、1日あたりのニボシの量を増やしてくれない。
可愛く甘えてもダメである。何をしても増やしてもらえないのだ。
だからミケは食べ方を工夫する事にした。
行儀が悪いと咎めるものもいないので──────と言っても半分猫のミケに行儀を問う人間もいなければ、どうやらミケにも譲れない猫学のようなものもあるのか、受け入れる事と受け入れない事があるようなのでニボシの食べ方に関してはきっと譲らないだろう。
「おいしそうだね、ミケ」
「ご主人になら少しあげてもいいよ。頭でいい?」
「いやいや、いらないよ。ミケのおやつを取り上げる事はしないよ」
見上げてくるミケに隼はそう言って、饅頭を半分割りそれをまた半分にすると、その一つ、四分の一になった饅頭をミケの残りのニボシの横に置いた。
「いい子にお留守番が出来たミケにご褒美」
「いいの?ミケ、あんこ大好き」
「知ってるよ。ミケはあんこが好きだものね」
「うん」
ミケは食べかけのニボシを皿に戻し、饅頭を口に放り込んだ。
大好きなあんこよりはニボシが好みなのだろう。ミケは好きなものは後に取っておく方だ。無意識らしくミケにその自覚はないようだけれど、この屋敷の人間のほぼ全ての人間が知っている事実である。
「そうだ。ミケにお土産を買ってきたんだよ」
モゴモゴと饅頭を食べているミケが隼を見上げる。
見上げて見えた隼の顔はいつものように、優しく微笑んでいた。
ミケの前で隼はいつだって優しく甘い顔をしている。これ以外の顔は見た事がない、とミケは思っていた。
「ほら、これだよ。ミケは頭を使う遊びが得意みたいだから、買ってきてみたんだ」
そう言ってどこからともなく隼はそれを出すと腕を伸ばしミケの前に広げてみせた。
「これは?木の板と本?」
「智恵板というおもちゃでね」
ミケは本を手に取って広げてみる。
そこには最低限の輪郭線で書かれた絵と、その上には絵がなんであるか示すために名前が書いてあった。
一頁に三つほどの絵が描かれていて、本の厚みを考えるとなかなかの量がありそうだ。
「その絵になるように、こっちの七枚の形の違う板を組み合わせて遊ぶんだそうだよ。答えは本の後ろに書いてあるから、答え合わせも出来るんだそうだ」
「すごい!楽しそう」
智恵板と言うのは、今で言うところのタングラムと同じ。つまりいろいろな形の板を並べ替え、本の手本の絵と同じ形にすればいい遊びである。
今街で頭を使って遊ぶ流行りのおもちゃだと聞き、隼は買ってきたのだ。
「そう言ってくれるといいな、と思って買ってきたからそう言ってもらえて嬉しいよ。よかった」
「ご主人からもらえるものはなんでも嬉しいよ」
「そうかい?次も何かいいものを見つけてこなければならないね」
「本当はご主人がお出かけしないのがいいけど、ご主人にはお仕事っていうのがあるらしいから難しいんだってね。だからミケはイイコで待ってるよ」
「可愛いことを言うね。なるべく早くお仕事を終わらせて帰ってくるように、私も頑張ろう」
「うんうん!」
満足のいく答えを聞けて嬉しくなったミケはゴロゴロと喉を鳴らし、半分まで食べたニボシをモグモグと食べながら本を開き一番最初の絵を作ろうと木の板を並べていく。
夢中になっていると一番大好きな隼も忘れてしまいがちなところがあるミケが、隼は可愛くて好きだ。
素直で健気で、好奇心が旺盛で、好きではないものにはそっけないあたりも、案外何とでも仲良くなってしまう──この屋敷の小動物との関係がいい例だろう──ところも、ミケの何もかもに隼は夢中になる。
自分を見つけると飛んできて抱っことせがみ、抱き上げていると嬉しそうに笑って、でも気になるものがあるとそっちに夢中になって。
その気ままな様を愛らしいと表現する以外になんと言えばいいのか、隼はいまだに分からない。
“野良”だったミケを保護し、ミケと名づけ、そして可愛がってきた。
今更野良ではなかったと言われて今までの飼い主が現れても、隼はミケを渡す気はない。
きっとナナシをはじめとする従者や侍女に命じて“なんとかする”だろう自分が簡単に浮かぶほど、溺愛している。
まさか仕事以外興味がないとか、世捨て人とか言われ呆れられた自分が──ちなみに、これは若干事実である──こんなふうに何かを可愛がるなんて隼自身思わなかった。
溺愛し始めた時はそんな自分が信じられず易で『天変一の前触れなのかどうか』を占ったほどだ。
「ご主人、できたよ」
思わず物思いに耽った隼に無邪気なミケが言う。
ミケは最初の図形を右の指で示し、左の指で作った形を示していた。
「これはこれは、すごい、よく出来ているね。ミケ」
「でもいちよう答え合わせして」
はい、と言ってミケは本を隼に渡す。
「私が答えを見てもいいのかな?」
「だって、ミケが見ちゃったら他の答えもみちゃうかもしれないでしょ?ミケ、興味ない事はきおくしないけど、覚えちゃったらつまんないもん」
「なるほど、なるほど。確かにそうだ!よしよし、どれ、私が確認しよう……すごい、ミケ、正解だよ!」
「やった!ほんと?やった!じゃあ、次もやるからご主人、本返して」
本を返してもらったミケはご機嫌で次の問題に挑んでいく。
「仕事以外興味がないなんて言われて同意した自分より、今の自分の方が私もよっぽども好きだなあ」
仕事の事を全て忘れて、ただただ幸せな時間に身を置く隼は耳をせわしなく動かし、大好きなニボシを残したまま懸命に智恵板に向かう愛猫をギュウと抱きしめた。
ミケのしっぽが『今はやめて』とブンブン揺れるのは、見なかった事にして。
人が到底簡単には──────人の案内があっても正しくたどり着けるかどうか分からないような山に、ぽかりと開けた場所がある。
その開けた場所には屋敷があった。
立派な屋敷の周りだけ屋敷に見合うように山の木々も設られ、この山には本来なかったのではないだろうかというような花々も咲き乱れていた。
屋敷の門をくぐると“途端に”人の声が聞こえてくる。
どうやらここの主人が“何やら施している”ようだ。
人の声だとしか認識出来なかったそれは敷地の中に入るに従って、明確な言葉として聞こえてくる。
「お猫様ー!」
「ねこさまー」
「どちらにお隠れですかー?」
どうやら、声の主たちは猫を探しているらしい。
お猫様と呼ばれ、使用人たちに探されている彼の姿は今、この立派な屋敷の屋根の上で見つける事が出来る。
彼は大きなあくびを一つし、眠そうな顔を手で擦っていた。
気持ちのいい日差しを浴び、再びうつらうつらと船を漕ぎ出した所に二羽のシジュウカラがやってきて
「はっけん!はっけん!」
「おねこさまをはっけん!」
二羽で代わる代わる、彼を探し庭に出てきている使用人に上空から彼の存在を知らせた。
その声に反応し屋根を見上げた使用人の一人が、屋根の上にいるお猫様に報告をする。
「お館様がお帰りになりますよ、お猫様。お館様がお帰りになりますよ!」
その言葉に反応した彼はピョンと飛び上がると一回転しそのまま庭に着地した。
庭はそれはきれいに整えられており、箒を持った下男と鋏を持った下男が突然上から降ってきた彼に驚き飛び上がる。
屋根から降りてきた彼は頭は白黒──────ハチワレと言われる模様の白黒猫、目は真っ青で美しく、首から下は少年の体躯だがきれいなしっぽが袴から飛び出していた。
そう、彼は使用人たちから『お猫様』と呼ばれていたように、確かに猫である。
「ご主人が?」
「ええ、そうでございますよ!」
猫の顔だが思いのほか表情が出て周りに伝わる彼に、使用人も笑顔で頷き応えた。
返事を聞いた途端、耳をピンと立てて何かに気がついた彼は慌てて裏門へ駆けていく。
使用人や下男たちが驚きその姿を見送ると、そこから離れた場所にある裏門付近で彼の歓声が上がった。
「ご主人!ご主人!おかえりなさい!!」
「ああ、遅くなってすまなかったね、ミケ」
「ご主人!」
裏門にいた下女の前で、お猫様改めミケのご主人ことお館様が飛びついてきたミケの体を抱きとめた。
おかえりの挨拶とこれはひとそろいでついている。
いつもみる光景だから下女の表情も柔らかく暖かい。
“普通”であれば表情に出さないように気をつけるべきかもしれない侍従や下男下女も、ここではミケの事もあってお館様直々に表情には出すようにと言われている。
特に、一部の使用人はそれを忠実に守っているので表情豊かにミケと向き合っていた。
「ミケ、変わりはなかったかな?」
「うんうん!ご主人がいなくてもやっぱりニボシはいつもの量だったし、ご飯に乗ってるかつぶしもいつもの量だったよ」
「なるほど。“それも”いつも通りだったんだね。ふふふ。他には何かあったかな?」
「シジュウカラたちとセキレイたちが『足の速さは鳥に必要か』を議論してた。それもご主人が出かけてからずっと」
「それはそれは。解決しないだろうね」
「お互い譲れないみたいだけど、ミケはどっちでもいいかなって思う。ミケが本気出せばシジュウさんたちもセキさんたちも、こうだから」
「それはこわい」
こう、と言ったミケは大きく口を開く。
とはいえ、ミケはこの屋敷に暮らしている小動物には一切手をかけないし、彼自身ここで暮らしてから苦労せずご飯にありつけるので屋敷の外でも小動物に手をかける事はないだろうけれど。
仮に本能に負けてちょっと遊んでしまっても、命は決して取らないだろう。
ご主人はミケを抱き上げたまま歩き出し、縁側から上がる。
すぐに下駄を下男が引き受け、ご主人の後ろには従者の一人が現れ後ろをついていく。
ミケが『ナナシさん』と名付けた彼にはそっくりな兄弟が幾人──ミケは兄弟が何人働いているかちゃんと数えた事がない──かここで働いていて、全員『ナナシでいい』というのでそっくり兄弟全員が『ナナシさん』である。
「ミケはお留守番を頑張ってくれたんだね、イイコイイコ」
やさしく頭を撫でてやるとミケの喉がゴロゴロと鳴り出す。
この辺りを含め、猫らしい面をもつミケをご主人は大層可愛がっていた。
そうでなければナナシさんたちに「ミケを守るように」なんてご主人は命じないだろうし、ミケのための使用人を“作ったり”もしなかっただろう。
ゴロゴログルグル、とミケが喉を鳴らしていく時間に比例してミケの首から上の部分がゆらめき始める。
「構わないよ、大丈夫。好きなようにおなり」
そのご主人の言葉を合図に、ミケの猫であった頭がポンッと音を立てて猫耳が生えた少年の顔に変化した。
髪は前髪が眉の上で真っ直ぐに整えられていて真ん中から白と黒で分かれており、他の部分は顎の辺りで切り揃えられていて白髪、今で言うインナーカラーは黒と見事に白黒猫の色を表現している。
顔には大きめの猫目、小さい鼻、口角が上がって見える少しだけ大きな口、上手に作られた人形のように愛らしい顔つきだ。
「恥ずかしいぃぃぃ」
ミケがご主人の肩に顔を押し付け、人になってしまった顔を隠す。
「ミケのその顔も愛らしくて私は好きだよ。隠さなくてもいいだろうに」
「ご主人にいがいに見せるのは恥ずかしくてむりむり。だってミケ、ミケがこの顔の時コロコロ表情変わるの知ってるんだよ。そんなコロコロ表情が変わる自分、みせられないよぉぉぉ。猫たるもの、表情は出さないかりうどなんだから」
「おやおや。私はそのミケが可愛くて好きだけどね」
「ご主人はいいの。ご主人だからね」
必死に顔を見せまいとするミケの言い分を聞いている、ご主人の後ろをついているナナシさんも、そして今到着したご主人の私室前で二人の到着を待っていた侍女も
──────猫のお顔の時も、お猫様は表情豊かでございますけれども……ええ、とっても豊かでございますけれども。
なんて思っていたのだけれど、これは彼の“猫の矜持”を慮って口にはせず心で留めた。
ここで働いている人間の何人もが『猫は表情豊かな生き物だった!』なんて発見をしたなんて、ミケは知りたくないだろうから。
侍女が開けた襖から私室へ入ったご主人は、いつものようにミケを膝の上に座らせる。
ミケを拾ってからずっとこれがミケの定位置だ。
ご主人に背を向けて座る格好になっているミケの前には菓子の代わりにニボシが二本と白湯、ご主人の横には饅頭と茶が置かれ、置いた侍女は静かに部屋を出ていく。
ナナシさんはご主人にちらりと文の束を見せてから、それを部屋の隅に置かれた文机の上の文箱にしまい入れてから二人に頭を下げ出ていった。
文箱の中に入った文の宛名が『隼』とされていたのをみると、ご主人の名は隼なのだろう。
しかし誰も彼をその名では呼ばない。ミケはあの通り『ご主人』で他は『お館様』だ。まれに『旦那様』とも呼ばれるが、彼を隼と呼ぶものは一人もいないのである。
けれどここではこれから先は“隼”としよう。
ミケは早速ニボシを一本指でつまみ、頭の部分を口に入れた。
その立派な大きさと香りから判断するに、きっといい値段の良いニボシなのだろう。
ミケはそれを少しの間しゃぶってから食べ始める。ゆっくり味わうにはこれがいいと彼なりに考えての食べ方だ。
何せ隼を含めここの人間は誰一人として、1日あたりのニボシの量を増やしてくれない。
可愛く甘えてもダメである。何をしても増やしてもらえないのだ。
だからミケは食べ方を工夫する事にした。
行儀が悪いと咎めるものもいないので──────と言っても半分猫のミケに行儀を問う人間もいなければ、どうやらミケにも譲れない猫学のようなものもあるのか、受け入れる事と受け入れない事があるようなのでニボシの食べ方に関してはきっと譲らないだろう。
「おいしそうだね、ミケ」
「ご主人になら少しあげてもいいよ。頭でいい?」
「いやいや、いらないよ。ミケのおやつを取り上げる事はしないよ」
見上げてくるミケに隼はそう言って、饅頭を半分割りそれをまた半分にすると、その一つ、四分の一になった饅頭をミケの残りのニボシの横に置いた。
「いい子にお留守番が出来たミケにご褒美」
「いいの?ミケ、あんこ大好き」
「知ってるよ。ミケはあんこが好きだものね」
「うん」
ミケは食べかけのニボシを皿に戻し、饅頭を口に放り込んだ。
大好きなあんこよりはニボシが好みなのだろう。ミケは好きなものは後に取っておく方だ。無意識らしくミケにその自覚はないようだけれど、この屋敷の人間のほぼ全ての人間が知っている事実である。
「そうだ。ミケにお土産を買ってきたんだよ」
モゴモゴと饅頭を食べているミケが隼を見上げる。
見上げて見えた隼の顔はいつものように、優しく微笑んでいた。
ミケの前で隼はいつだって優しく甘い顔をしている。これ以外の顔は見た事がない、とミケは思っていた。
「ほら、これだよ。ミケは頭を使う遊びが得意みたいだから、買ってきてみたんだ」
そう言ってどこからともなく隼はそれを出すと腕を伸ばしミケの前に広げてみせた。
「これは?木の板と本?」
「智恵板というおもちゃでね」
ミケは本を手に取って広げてみる。
そこには最低限の輪郭線で書かれた絵と、その上には絵がなんであるか示すために名前が書いてあった。
一頁に三つほどの絵が描かれていて、本の厚みを考えるとなかなかの量がありそうだ。
「その絵になるように、こっちの七枚の形の違う板を組み合わせて遊ぶんだそうだよ。答えは本の後ろに書いてあるから、答え合わせも出来るんだそうだ」
「すごい!楽しそう」
智恵板と言うのは、今で言うところのタングラムと同じ。つまりいろいろな形の板を並べ替え、本の手本の絵と同じ形にすればいい遊びである。
今街で頭を使って遊ぶ流行りのおもちゃだと聞き、隼は買ってきたのだ。
「そう言ってくれるといいな、と思って買ってきたからそう言ってもらえて嬉しいよ。よかった」
「ご主人からもらえるものはなんでも嬉しいよ」
「そうかい?次も何かいいものを見つけてこなければならないね」
「本当はご主人がお出かけしないのがいいけど、ご主人にはお仕事っていうのがあるらしいから難しいんだってね。だからミケはイイコで待ってるよ」
「可愛いことを言うね。なるべく早くお仕事を終わらせて帰ってくるように、私も頑張ろう」
「うんうん!」
満足のいく答えを聞けて嬉しくなったミケはゴロゴロと喉を鳴らし、半分まで食べたニボシをモグモグと食べながら本を開き一番最初の絵を作ろうと木の板を並べていく。
夢中になっていると一番大好きな隼も忘れてしまいがちなところがあるミケが、隼は可愛くて好きだ。
素直で健気で、好奇心が旺盛で、好きではないものにはそっけないあたりも、案外何とでも仲良くなってしまう──この屋敷の小動物との関係がいい例だろう──ところも、ミケの何もかもに隼は夢中になる。
自分を見つけると飛んできて抱っことせがみ、抱き上げていると嬉しそうに笑って、でも気になるものがあるとそっちに夢中になって。
その気ままな様を愛らしいと表現する以外になんと言えばいいのか、隼はいまだに分からない。
“野良”だったミケを保護し、ミケと名づけ、そして可愛がってきた。
今更野良ではなかったと言われて今までの飼い主が現れても、隼はミケを渡す気はない。
きっとナナシをはじめとする従者や侍女に命じて“なんとかする”だろう自分が簡単に浮かぶほど、溺愛している。
まさか仕事以外興味がないとか、世捨て人とか言われ呆れられた自分が──ちなみに、これは若干事実である──こんなふうに何かを可愛がるなんて隼自身思わなかった。
溺愛し始めた時はそんな自分が信じられず易で『天変一の前触れなのかどうか』を占ったほどだ。
「ご主人、できたよ」
思わず物思いに耽った隼に無邪気なミケが言う。
ミケは最初の図形を右の指で示し、左の指で作った形を示していた。
「これはこれは、すごい、よく出来ているね。ミケ」
「でもいちよう答え合わせして」
はい、と言ってミケは本を隼に渡す。
「私が答えを見てもいいのかな?」
「だって、ミケが見ちゃったら他の答えもみちゃうかもしれないでしょ?ミケ、興味ない事はきおくしないけど、覚えちゃったらつまんないもん」
「なるほど、なるほど。確かにそうだ!よしよし、どれ、私が確認しよう……すごい、ミケ、正解だよ!」
「やった!ほんと?やった!じゃあ、次もやるからご主人、本返して」
本を返してもらったミケはご機嫌で次の問題に挑んでいく。
「仕事以外興味がないなんて言われて同意した自分より、今の自分の方が私もよっぽども好きだなあ」
仕事の事を全て忘れて、ただただ幸せな時間に身を置く隼は耳をせわしなく動かし、大好きなニボシを残したまま懸命に智恵板に向かう愛猫をギュウと抱きしめた。
ミケのしっぽが『今はやめて』とブンブン揺れるのは、見なかった事にして。
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この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
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